サイン
「ああ、またサイン、サインか! まったく、いつになったらわしはこんな雑務から解放されるんだろうね……」
太郎が書類のたばをもって部屋へはいると、男爵はため息をついてペンを取り上げる。
どさりとデスクに積み上げられた書類の所定の箇所に、一枚、一枚サインをさらさらと記入した。書面の事項にはほとんど目を通さない。届けられた書類の大半は男爵が資金を出している慈善団体からの経営内容を記したものだった。男爵は慈善家であった。太郎はそんな男爵をじっと見つめ、しずかに待っている。
ようやくすべての書類にサインをいれた男爵は、ほっと息をついた。
「終わった……。まったく、こういう仕事は老人には骨だよ」
太郎は一礼してデスクの上に積み重ねられた書類をきちんと揃えると、くるりと回れ右をして出て行こうとした。
そのとき、男爵が片手をあげ太郎を呼び止めた。
「ああ、太郎君。ちょっと……」
なんでしょう、と太郎はふりむいた。
男爵は悪戯っぽい目つきになっている。
「ちょっと耳にしたんだが、美和子がこの家に──ああ、なんといったかな? その、家で劇場や映画をいながらにして見ることの出来る機械とかいうもの──」
「テレビ、でございましょうか?」
太郎が助け舟を出すと、男爵は勢い込んだ。
「そう、そう、テレビだよ! たしか、美和子がそんなこと言っておった! それを欲しがっているそうじゃな」
太郎はうなずいた。
「はい、お嬢さまはそのようなご希望をお持ちのようでした」
男爵の唇がにんまりと横にひろがった。
「そうか! 美和子に伝えておくれ。近いうちに電器店のものを呼ぶから、そのときテレビを家へ運び入れようとな!」
「そうですか、お嬢さまは大変お喜びなさると思います」
男爵はうん、うんと何度もうなずいていた。
失礼いたします、と太郎が男爵の部屋を出ようとしたその時、入れ替わりに木戸が入ってきた。扉を閉める直前、木戸の声が太郎の耳にはいった。
「男爵さま、折り入ってサインしていただきたい書類があるのですが……」
ちら、と室内をのぞきこむと、木戸がその長い上半身をおりまげるようにして男爵のデスクに一枚の書類を広げているところだった。男爵は老眼鏡をかけなおし、その書類に見入っている。木戸は太郎の視線を感じたのか、横目でこっちを見た!
はっ、と太郎は引き下がり、木戸の視線からのがれた。