【第47話】最終話
(Dear Girl)
日に日に空は高くなり、道端の茂みが黄緑色から枯れ葉色に変りつつあった。
その風景とは裏腹に、10月に入っても強く輝く太陽の光は、素肌にチクチクと刺さるように紫外線を照りつけていた。
日曜日にしては早起きした僕は、パジャマのままベランダから外を一望した後、リーバイスのジーンズと、アヴィレックスのTシャツに着替えてキッチンへと下りた。
「ごめんね。今日、観にいけなくて」
久々に朝食を一緒に食べる母が、申し訳無さそうに言った。
「別にいいよ。かえって、恥ずかしい。友達が何人か来てくれるし」
僕は、ミルクのいっぱい入ったコーヒーを飲みながらトーストを齧る。
前の晩、和弥から携帯に電話があった。
「明日、俺も観に行くから」
「部活、あるんじゃないの」
「そんなの、休み、休み」
彼は、そう言って笑っていた。朋子が一緒に来るのかは訊かなかった。
香織からも電話が来て
「明日、何時に行けばいいんだっけ?」
と、少し惚けた事を言っていた。
彼女は、以前と変わりなく元気な声で、弾むように喋る。
最近は、ちょくちょく秀雄のバイクの後に乗って出かけるらしい。
「あいつ、ケバイ化粧はすんなって、ウルサイのよ」
幸せそうに、香織はそんな愚痴を溢す。
その証拠に、彼女のメイクは一頃に比べると、かなりナチュラルになった。そんな彼女に僕は
「明日は秀雄と一緒に来なさい」と言ってやった。
だから、秀雄から電話があった時は、
「香織の事、頼むよ」とだけ言った。
秀雄はただ笑っていたが、照れて頭をかいている様子が目に浮かんで、なんとなく可笑しくなった。
朝食後に歯を磨いていたら、携帯の着メロが鳴って
「もしもし」
千夏だ。
「あ、起きてた?」
「もう、出るところだよ」
「いちおう、心配だったから」
知り合った頃からそうだが、彼女はけっこう世話焼きタイプだ。
「じゃあ、後で」
そう言って僕は電話を切る。
「怪我だけは気を付けてね」
キッチンへ戻った僕に、母は少しだけ心配そうに言う。
「大丈夫。けっこう安全なんだよ」
僕は、カップに少し残っていたコーヒーを飲み干すと
「じゃぁ、出かけるから」
そう言って長袖のシャツを羽織り、ツナギとヘルメットの入った大きなバッグを肩に担いで玄関へ向かう。
今日は心待ちにしていた、カートのサンデーレースの日だ。
「ねぇ、マユ」
玄関先で母が呼び止めた。
「何?」
玄関の上り口に腰掛け、スニーカーの紐を結びながら僕は振り向いた。
「性転換すると、男性の戸籍に出来るのよ。お母さんは、別に反対しないからね」
以前クリニックで再検査を受けた際の正式な検査結果が、1週間前に送付されてきた。
保護者宛に、治療法の事例などを丁寧に説明した書類が入っていたのを、夜中に母が真剣な顔付きで見ていた。
わざわざ再検査をした理由を母に訊かれたが、適当に誤魔化して本当の理由は言わなかった。
母を心配させたくは無いし、父と兄に関する話は、もうしない方がいいと思ったから。
僕はただ、個別の魂の確認をしたかっただけなのだ。
レーシング・カートなどという、男っぽい事に夢中になっている僕が、よっぽど男になりたがっていると、母は思ったのだろう。
確かに、心と身体が相違する違和感は消えないし、今後どうなっていくのか考えると不安になる。
この身体では、当然、将来女性と結婚する事も出来ないし、かといって、男性と結婚する気はまったく無い。
勇気が無いと言ってしまえばそれまでかも知れない。
症状は多様で、その個人差がかなりある為、他の人がどう言う道を選んでも、否定する気は無い。
むしろ、その努力と覚悟に尊敬するだろう。
ただ、左手だけで車椅子の車輪を回していた直向なサヤカの姿と、あの無垢な笑顔を思い出した時、結婚や男女交際の為だけに、もちろん精神的ストレスはそれだけでは無いのだが…… 健康な身体にメスを入れる事が、僕自身、あまりにも贅沢な行為に感じてしまうのだ。
性転換手術をしなければ、戸籍上の性別の変更を認められないのが、今の日本の現状で、戸籍の性別を変えたいが為に、気の進まない外科的療法を受ける人もいると言う。
それに、なんと言っても、いままで17年間一緒に過ごして来たこの身体。そう簡単にあちこちを切りたくもない。
そして、何よりもこの僕が、この華奢だけれども、ちょっぴり色気のある「彼女」の身体を意外と気に入っている。という事かもしれない。
そう、今は、まだ……
僕は立ち上がって玄関のドアを開けると
「大丈夫だよ! あたし、この身体、けっこう好きだからサ」
刑部真夕は、そう言って振り返ると、とびっきりの笑顔を母に返して見せた。
秋の晴れ渡る陽射しの下、僕は少しだけ空を仰いで眩しげに目を細めると、いかにも女性らしい小さな足で、自転車のペダルを力強く踏み込んだ。
Dear Girl END
この異色な作品を思いの他たくさんの人に読んでいいただいた事を、大変感謝いたします。この作品は性同一性障害の症例を事細かに描いた作品ではありません。あくまでも、GIDは主人公のキャラクターの一部であり、そこに関わる同世代の人々との、恋愛感情を中心とした交流を描いた作品です。自分なりに資料を集め、独自の理解に架空の可能性などを加えながら、内容が暗くならないように意識して書きました。タイトルの「DearGirl」は直訳すると「親愛なる女性」です。それは、主人公マユが自分に囁いた言葉なのだと思います。まだまだ未熟な作品ではありますが、ご意見・ご感想はお気軽にお書きください。そして、このお話には「続編」があります…