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贋の錆  作者: 幸 真中
「獣人計画」真相編
25/26

(25)

 そこは暗くて冷たいところだった。 少し湿気のある、恐怖の残りそうな悪寒は、妖怪の一体でも出てきて欲しくなる程、中途半端で曖昧なものだった。

 そんな空間に自分はいた。 ガタガタの椅子に雑な紐で、これでもかってくらいに厳重に縛り付けられていた。 紐の粗めが肌を擦り、少しだけ揺れる様な痛みがした。

 しかし、やはりそれは痛みのみだった。 傷や赤みができることは決してなかったのだ。 紐の擦れは自分に微かな痛みを与えるだけで、かすり傷程度なら、物の数秒で回復するようになっていた。 皮膚が擦れて、傷ができて、完治をする……それらが数え切れないほどに繰り返され、既に手首と紐が癒着を始めていた。

 どれだけの時間が流れたのかは、想像もできなかった。 この陰鬱な空間に、心までは飲み込まれまいと必死に精神を保っていたせいか、だんだん意識が細くなっていくように感じて仕方なかった。 この暗闇と無限に続いているような時間が、重なっていくようだった。

 これで幾度目か、乱暴にも体を揺すり、紐を解こうとした。 しかし、結果は同様で現状は何も変わらなかった──すると、腹の下から煮え爛れそうな何かが沸き上がってきた。

 その正体は明白だった。 自分一人では抱えきれないほどの、膨大な怒心だった。 爆発しそうなほど激怒していたのだ。

 彼らの対応に。

 手段を択ばぬ非道さに。

 彼らは、絶対的に道徳が欠けていた。


 *


「──その代わり、条件があります」

「……条件?」

 眉を顰める堕僧侶が、無計画にもオウム返しをしてきた。 列車体はいつもと何も変わらない状態で揺れ続け、まるで非常事態を知らせていないようだった。

「あぁ、生け捕りが望ましいんだろう? ならば、例え捕まろうとも、少々は手厚く扱ってくれそうだ。 それに今ここで僕たちが暴れだしたら、勝ち負けはともかく、お互い傷を負うのか必須だろう?」

「……条件とは何だ?」

 この、絶体絶命の状況下の打開の突破口とも言える道筋が見え始め、ほんの少しだけ口角を上げた。 意図的に先ほど破いた服の縫い目をいじりながら話を続ける。

「まず、第一に本都……もとい、あなた達の雇い主までの僕の生命の保証」

「それはもちろんだ。 君の捕獲が完了され次第、君の身の安全は確実に守られる。 我々も雇い主への会わせる顔、というものがあるからな」

 堕僧侶が、即答した。 今もまだ、服の縫い目をかき回し続けていた。 縫い目が解れ始め、蛸の足のようにひらひらと宙に舞っていた。

「そっか、よかった。 じゃあ、条件はあと二つ。 まず、一つはこの僕の後ろにいる一人の女の子、オリビアちゃんのジントニック本都まで、無事に無傷での生還をさせること。 必要ならばそれらの援助も厭わないこと。 僕としては、この条件を一番守ってほしいかな」

「……──」彼らは、何故かそれらの突拍子もない条件に更に顔を顰めていた。

 彼らが彼女になにを強いようとしたのかは分からないが、膨大な不安と違和感を感じていた。 揺れる列車の窓ガラスは自分たちのことなんかは知りもしないかのように、細かく揺れ動いていた。 いつまでもかき回し続けていた服の縫い目は、一本の長い糸となって指に絡まっていた。

「ねぇ……お兄ちゃん、どういうこと? 私の代わりにお兄ちゃんが犠牲になるってこと? ……そんなの、絶対に嫌だよ」

 オリビアがぴったり自分の背中にくっついて、低い姿勢から大きく瞳を開いていた。 彼女の眼には、涙が溜まっていた。

 その姿が、遠くに行ってしまいそうな小さな顔が、とても愛おしそうになる位可愛らしかった。

「ねぇ、なんか言ってよ! 私、そんなの絶対に従わないから!」

「今、そんなわがまま言ってられる状況じゃあないだろ。 それに……僕は絶対死なないよ」

「そんなの分かんないじゃん! だってあっちに行ったって、ひどい事されるに決まってんじゃん。 その反動で死んじゃうことだって……」

 その時には既に、オリビアは絶えることもなく、泣き叫んでいた。 泣きながら、ぎゅっと自分の服を握りしめていた。 少しだけかわいくて、不謹慎ながらもう少し見ていたくなった。

「死なないんだよ。 僕は……」

「──なんで、なんでそんなことが言えるの?」

「なんでもさ。 さぁ、最後の条件です。 堕僧侶の皆さん、準備はいいですか?」

 オリビアから離れ、細かく揺れ動く窓のガラスの方へと近づいた。 少しだけ寂しさが彼女から香っていたが、別段なにも、気にすることはなかった。 既に周りの風景は汚い飲食店が無尽蔵に、右往左往に立ち並び、それらを列車で通り過ぎてぼやけていた。

 列車の窓の一つに、ぴったりくっ付きそれを睨む。 窓に薄く映った自分の顔が、ひどく醜く怖かった。

 すぐに心が恐怖で満たされ、溢れた。 しかしなんでも、その行動を止めようとはしなかった。 それだけ行動にはリスクもあったが、それだけ自信があった。

 首からは、反対の脇にかけて、服の解れた紐を輪上に長く結んだものをぶら下げていた。

「これは、君たちに聞いてもわからない話だから、正確に依頼するなら君たちの雇い主に伝えてほしいこと、なんだけれど……」

 そうして、対面していた窓のガラスに思いっきり頭を打ち付けた。 思ってたよりガラスはひどく柔らかく、いとも簡単にそれらは割れた。 額はガラスの破片で切れ血が至る所から流れていたが、特に意識に問題はなかった。

 列車から、必然的に顔を出した。 延々と暴力的な風が顔を殴り続け、髪の毛を靡かせ続けていた。首から脇にかけての長いひもも窓の外にひらひら止まっていた。

 すると急だった──ここは周りの目線からものを語るほうがわかりやすいだろう。 オリビアから見た自分は、恐らく、魔法のように一瞬にして上半身……正確に言うなら紐を掛けていた首から脇にかけて、綺麗に切断され、消えてなくなっていたのだ。 血が見たこともないほど周りに散らばり、まるで自分の体がおもちゃのようにじたばたしていた。 自殺したのだ。 自らに掛けた長い紐を窓から顔を出し、列車の線路にかけ、走る列車の反動で胸囲当たりの身体を切断したのだ。 紐がうまく線路に引っかかるか、身体の強度に紐の強度に敗北して、紐が切断されてしまうのだろうか……そんな不安要素は何個も抱えていたが、何はともあれ、成功した。

「きゃあああああ! お兄ちゃん、なんで! なんで!」

 オリビアが、カタカタした動きでぎりぎり延長生命している自分に近づいてきた。 鮮明な血の雨を綺麗なまでに顔体に大量に浴びた。

 思えば、オリビアは自分の身体の異端性について、知ってはいなかった。

 ローライト州の襲撃の際も彼女は意識が朦朧としていたし、負った傷は脱臼のみであり、遠目からじゃ気づけるはずもなかった。 オオカミ男の真実も、テトラ・シャルル・アンリの正体も彼女には何一つも伝えていない。 彼女は何も知らないがゆえに、死体となった自分に近づいた。

 これについては、堕僧侶も同一の条件であった。 列車は人身事故につれ急停止し、堕僧侶達は、体勢を崩し、そのまま唖然としていた。 本都ではないにしろ随分と街中を走っていたため、野次馬が多数集まっていた。 列車も完全に停止し、駅員たちが乗客の安全をしている。 再発信する目処はまだ全然立っていなかった。

 もちろん、それらの足止めも考慮もしていた。 堕僧侶が本都、もといテトラの場所まで時間を労するとすれば、口約束などを反故にしかねない彼らから、オリビアを逃がす時間稼ぎになれる筈だと考えたのだ。

 意識が、段々と戻ってきた。 ぐつぐつと、粘土造りのように上半身が生成されていった。

 言うなら、永久機関のようだった。

 衣服迄もは回復しなかったが、身体状態は、五分ほどで意識が戻るまでに回復した。 一度は完全に絶命した筈の命が、ものの数分で新たな命すらも、生成されてしまったのだ。 オリビアや、堕僧侶は自らの身体の異常回復力、『混じっている』身体、『バーサーク化』の事実を知らないと切り捨てたが、案外、自分も自分自身の異常性に知らない謎が多数存在した。

 ……僕は、僕のことを知らない、とはっきり思ってしまったのだ。

「──……さぁ、最後の条件です」完全回復した自分に、あまりの異端体に恐れをなし、少しだけ後ずさりをしていた。 自分に恐れる堕僧侶達を見て、少しだけ優越感に浸っていた。

「な、な、なんだ! 何が、目的だ!」

「……」大きく息を吸い込んだ。

「僕の体について教えてください……──」


 *


 そんな条件は一つも飲まれず、今、自分は暗闇に監禁されている。

 オリビアも現在、彼らの(しもべ)に幽閉され、今もまだどこかで犯され続けていながらも──。

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