兄妹
「にの……にの!」
「え……?」
ぱちくりと瞬きをする。目の前に迫っていたのは一葉の顔だ。
「え、と……?」
「にの、さっきからぼーっとしてたよ。どうしたの?」
「あ……。ごめんなさい、大丈夫です。」
しばらくじーっと日向を見つめていた一葉は、戸惑う日向にふわりと笑いかける。
「そっか。よかったー。」
へへっと笑った一葉は安心したようにほっと息をついた。
一葉の“ちょんまげ”がふわりふわりと風に揺れる。
龍の寿命は非常に長く、五百年以上生きた龍もいるという。
龍は神からの使いであり、守るべきもののある場所で生まれる。現赤龍王炎里は百年以上前の三ノ姫のもとで、現青龍王の雪乃は三百年近く前の一ノ姫のもとで生まれたといわれている。
そして、現緑龍王一葉は、先代の一ノ姫、紫音のもとで生まれた。
一葉にとって、先代の一ノ姫は母だ。心優しき一ノ姫に甘えて育った一葉は、日向や炎里に“いつかイチノ様の役に立ってみせる”と宣言していた。
しかし、一葉が一人前の緑龍王になる前に一ノ姫はこの世を去ってしまった。
先代の一ノ姫、紫音の最期の言葉を日向は知らない。しかし、大体の予想はついてしまう。
「三ノ姫と二ノ姫を頼みます。」
恐らく、紫音はそう言い残したのだろう。彼女は実の娘のように二人を可愛がっていたのだから。
一ノ姫のことだ、次代の一ノ姫が見つかる前に三ノ姫が先立つ可能性に気づいていたのだろう。だから、三匹の龍に姫、特に二ノ姫のことを頼んだ。
先代一ノ姫は未来が見える。そう言われるくらい、賢い人だった。
あまり多くは話さない人だったから、何を思い生きていたのかは分からない。しかし、死後陽和国の国民たちが二ノ姫にどのような感情を抱くのか気付いていたのだろう。
思わぬところで一ノ姫の、日向にとっては母の残した思いを知ってしまう。
例えば、そう、三匹の龍の“偽りの”優しさのような。
「……にの。」
一葉の声。ふと横を向くと、一葉がにっと笑っていた。
「にの、街へ行こう?」
「え、街……!?」
三匹の龍の本当の思い、陽和国の街の人々の二ノ姫に対する思いを知って以来、日向は一度も街に出掛けていない。
街の人々の二ノ姫に対する評価を聞くことが怖くて、どうしても足が動かなくなってしまうのだ。
「はい、にの、これ!」
ふわりと頭に被せられた布。白いそれは日差しの強い陽和国の夏に女性たちが日除けにと使う日除け布だ。
少し夏には早い気がしたが、一葉の真意を理解している日向はおとなしくそれで髪を隠す。
日向の容姿は太陽神アーシャそのものだ。実際に二ノ姫を見たことのあるものがいなくても、太陽神アーシャの姿はみんなが知っている。
黒い髪の珍しい陽和国では、すぐに日向がニノ姫だと分かってしまうだろう。
黒い髪さえ隠してしまえば二ノ姫だとは分からない。緋色の瞳は陽和国では珍しいものはなないからだ。
「にの!」
一葉が差し出した小さな手に、日向は手を伸ばそうとして……途中で止めてしまう。
“怖い、街に行くことが。”
日向の表情に現れた恐怖の色に、一葉は困惑する。
一葉はいつも、日向に優しくしてくれた。先代の一ノ姫を母のように慕っていた一葉は紫音の残した言葉に忠実に従っているのだ。
だからこうして、日向を一ノ姫の亡くなる前の日向に戻そうとしてくれる。
「にの、五年待ったよ。」
一葉の呟いた言葉に、日向ははっと顔を上げる。若草色の瞳が、揺れる。
五年。一ノ姫紫音と三ノ姫、夏香が亡くなって、五年。
日向ももう十四歳になる。成人まで、あと一年。
一ノ姫と三ノ姫が亡くなり、まだ子供だった日向は政治のほとんどを三匹の龍に任せたままにしていた。しかし、十五歳を迎えれば日向も政治に関わる権利を持つ。王として政治に関わらなければならない。
国民の前に立つことのできないものが、王として認められるだろうか。
震える手を伸ばし、日向は一葉の小さな手を握る。緋色の瞳で、一葉を見つめて。
「私を、街に、連れて行ってください。」
目を丸くして日向を見つめていた一葉。
驚きの表情は、やがて嬉しそうな笑みに変わる。
「行こう、にの!」
手を繋いだまま、一葉と日向は歩き始めた。
ゆっくりと、ゆっくりと。