【第6話】
「カート、興味あるの?」
少し汗ばんだ顔で笑いながらツナギの彼が言った。
「これって、普通の人も乗れるんですか?」
「みんな、普通の人だよ」
みんな普通の人…… どう言う意味だろう。ミハエル・シューマッハだって、佐藤琢磨だって見方によれば普通の人だ。
僕の訊き方に問題があったようだ。
「乗ってみるかい」
彼の言葉に、僕は思わず大きく瞬きをした。
「えっ、乗れるんですか?」
「ああ、誰でもね。ビジターだと5分で千五百円。会員になると二時間4千円で乗り放題も選べるよ」
「カートは貸してくれるんですか」
「もちろん。ほとんどの人はレンタルカートを使ってるよ。あのツナギの彼と彼は自分のカートだけどね」
彼は、サーキットの中を指で指して言った。
「自分のカート」
よく見ると、レーシングスーツを来た人のカートは、赤や黄色でペイントされハンドルも青いが、 他のカートは小さな白いカウルが着いているだけで各パーツもシンプルだ。
しかも自前のカートは、目の前のストレートを駆け抜けるスピードが白いカートとは全然違う。
それでも、レンタルでいいから乗ってみたかった。
僕はカバンからCOACHの黒い財布を取り出して中身を確認した。
所持金は4558円…… 乗れる。
「あの…… 乗ってみたいんですけど」
僕は、手すりに寄り掛かりながらタバコを吹かしていた彼に言った。
「そう。いいよ。でも、スカートじゃ…… ジャージ貸そうか」
「あ、大丈夫です。ジャージ持ってますから、着替えます」
僕はそう言って、彼の後について階段を降りると、横のプレハブ小屋に入って1500円を払い、書類にサインして、女性用ロッカーで学校ジャージに着替えた。
「そこのヘルメット使っていいですから」
着替えを済ませてロビーに出てきた僕に、ヘルメットが複数並んだ棚を指差して受付の女性が言った。
明るい茶色の髪を後で束ね、化粧は少し濃い目だが、小柄で目のパッチリとしたかわいい感じの人だ。
僕が幾つかのヘルメットを被ってみて、一番ぐらつかないものを選ぶと、彼女が受け付けカウンターから出てきて顎紐の締め方を教えてくれた。
彼女はTシャツにナイロン生地のスタッフジャンパーを羽織ったラフな格好をしていたが、甘いミントのような不思議な香りがした。
思わず首からぶら下げたスタッフIDを見ると、天野千夏と言う名前らしい。
「あと、これ」
そう言って彼女は小さな女性用サイズの軍手を貸してくれた。
「今日はこれで我慢してね。本当はドライビンググローブの方が、ハンドルにシックリくるんだけど」
彼女は笑顔でグッツ販売のコーナーに視線を送ったので、僕もその視線が示す場所を見た。
ドライビンググローブはS/M/Lのサイズが在ったが、値段を見るとどれも6千円前後だったので、僕は思わず途方に暮れた。
「黄色い旗が振られたら注意走行。赤旗は……」と彼女が簡単にフラッグの説明をしてくれた。
その時、走り終えた二人の男がロビーに戻ってきて、興奮覚めやらぬといった感じで言葉を交し合っている。
自販機でジュースを買いながら僕を盗み見る二人の男の視線は「おいおい、このオネェチャン走るのか」といった感じだ。
壁に掛かった大きな鏡に映し出された僕の姿は、155センチの小さな身体に大きなヘルメット……昔のB級SF映画に出てくる宇宙人のようだ…… しかも、学校ジャージ……
「ピットへどうぞ」
さっきのツナギの彼に呼ばれて僕はピットに出る。
「フラッグの説明は受けたね」
僕はハイと応えた
「彼が、一周先導するから後ろについて、その時走行ラインを良く見て真似してね」
彼は優しく笑顔で説明してくれた。
既にエンジンのかかったカートのバケットシートに腰を埋める。
グラスファイバーでできたガチガチに硬いシートは、見た目よりも遥かに低い位置にある。まるで地べたに座る感じだ。
足を伸ばすと、ただの棒状のアクセルとブレーキのペダルにかろうじでつま先がかかる。
(これで、大丈夫なのだろうか……)そう思っていると、ツナギの彼がウレタンのパッドを幾つか持ってきてくれた。
「このパッドを挟むといいよ」
腰の両サイドに一枚ずつ、もう一枚を腰の後に入れると、妙にシックリ来てペダルもさっきより踏みやすい感じだ。
「じゃぁ、いきます」
僕の前に陣取っていた先導係りの、赤と黒の、背中にBridgestoneと書かれたツナギを着た男性が声を掛けてカートをスタートさせた。
初めての体験を目前に僕の心臓の鼓動は最高潮に達して破裂しそうに高まる。
足の先がカタカタと微かに震えていた。
先導係の彼の跡を追って、僕もアクセルバーを少しずつ踏み込んだ。
エンジンが軽い唸りを上げると、遠心クラッチが作動してガグンッという軽いショックと共に車が走り出す。
遊園地で体験したスピード感はあっという間に通り越して、それでも先導する彼は離れていく。
アクセルを更に深く踏み込むとエンジンが高らかに唸りを上げて地を這うような景色は後へ飛んでいく。
コーナーで先導係が大きくスピードを緩めたので一気に差が詰まった。
僕は彼と同じ様に外側の縁せきギリギリからハンドルを切る。
「重い・・・・」 思わず声に出た。
ほぼ直結ギヤ比のノンパワステと、スリックタイヤのグリップ力でハンドルは異常に重い。
しかしほんの少しの切り角で、カートの鼻先はグンッとイン側に切り込む。
S字を越えて緩い左の次は急激に回り込んだヘアピンカーブが左・右と連続する。
さすがに大きな切り角を要する為、重いハンドルを力いっぱい切る。
大きな切り角といっても九十度、しかしたった九十度ハンドルを切るのに異常な腕力を要する。
緩い右カーブを抜けるとバックストレートに入り加速力が背中を押す。
先導係りに置いて行かれないようにアクセルを踏み込む。
黒鉄色のような、ザラついたアスファルトの川がめまぐるしく流れている。
このストレートがどれ位の長さなのか、視線の低さから来る錯覚により、まったく目測出来ない。
白い月の浮かぶ青い空も、直ぐ横のフェンス越しに鬱蒼と茂る緑一色の草むらも、目を向ける余裕など一切無い。
(何キロくらい出ているんだろう。まるで全力で走っている犬の目線のようだ)
低い目線によって、体感する速度は実測の二倍以上だそうだ。
先導の彼はスピードを緩める事無くストレートエンドの右の直角コーナーに飛び込んで行く。
(ノーブレーキって事…… 曲がれるのか……)
僕は恐怖心から少しだけアクセルを戻して左端のギリギリ外側からイン側の縁せきに向かってハンドルを切る。
切るというよりもあてるといった程度だ。
理想のコーナリングはアウト・イン・アウト。マンガで見たことがある。
か細い首に遠心力がかかり、ヘルメットの為に何時もよりも重い頭が持って行かれそうになりながら堪える。
イン側の縁せきを舐めるように通過して外側に膨らんだ頃、再び今度は右・左の緩いカーブを連続で通過した。
その直後、先導のカートが急減速をする。
次の左カーブは三角定規の先のように鋭角だった。
慌ててブレーキを踏んだ僕のカートは右に向かって遠心力が残っていた為、ロックしたリヤタイヤが急激に外側へスライドした。
カートのブレーキがリヤにしか無い事をこの時僕は知らなかった。
反射的にカウンターを当ててなんとか急場を凌いだ。
後で聞いた話だが、カウンターステアと言うのは、誰でも反射的に行う行為らしい。
ただ、その的確な角度は、熟練によって培われるのだと言う。
よたよたしながら左の鋭角コーナーを抜けると、緩い右の後に、短いストレートがあって、その先にある最終コーナーが見えた。
先導のカートは最終コーナーからピットロードに入ると、先導係の彼が僕に腕を大きく振って「どうぞ走って下さい」と言うゼスチャーを見せる。
最終コーナーを立ち上がったホームストレートを今度はアクセル全開で通過した。