格闘術
立ち止まった洋子は耳を澄ませた。
廊下の向こう側からかすかな足音が近づいてくる。足音はふたりである。
間違いない、あの足音は太郎だ。もうひとつは多分、美和子だろう。
小姓村の執事学校で、彼女は人の足音のリズムを覚える訓練を受けている。それにより、知り合いの足音を聞き分けることができるのだ。同じことを太郎もできるだろう。だからじぶんが近づいていることは、太郎もわかっているはずだ。
手合わせしてこい……。
ケン太の言葉が彼女の胸でこだまする。
ということは、太郎を倒せという命令だ。
ケン太さまの命令は絶対だ……。
洋子は急ぎ足になった。
ぴたり、と太郎は立ち止まった。
「どうしたの? 太郎さん」
しずかに、と太郎は手を挙げた。
無言の仕草に、緊張があらわれている。
「洋子です。近づいてきます」
「洋子さんって、あなたと同じ小姓村で執事学校でのクラスメートね。どうしてそれがわかるの?」
「足音のリズムでわかります。走っているようですね」
まあ……と美和子は口を丸くすぼめた。
「そんなことが判るの?」
はい、と太郎はうなずいた。
「そう訓練されていますから」
しかしいまの洋子はかつての知っていた彼女ではない。あの番長島でうけた”処置”により、人格変容を遂げているはずだ。
太郎はそれが心配だった。
ほどなく洋子が廊下の向こうから姿をあらわす。メイド服を身につけ、女の子らしい髪飾りをつけた彼女は、それだけならどこにでもいそうな感じである。
しかし顔は凍りついたような無表情を保っている。
「洋子……」
呼びかけた太郎の声が途切れた。
彼女はものも言わず、まっしぐらに太郎向けて駈けてくる。はっ、と太郎が身構えたのもかまわず、するどい前蹴りをしてきた。
さっ、と太郎はそれをかわすと、洋子は手刀でもって、首筋をねらってきた。
あわや、という瞬間、太郎は手の平で受け止めた。ぱしん、と鋭い音がひびく。
太郎は真剣な表情になっていた。
これは手ごわい!
かつて、執事学校での洋子は、格闘術の授業においては優等生ではなかった。生来の呑気さと、特有の人のよさがあって、他人を本気で攻撃できるような性格ではなかったのである。
しかし、いまの彼女はすべての優柔不断さをかなぐり捨て、太郎を倒すべく本気で攻撃してくる。
洋子はしゃにむに攻撃している。すべて、太郎の急所を狙っている。それを受け流す太郎の額に汗が浮かんでいた。
モニターに見入るケン太の顔に薄笑いが浮かんでいた。
うまくいった!
洋子は本気で太郎を攻撃している。執事学校で習ったという格闘術を使って。
いままで何度も執事学校の格闘術について耳にしたが、肝心なその動きについては何も判らなかった。
それがいま、ケン太の目の前にあらわになっている。
そうか、格闘術とはそういう動きをするのか。
ケン太は太郎と戦うことを想定し、洋子に立ち向かわせたのだ。その結果、洋子がどうなろうとも構わない。
いずれ太郎と美和子は、いま、じぶんがいるこの部屋を探し当てるだろう。その時、ケン太の計画は完成する。すべては美和子を手に入れるための、ケン太の計画であった。
飛行機を目にし、ふたりが出てきたのを望遠鏡で確認したとき、ケン太の計画は決まっていた。島でうろたえたあまり、美和子にあの”処置”を施すように言いつけたことをいまは後悔している。太郎の父親、只野五郎によって救出されることを想定していなかったのだ。
しかしいまは新たな計画にみちびかれ、美和子はケン太に会いにここへやってくるだろう。その時、ケン太はすべてを話すのだ。
なにを?
かれの愛を!
そう、高倉ケン太がいかに真行寺美和子を愛しているかを語るつもりなのだ。
かれはモニターを切り替えた。
廊下が映し出され、そこに勝と茜のふたりがいた。ケン太はかすかに眉をしかめた。
勝又勝、そして茜の兄妹か……。あのふたりはとんだ飛び入りだ。まあいい、なんとか処理できるだろう。ケン太はマイクを掴み寄せた。