夢
「にのちゃん……。こちらへいらっしゃい。一緒にお茶にしましょう。」
「にの、早く来い。」
「……今、準備をする。」
「ほらほら、行こっ!」
――ああ、また夢を見ているのか。
「お菓子は、そうねえ。」
「この間届いたやつにするか?」
「……私が取ってきましょう。」
「僕の分はたっぷりとね!」
――永遠に続けばいいと思っていた、夢。
「では、お願いできますか?」
――私は勘違いしていたのだ。この穏やかな日々は、私が愛されている証拠だと。
「ああ、任せろ!」
「……仰せのままに。」
「うん、分かったよ!」
「イチノ様!」
――私は“ニノ”でしかなかったのだ。
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「天に届け、この祈り。我が陽和国がこの大地に在り続けますように。」
大陸の東端に陽和国。その名の由来は、大陸でもっとも早く朝を迎えるからだという。
三人の姫と姫を守る三匹の龍を王とする陽和国。この国の姫の選び方はかなり特殊だ。
陽和国に生まれた女の子は五歳の誕生日にある場所を訪れる。
それは、太陽の城と呼ばれる王の城だ。
太陽の城には特殊な魔法がかかっている。その魔法のために、正門以外からは姫のみしか入れなくなっている。
城の正門は常に閉められたまま。つまり、太陽の城に入った者は姫としての資格を持つ、ということだ。
その太陽の城の聖堂にて、一人の少女が祈りを捧げていた。
流れる黒い髪には艶があり、肌はなめらかに白く光る。純白のドレスは質素なものだが、汚れ一つない綺麗な代物だ。
伏せられた顔、僅かに開かれた目から見える、緋色の瞳。
その少女の姿は、太陽神アーシャの姿そのものだった。
「相変わらず祈りだなんて、律儀なやつ。」
不意に聞こえた声に、少女ははっと目を見開く。
きょろきょろと辺りを見回した少女は、一人の青年の姿に慌てて礼をとる。
「炎里様。」
消え入るような、か弱い声。その声に青年はむっと眉を寄せる。
朱色の髪に、朱色の瞳。体格のよい青年は、その体ほどの大きさの大剣を軽々と持ち上げている。
それは、決して人間では成し得ない業。青年が姫を守る龍の一匹、赤龍だからこそ成せる業だ。
「俺は炎里だ。様なんかつけんじゃねーの。おい、さっさと顔を上げろ。」
少女は顔を上げ、びくりと肩を震わせる。
炎里の顔は人並み以上に整っている。美男子には違いないが、しかし、目が釣り上っていて怖い印象も同時に与えている。
ちょっと眉を寄せただけで激怒している風に見えるため、少女は炎里が恐ろしくて堪らないのだ。
「またそうやって怯えがって。だからな――」
「……炎里、言葉を正しなさい。怯えるのは貴方のせいですよ。」
少女の背後から、すっと冷気のような何かが流れてくる。ひやっとした感覚に、少女は別の意味で恐怖を覚えた。
「雪乃。てめーこそ怯えさせてんじゃねえのか?」
「……全くの心外です。私は貴方のような言葉遣いはしませんよ。」
ふ、と笑った雪乃は少女の隣に立ち、蒼の瞳で見下ろしてくる。
「……少しくらい、言い返せばどうですか。」
「雪乃様、私は……。」
「……いえ、構いません。」
興味を失ったように反らした目。一歩前に出た雪乃の背後で、少女は申し訳なさそうに俯いた。
雪乃はすらりとした細身の体の青年だ。一つに括られた長い髪は、太陽の光に蒼く照らされている。
無表情美男子という評価を炎里から受ける雪乃は、姫を守る龍の一匹、青龍だ。
「おい雪乃、そこをどけ。俺が話してーのはてめーじゃねえよ。」
「……残念ながら、私は貴方に用事があります。」
「残念、だと?てめーは俺への用事がそんなに嫌いなのかよ。」
「……ええ、その通り。嫌いで仕方ありません。」
「ふざけんなよ、てめーは――」
「はーい、そこまでにしましょうねー。」
口論になる炎里と雪乃の間に小さな体が入り込む。
若草色の瞳が、じっと二人を見上げている。小さくも愛らしい表情の持ち主の緑の前髪は一つに括られ、ひょこひょこと揺れている。本人いわく、ちょんまげらしい。
「口論なんてやめた方がいいですよね!」
笑顔で同意を求められ、少女は困ったように頷く。
「はい、一葉様……。」
「うーん、様は僕は好きじゃないなー。」
笑顔のまま、困ったように一葉は首を傾げる。
炎里と雪乃に比べるとまだまだ子供だが、一葉も立派な姫を守る龍の一匹、緑龍だ。
「とにかく、ここから離れようか!」
「え!?」
一葉はぎゅっと少女の手を握り、扉に向かって走り始める。
「おい、待て、にの!」
「……一葉、にのを守りなさい。」
「ほらほら、早く走るよ、にの!」
緋色の瞳は見開かれ、黒い髪が光に揺れる。
「わ、私は……。」
思った言葉も告げられぬまま、聖堂をあとにする少女。
少女は現在陽和国で唯一の姫。
ニノ姫、にの。本名を日向といった。
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「全く、二人もお子様だよねー。僕を見習ってほしいよ。」
日向と一葉は、太陽の城を出たところにある湖に来ていた。水面に映る日向の表情は、ひどく落ち込んでいるように見える。
「一葉様、悪いのは炎里様でも雪乃様でもありません。悪いのは、私、ですから……。」
日向は自分のはっきりものの言えない性格が嫌いだ。どうしても周りの様子を気にしてしまい、思ったことを口に出来ずにいる。
もともとあまり話さない性格だったのだが、それは、自分が愛されていなかったことを知り、余計にひどくなったように感じる。
日向がニノ姫に任命された当時、太陽の城には今の三匹の龍の他に、一ノ姫と三ノ姫が住んでいた。
家族から隔離された太陽の城の中で、一ノ姫は母のように、三ノ姫は姉のように可愛がってくれた。
一ノ姫も三ノ姫も、惜しみなく愛情を注いでくれた。だから、自分は愛されていると思い込んでいたのだ。
運命の日は、突然やってきた。
一ノ姫が倒れ、三匹の龍に見守られながら息を引き取った。
その一月後、病弱な三ノ姫も倒れ、懸命な介護も効果がなく、帰らぬ人となった。
ニノ姫は陽和国の唯一の姫となった。
ある夜、日向がその話を聞いたのは偶然の出来事だった。
「だから、誰か特例を作り一ノ姫を立てるべきだといってんだ!聞こえないのか!」
「……聞こえている。却下だ。」
「てめー、じゃあどうするってんだよ!」
聞こえてくる怒鳴り声に、日向は足を止める。この声は炎里と雪乃のものだ。
当時から二人は口論ばかりしていた。そのため日向はそのまま立ち去ろうとした、のだが。
「にの一人で一体何ができるんだよ!」
にの。自分の呼び名が出てきたことで、日向の足が止まり、動けなくなる。
頭では聞いては駄目だと警鐘が鳴り響いているというのに。
「……確かに、ニノ姫ではこの国を治めることも、他国から守ることもできない。何か策を考える必要がある。」
雪乃の言葉に、はっと目を見開く。
ニノ姫の役職は、一ノ姫の補佐。一ノ姫が存在しなければ、ニノ姫は不必要。
むしろ、三匹の龍の動きを抑制してしまう邪魔者だ。
どうして気付かなかったのだろう、と自分を責める。母と姉を亡くして悲しんでいたからなんて、ただの言い訳だ。
姫である以上、陽和国のことを第一に考えなくてはならない。それさえできないのなら、それは本当に三匹の龍のお荷物だ。
「だから臨時の姫を――」
「……四六時中城の門を開けておくつもりか。それではにのの命が危ない。」
「それは――」
「にのの命が危ないのは問題だよね。ニノ姫だもん。」
二人の口論の間に割って入ったのは、一葉の声だ。
「さすがに姫が一人もいねーのは問題だからな。」
「……それには同意する。」
「そうだよね、それに――」
「イチノ様に頼まれちゃったら、断れないもんねー。」
何気なく一葉の言い放った言葉に、日向は衝撃を受けた。
自分は愛されていると思っていた。母と姉を失った後も変わらぬ優しさを、愛情だと思っていたのだ。
一ノ姫と三ノ姫から注がれた愛情は、本物だと信じたい。しかし、三匹の龍は違っていた。
彼らは、日向がニノ姫だから、一ノ姫に頼まれたから優しく接してくれていたのだ。
思わず日向は太陽の城を飛び出した。入ることは困難な城だが、出ることは簡単にできる。
日向はどうすればいいかも分からず、街に飛び出していた。
「この国、どうなっちまうんだろうな。」
「全くだよ、太陽の城にニノ姫しかいなくなっちゃうなんてね。」
「役立たずのニノ姫なんて、さっさと追い払って特例の一ノ姫を立てればいいのになあ。」
「龍王様も、何をしてるんだか。ニノ姫に同情でもしてるのかしら。」
街中の声、声、声。
そのすべてがニノ姫を責めるものに聞こえてしまうのは、幻聴だろうか。
ニノ姫は役に立たない、むしろ特例の姫を立てる邪魔をしていると街中の人が話しているように聞こえてしまう。
否、実際そうなのかもしれない。
本物のニノ姫よりも、一般人から選び出した一ノ姫の方が役に立つのは明らかだ。
顔を伏せたまま、日向は街を駆け抜けた。
遠くへ、遠くへ行きたい、そう願って。
しかし、所詮は姫の足。
一人では街を出ることすら叶わず、人気のない路地に座り込んでしまった。
「私は、愛されてなど、いなかった……。」
一ノ姫と三ノ姫は愛してくれていたかもしれない。でも、二人はもうどこにも存在しない。
愛してくれる人など、どこにもいない。
「私の、馬鹿な、“夢”でしか、なかった!」
愛されるなど、ただの夢。自分の作りだした、ただの幻想。
涙が止まらない、嗚咽を抑えられない。
苦しいなら、ずっと“夢”を見ていたかった!
「……探しましたよ、にの。」
落ち着いた声に、顔を上げる。
相変わらず無表情の雪乃に、怒っているような炎里。心配顔の一葉。
三匹の龍は、日向を探してくれていた。
「勝手に消えるなよな、驚くんだよ。」
「そうだよー。探したんだよー。」
「……どう、して。」
答えなど、決まっているというのに。
聞いてしまった自分は馬鹿だ、と日向は思う。
「……ニノ姫が消えてしまっては困ります。“イチノ様”が悲しみますよ。」
三匹の龍の中心は、いつでも変わらず“一ノ姫”。
その愛情が二ノ姫にまわってくることなどないのだろう。
「……炎里様、雪乃様、一葉様。」
呟いた言葉に、三匹の龍が目を見開く。あの無表情美男子の雪乃さえも。
しかし、日向はそれには気付かない。それほどまでに、偽りの笑みを作るのに必死だった。
「私は一ノ姫様のようにはなれませんが、この国のために出来ることをしていきます。
どうか、どうか……。見捨てないで、ください。」
愛されるなど、求めてはいけない。見捨てられなければ、それでいい。
「にの……?」
誰の呟きかなんて、知らない。知らなくていい。
私はニノ姫、邪魔な姫。“夢”を信じた、愚かな姫。