【第7話】
「速い……」
僕は楽しくて雄叫びを上げたい気持ちを必死で抑えてアクセルを踏んだ。
照り返しで焼けたアスファルトの温度がシートの下から感じられるくらい低い目線に、猛スピードで飛び込んでくる景色は、人間を離れた違う生き物になった気分になる。
それは男も女もFtMも、性別など何も関係ない。
ここにいる時間は全てを忘れ、そして誰もが平等に走ることだけに全てを注ぐのだ。
あっと言う間の五分間、時間終了の合図のチェッカーフラッグが振られた。
カートから降りると腕がだるくて力が入らず、ヘルメットの中は五月の陽気と緊張で汗だくになっていた。
横Gで固いシートに押し付けられた骨盤の突起した部分が少し傷む。
ふらふらと縺れそうな足をようやく運んでロビーに入ると、レーシングスーツと呼ぶに相応しい華麗な黄色いツナギを纏った男が、スポーツドリンクを飲んでいた。
赤いカートに乗っていた人だ。
「キミ、女の子なのに凄いね」
彼はツナギのジッパーを開け、上半身だけを脱いでTシャツ姿になるとツナギの袖の部分を腰に巻きつけながら笑った。
「今日が初めて?」
「はぁ」
僕は愛想笑いを浮かべて応えた。
「やっぱり、女の子は自重が軽いから有利だよね」
「そう言うもんなんですか」
僕はなるほど、と言った具合で肯いた。が、壁に掛けられた大きな鏡に映った僕は、髪の毛が乱れ、まるでセックスの後の火照った顔で気だるく微笑む少女のようだった。
その時受付の天野千夏が僕に近づいてきて
「はい、おめでとう」
そう言って小さな名刺大のカードを差し出した。
「ライセンスカードだよ」
ぽかんと口を開けたままカードを見つめる僕に向かってツナギの彼が言った。
「このカードはラップタイムで45秒を切ると、お渡しするんです。ステップアップして90CCの カートに乗る事ができるライセンスなんですよ。それと、持込のカート使用もOKになります。その場合は会員に入会する必要があるんですけどね」
千夏は丁寧に説明してくれて、一緒に各周のラップタイムデータをプリントアウトした用紙をくれた。
四ラップ目に44,669という数字が見えた。
(めっちゃ、ぎりぎりじゃん……)
しかし、初日でライセンスカードを発行した女性は僕が初めてだそうだ。
まぁ、中味は「彼女」じゃ無いからね……
それにしても、一周たった45秒前後しかかからないとは思わなかった。走っているともっと長い 時間を掛けて一周しているように感じる。
しかし、制限時間の五分間はあっという間にやって来る。
「キミ、高校生だろ」
「ええ」
ツナギの彼に訊かれたまま僕は応えた。
「あ、えっと……」
「あ、ごめん。俺、柳川龍二。宜しく」
僕が呼び名に困っていたと思ったのか彼は自己紹介した。
「あ、お…… あたし、刑部真夕です」さっき迄のアグレッシブな余韻で、僕は危なく「俺」と言いそうになった。
龍二は白い歯を見せて外の陽気のようにさわやかに笑った。
「柳川君はレースもやっているんだ」
最初に声を掛けてくれた、ピットの作業ツナギを着た彼が割って入った。
龍二は運送会社でトラックを運転する側、プライベーターとしてCARTレースに参戦しているそうだ。
それにしても、「彼女」の身体がこんなに脆く根を上げるとは、それにCARTの運転がこんなにも体力を消耗させるとは思っても見なかった。
モータースポーツは確かにスポーツだと思った。
僕はラップタイムのプリント用紙を綺麗に四つ折りにしてカバンにしまうと、ジャージ姿のままプレハブ小屋のロビーを出た。
「またいらしてね」
千夏の声に振り返り軽く会釈した時、龍二が再びコースに出て行く姿が見えた。