敗北
「ねえ、どうすんのよ! いつまでも、ここにはいられないのよ!」
飛行機の座席で、茜は口を尖らせ、兄の勝に話しかけた。茜のとなりで、勝は青ざめた顔をぶるぶるとふった。
「駄目だ……とてもじゃねえが、こっから下にいけるわけ、ねえ……!」
かれの視線はまっすぐじぶんの膝に落ちていて、窓の外など一顧だにしようとはしない。茜はあーあ、とため息をついた。
「まったく兄貴にこんな弱点があったとは知らなかったわ……!」
情けない、という言葉を茜は飲み込んだ。さすがにそれは口には出来ない。
窓外に目をやった茜はぐいと身を乗り出した。
「あっ、あれ……太郎のお父さんが……」
妹の必死の口調に勝はぎくりと背をのばした。
「殺されちゃう!」
茜は口を手でおおう。
五郎と木戸の死闘を見おろしているのだ。木戸は五郎の上にのしかかり、長い腕を伸ばして首をしめあげている。樹の上から眺めていても、五郎の絶体絶命の状況はここからでも見て取れる。
ど、どうしようと茜は身動きをした。
その時。
ぼきり……と、枝が折れる音がした。
はっ、と勝は緊張した。
「おい……」
と、妹に声をかける。
なによ、と茜は勝に顔を向けた。
ばき……、もう一度音がする。
今度ははっきり、茜の耳にも達していた。
ふたりは顔を見合わせた。
ぎぎぎぎい……。
木の枝のしなるいやな音。
そしてどすん、とばかりに衝撃が突き上げる。
わあ、と勝は悲鳴をあげた。
どすん、また衝撃。
どす、どす、どすと飛行機は揺れていた。
「落っこちてる!」
勝は叫んでいた。
まさにその通り、飛行機をささえていた枝がその重みに耐えかね、折れてしまったのだ。
ばきばきばきとものすごい音を立て、飛行機は沈み込む。ざざざと葉ずれの音を立て、落ちていった。
きゃあ、と茜は悲鳴をあげていた。
どん、と下腹を突き上げる衝撃!
飛行機の乗っていた大木の幹を、飛行機は滑走して落ちていく。がたがたという震動に、ふたりは必死に座席にしがみついた。
「死ねえ!」
ぎりぎりぎりと木戸は五郎の首を締め上げる。もう、五郎は意識をほとんどなくしていた。
勝利を木戸は確信していた。
その時、背後から聞こえてくる音に木戸はふり向いた。
驚愕に木戸の顔がゆがむ。
飛行機が斜めになった大木の幹をすべり落ちてくる! しかもまっすぐこちらへ向かってくる!
「わわわ……!」
木戸は立ち上がった。
五郎は目を開いた。
ふう、と息を吸い込む。
ぱちぱちと瞬きをして、あたりを窺う。
その目が、迫ってくる飛行機をとらえた。
ものも言わず、五郎は身体を回転させ、その場から逃れる。
わずかの差で飛行機は五郎の側をすりぬけた。がつがつと車輪が地面を掘り返し、飛行機は横倒しになって停まった。
がちゃり、と飛行機のドアが開いた。
ころげ落ちるように、勝と茜のふたりが外へ飛び出す。地面に腹ばいになった勝は、たしかに安全な状態になったのを確認するかのように両手で地面をまさぐっていた。
五郎は立ち上がった。
目を見開いた。
木戸が地面にながながと手足を投げ出し、横たわっている。かれは飛行機の突進をかわしそこねたのだ。五郎は倒れている木戸に近づいた。腰をおろし、その顔を覗きこむ。
うう……、と木戸はうめいた。
生きている。
目を開くと、五郎の顔を見上げた。
くそ、と歯噛みすると、木戸は立ち上がろうと身動きした。
ぐっ、とその顔が苦痛にゆがむ。
くくくく……と苦痛をこらえ、足に手をやった。五郎は木戸のふとももに手を添えた。
「折れている。動かないほうがいいな」
「殺せ!」
木戸はつぶやいた。
「なにしている。おれを殺せ! 生きている限り、おれはお前を付けねらうぞ」
五郎は首をふった。
「馬鹿なことを言うな! あとで医者を呼んでやる。お前には悪いことをしたと思っているよ」
畜生、と木戸はつぶやいた。
そこへふらふらになって茜と勝が近づく。ふたりをふり返り、五郎は笑った。
「無事だったか!」
「無事だったか……じゃ、ないわよ。もう、死ぬかと思った……」
ちら、と倒れている木戸を見る。
「その人、木戸っていう人ね。真行寺の財産を騙し取った……」
木戸はかっとなった。
「何を言う! 何も知らないくせに……あれは合法だ!」
五郎はつぶやいた。
「さて、それはどうかな? いずれにしろ、あの書類は世間に知られているんだ。いずれ検察庁が動くことは間違いない」
その言葉に木戸は黙ってしまった。五郎はふたりに声をかけた。
「それより、太郎と美和子はすでに高倉邸の中へはいった。君らはどうする?」
「決まってらあ! おれたちも加勢するぜ!」
元気を取り戻した勝は威勢の良い声をあげた。その声に、五郎はくすりと笑った。
「そうか。それじゃ、わたしはこいつのために医者を呼びに行かないといけない。それにいろいろやることもあるしな」
「五郎さん、一緒に行かないの?」
茜は目を丸くした。
うん、と五郎はうなずいた。
「ああ、わたしは後から行く。まずは君たち、先に行った太郎と美和子さんと合流するんだね」
判った、とふたりは高倉邸へと歩いていった。茜はなんとなく、納得したようだった。それを見送り、五郎は高倉邸の正門へと足をむけた。
「待て!」
木戸が呼び止める。
なんだ、と五郎はふり返った。木戸の目には必死の色がある。
「お前……ケン太にあのことを言うつもりか? おれのことを」
「あのこと……?」
一瞬、五郎の顔に戸惑いが浮かんだが、すぐ首を横にした。
「いいや、言うつもりはないよ。しかしケン太のことだ、とっくに悟っているのではないかな?」
木戸は目を見開いた。そしてがっくりと首をたれる。
「そうだな……あいつのことだ……」
そんな木戸を、五郎は痛ましそうに見やったが、すぐ正門へと歩いていく。
医者を呼ぶつもりである。