(7)
後日談とまでは割り切って言えない話ではあるが、後にヘンリーから聞いたという点に注目すれば、大まかな意味としては伝わってくれるだろう。 そんな話──そんなひと段落。 何の意味を持つかも分からないわけではあるし、仮に後々の状況に彼女が関わって来るとしても──実際には近い未来に関わる事になるのだが、そんな事も分からぬ情けのない身で過去の出来事を過去として現状から過去を語っていくと──彼女。 彼女の話である。
「ふぅ」と、綺麗と言う言葉が似合わなくなるほど場の空気が安堵し、幸福な湯気が立ち上る大きな大浴場に1人、ヘンリーが湯に浸かる所から話は始まった。
「風呂なんか……久しぶりダナァ。 それにこんな所じゃあ、どうも落ち着かねぇヤ」
そう言いながら濡れた髪を掻き上げ、お湯を肩にかける。 気持ち良さそうに愉悦を楽しみ、本日の戦い……更には、激戦した本日の討論の疲れを癒していた。
──一言で言うと荷が重い、そう感じていたそうだ。 この襲い掛かって来る様な身体の負担がそう述べている。 ヘンリーがミサキに魅入られ、連れて行かれる際にも、多少触れたが、やはり彼には責任を背負うと言う、強いて言えば何千、何万の命を背負う……そんな器を残念ながら持ち合わせていなかったのだ。 まぁ、常識的に考えてみれば、17歳で初陣の青年が国を背負った戦争で自らの策を貫き通し会議を終えたと言うだけで褒め讃えるべき事である上、そこに器を求めるのは些か、図々しいと言った具合ではあるのだが。
結末を述べると彼の策……いや、正確には自分の案──南門に大多数の兵を置くと言う案がミサキの目に強く止まり、その流れで戦略が大幅改定、決定された。 その後に、少尉相当官待遇とも言われる愉悦を受けている最中である。
そして、事件が勃発したのもその大浴場の先であり──愉悦の先である。
「だいぶ、疲れも取れたシ……明日の為にも、そろそろ上がるカ」
「──随分と、釣れない事を言い出すな、ヘンリー少尉相当官。 もう少し、ゆっくりして行ってはどうだ?」
「……」
一瞬、思考が停止する。
その後に脳から脊髄に掛けての全ての機能が緊急事態の赤いブザーを盛大に鳴らし、我が身の危険信号と捉え、回復したばかりの全体力を使い、人として持てる機能を最速稼働させた。 一度、停止させた機能を再稼働させるのがこんなにも辛いものなのかと思い知らされ、もし、自分が電子発明部に配属された際には、機械に情が移ってしまい、役に立てそうに無いと感じてしまう。
ようやく、ようやくだ。 状況が呑めてくる──ミサキがいつの間にかにそこにいた。
「ぶー!」
盛大に吹き出してしまう。 ぶー!だなんて情けない。
「端ないぞ。 唾液を湯に飛ばすな。 私はまだ今日の湯に浸かってはいないのだからな」
「いや……その前ニ! なんで、なんでミサキさんが男湯に入って来るんダヨ!」
「何を言っているんだ? ここは混浴だぞ? 私がこの場で風呂に入る事は何の違和感も無い」
「そういう事は先に言えヨ!」
勢い良く立ち上がってしまったものの、ヘンリーのセクシーゾーンには、今現在、何の防具品も装備されていない事を自覚してしまう。 まるで、人気RPGゲームで新品の武器を買うだけ買って、装備せずに村を出てしまう様な……無垢な恥じらいに心が苛まれ、それを隠すかの様に湯に浸かり直す。
そんな一世一代の動揺劇にも目も触れず、自分の行為があたかも間違いなどない様に身体を流すミサキ。 いや、ミサキの言っていた混浴と言う情報が真実であれば、間違っていたのはヘンリーであり、責任を背負わなければならないのも又、ヘンリーである──だからと言って、幾ら何でもタオルの1つも羽織って来ないのは、些か無防備過ぎる。
湯気の凡庸な澱みにも負けず劣らない、黒光りとした(ここでの黒光りには下心は微塵もない)、一目で見て取れる程の細く柔らかい長髪。
ぬるま湯に濡れ(ここでの濡れには下心は微塵もない)、閃光の如く輝く、兵士とも思えぬ白く柔らかそうな肌。
戦で邪魔になりそうな程の豊満に揺れ動く胸。
数々の肉体改造を施しているのにも関わらず、対悪魔的魅力を確立させる細い足。
それでいて、無機質な仮面を張り付いた様な美人。 彼女を笑顔を想像する、それだけで至極の幸福を得られるだろう。
正に、芸術作品のそれであった。
ヘンリーにもう少しでも野性の本能が根付いていればここで襲われてもおかしくはない。
「ここの大浴場は、上級貴族や王族様々なんかも裸で湯に戯れた神聖な場所でもあるんだぞ」
「戯れたって……どうゆう事ダヨ」
身体を湯で流し終え、ヘンリーの目の前で何の気遣いもなく濡れた輝かしい長髪をまとめるミサキの行動を、ただただ無心で(本質的に無心であったかは定かでは無いが)事を過ごす。
おっぱいがね……おっぱいが目の前で揺れてるんですよ、お姉さん。 勘弁してくれよ、上司様。
そう思いながら、ぼうっと視線の先を逸らす事に全神経を注いでいると──どぼん、と鈍い音が聞こえ、大きな大浴場には波紋が無限に広がっている。 気付くとすぐそこまで迫っていた天使の裸体がそこにはない……。 本能的に、今現在の出来事が幻覚であったことを自覚し、現実に意識を戻そうとしたその最中。
目の前で水面が膨らみ、それを割るようにして、ミサキの顔面が目の前に現れる。 つい先程、団子結びにしたばかりの髪が解け、白い肌にぴしっと張り付いている。
「ぷふ〜、どうだ? びっくりしただろう? んん? 驚いてはみせてくれないのか?」
そんな事を言いながら少しだけ口角を上げ、不敵な笑みの様なものを見せる。 笑う事に慣れていないのか、その行為は何処か不自然であったが、決まってそれが不似合いな訳では無い。
……むしろヘンリーにとってそれは、今日1番の極上でもあったかも知れない。
それ程の笑顔。
そんな程度の破壊力。
「いや……キャラがどうも読み切れネェヨ」
「キャラか……そんなもの意識した事が無かったな。 これでも女の子だから、初登場の際にはタピオカミルクティーでも持ってみようなんて考えてはいたんだがな」
「時代背景まで狂わせる気ですカ」
そんな悠長な雰囲気に惑わされ、意識が追いつかなかったが、いつの間にか、ミサキはヘンリーに背を預け、更には体重を寄り添わせて来たのだ。 それを直感してしまう度、彼女のシャンプーの甘い匂いが嗅覚を刺激する度に、ヘンリーの意識は何処かへ行ってしまいそうになる。
「一度、こんなどデカい大浴場に頭から飛び込んで見たかったのだ。 子供の時からの夢が叶ったよ。 ありがとう」
「アンタ……本当に何者ダヨ」
「ちなみに、今、勃起したらここがお前の墓場になるぞ」
「……マジ?」
「その位のわがままは許される……逆説的に言えば、その程度のお役所番犬さ……大した存在じゃあない。 ふふ♪」
背を向けていて、ミサキの顔を確認出来なかった為、想像の話にはなってしまうのだが、またもや、不敵で不自然な笑みを浮かべている事が手に取るように感じられた。 しかし、その声の調子からすると、どこか……いや、何かの後ろめたさの様な感覚を感じる。
まるで、彼女の軍事的背景に、何かの悲劇がある様な、そんな印象が見て取れる。
「なぁ、ミサキさんヨォ……」
「何も悟るな、何も聞くな、何も口にするな──いいから黙って目を閉じろ」
直線的に普段の殺伐とした、棘のある声に戻り、まるで彼女の声帯が二人分ある様に感じてしまう。
ミサキの命令を素直に聞き入れ、静かに目を閉じ、漆黒の中に意識を落とす。 先程まで、血圧が興奮で人間の限界値まで上がっていたのが急速に低下していくのが自らでも感じる事を可能にした。
まるで、それが彼女の魔法の様な。
一息置き、「なぁ」っと色気のある声がヘンリーの耳に突き刺さる。 滞りなく低下していた筈の血圧が、またもや富士の山を昇るように駆け上がっていく。 メロスが沈み行く太陽の10倍の速さで走ると、衝撃波を伴うと言う話をどこかで耳にしたが、多分それ程の感覚で訳が分からない。
「あの戦略……『贋の錆』が考えたんだってな」
目を閉じ、何も口にせず、コクッと小さく頷く──その時だった。 側頭骨の両脇に手を添えられ、一瞬にして、唇に柔らかく熱い何かを押し付けられる。 次いで下唇を優しく吸われ、上唇を甘噛みされ、息が苦しくなり口を開く。 すると、ヘンリーの口の中に舌が何の躊躇も無くお邪魔をしては、部屋の家具をぐちゃぐちゃに掻き乱した。 ヌルっとした舌が絡み合う感触と、丁度、心の臓の辺りに押し付けられている巨白玉が快楽天を精一杯に揺さぶる。 これがギャグ漫画であれば、恐らく致死量の鼻血を噴水の如く吹き出していただろう。 興奮と恐怖心が心臓の働きを異常増長させ、身体の崩壊すらも覚悟する。
事が終わり、息が途切れるまま、またもや彼女は、耳元で甘い声を刃物の様に振り回していた──
──一方、ほぼ同時刻である。 月夜の明かりに照らされ、そこに映し出されるのは、1つの無残な死体。 自分はそれを眺めていた。
喉元を一刺し。 当然、即死である。 服が重くなる程の返り血を浴び、手には人など殺す事の出来ない程の小さく弱々しい小動物の様なナイフをあろう事か、血で染める。
「やっぱりぃ、違うんだよな。 これじゃあ、僕が間違いだ」
一言、そんな事を言って見ても現状は何も変わらない。 決して、罪悪感を感じている訳でもなく、怒りで我を忘れた訳でもない──そこには自信があり、自分は至って冷静だ。
「間違ってる……か。 間違い。 間違い。 生きてる事すらも間違い」
──一方、ヘンリーとミサキのいる大浴場。
快楽と失落の交差する、絡み合いの隙間聞こえる『贋の錆』。 その名を口にしていた。
「『贋の錆』、アレクサンダー・チカチーロについて教えてくれ──」
何の躊躇いも無くそう言った後、彼女はもう一度、ヘンリーにキスをした──
──そして、場面は月明かり。 2度、3度……止めること無く、ナイフを死体に振り翳す。 傷口から血が溢れんばかりで、何の反応も無い。
「間違い……間違い間違い……間違い間違い間違い……間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い間違い」
──一瞬、視界が真っ白になる。
「間違ってるのはこの国だ!」
月明かりに照らされるも、死後硬直を始める人形のそれは、既に血を流す事を辞めていた。
それでも続けた。 刺して刺して刺して刺し続けた。 しかし。 しかし、自分の中には何の変化も起きようとしない──ここで再度、視界が狭くなり、空白を彩る様にして、自らの視力を奪い始める。 今回のそれは、先程の突発的な現象とは違い……じわじわと、まるで何かで自分を蝕んでいるかの如くに白く滲ませていく。 それと同時に何も今までの記憶を吹き飛ばす程の酷い耳鳴りまでが自分の身体を襲う。 頭が割れる程の頭痛に苛まれ、思わず「うぅぅぅ」っと唸りを上げて、頭を抱え、血まみれのその死体にも構わず蹲る──このまま、飲み込まれてしまおうか。
何に?──それは知らない。 この美しい月明かりとでも洒落こんでおこう。
どうして?──それもこの場では分からない。 自分が何故、ここまで苦しい思いをして存在を確立させているのか……それすらも少し覚束無い蔑みとなりそうだ。
いや、知っている。
知っているし、分かっている。 だがその根源となる核がどうも見当たらないのだ。
何故……何故だ。 何故、先程、自分を父親に重ねてしまったのだ?
耐えきれない頭痛と耳鳴りが交差をし続け、そんないとも簡単なアイデンティティの極論に達してしまう。
「誰か……助けてくれ」
悲痛な言葉でさえ、目の前の死体にすら届かず月明かりすらも雲に隠れる──すると、ふと脳内に浮かび上がるヘンリーの顔。
ここで、何が自分とヘンリーを繋ぎ合わせているか、自分と彼は何処に同等性を共感しているのかに気付き出す。
自分は……自分は恐らく、この高揚と恐怖の交差を求めているのだ。
今宵は月が綺麗だ。 なぁ? ヘンリー。