【第46話】
真っ黒な波がジーンズの足に絡み付いて、時折胸の辺りまで跳ね上がった。
命一杯水を吸ったジーンズは、異常に重くて足の運びもおぼつかない。
何度も転びそうになりながら、何とか香織に追いつき彼女の腕を掴んだ。
彼女は、本気で死のうと思ったわけではないのだろう。僕が力いっぱい彼女の腕を掴むと、直ぐに足を止めた。
香織の短いスカートの裾が、波が来る度に水面に触れて、大きく揺らいでいた。
遠くの雲が、一瞬青い光で瞬いて、その瞬間、黒い海は真っ白に輝く。
数秒遅れで、空全体を切り裂くような雷鳴と雷震が響き渡る。
「大丈夫、死んだりしないよ。こんな事で死んでたまるか」
香織は押し寄せる波のずっと沖の方を見つめて「ちょっと水に浸かりたい気分だっただけ……」
そうか、そうなんだ。
僕は、夜更けの公道をカートで走った自分を、少しだけ思い出した。
「帰ろう……」
僕がそう言って香織の肩に手を掛けると、彼女は弾けるように僕の胸に飛び込んで、頬を埋めて泣き出した。
彼女は、きっと誰かにこうして欲しかったのだ。不安な気持ちを打ち明けて、寄添いたかったのだと思う。
彼女の家は比較的裕福な暮らしをしているが、現在の母親は、彼女が小学生の頃に父親が再婚した相手なのだと言う。後妻の子供、香織から見れば妹に当たるのだが、その娘に両親の愛情は注がれているのだと彼女は以前僕に話した事がある。
派手に遊び歩いているように見えた香織は、本当に心許せる相手を彼女なりに探し続けていたのかもしれない。
母の愛情を受けずに育った香織は、母性の愛に餓えているかのように、僕の胸の中で咽び泣いて、彼女の熱い息が、Tシャツを通してその谷間に伝わってきた。
僕はただ黙って彼女の肩を抱きしめた。
遠くから水を叩く音が聞こえて来たかと思うと、激しい雨脚がやって来て、あっと言う間に僕達を包み込んだ。
「マユの胸って、暖かいね」
香織が僕の胸に顔を伏せたまま呟いた。
「よく言われる」
と僕が言うと、彼女は顔を伏せたまま、フッと吹き出すように笑った。
「帰ろう………千夏さんが送ってくれるよ」
僕はそう言って、彼女を支えるようにして砂浜に上がると、一緒に階段のある所まで歩いて防波堤を下りた。
歩道に停めた車からは、心配になって降りてきた千夏が、傘を片手に佇んでいた。僕達の姿を見つけると、こちらを見つめて微笑んだ。
その暖かい微笑みは、僕達を帰るべき場所へと導いてくれた。
「ここ遠浅でよかったけど、パンツまでびしょ濡れだよ」
そう呟いた僕に
「どうせ雨じゃん」
香織がポツリと呟いて、濡れた瞳のまま明るく笑った。
雨に打たれて濡れそぼった彼女の頬に、涙の跡は無かった。
一週間後、香織は中絶の決意をした。
保護者の同意書には自分で判を押し、両親には結局話さずに決めたそうだ。
僕は、ずっと彼女に付き添って、病院のロビーで半日を過ごした。
オペ室へ運ばれる香織の手を握り締めた時、何故だか彼女の手が物凄く小さく感じて、その心細さが僕の手に伝わってきた。
「ここに、ずっといるから」
僕がそう言うと、彼女は笑顔で肯いた。
夜まで香織の傍にいた僕は、一端家に帰る為に病院を出た。
「どうだった?」
車で迎えに来てくれた千夏が、心配そうに訊いた。
「うん。大丈夫みたい」
僕は何となく沈んだ気持ちを振り払うように笑った。
「あたし達は、そんな心配は無いのよね……」
千夏が小さく笑って呟いたその言葉は、決して喜ばしい意味ではないのだろうと思った。
「元気?」
翌日、病室を覗くと、初めて会った時のように弾けるような笑顔で香織は手を振って笑った。しかし、それは体験した苦悩を自ら振り払おうとしているようで、僕の心は少しだけ締め付けられた。
僕はそんな気持ちが表に出ないように、笑顔を返し続ける。
「具合、どう?」
「うん。もう、ぜんぜん何ともない」
「でも、2日間は安静なんでしょ」
本当は1日で退院して自宅で休んでればいいそうだが、彼女が帰りたくないと言ったので入院したのだ。
家には友達の所に泊まると言ってきたそうだ。そんな簡単な嘘で事足りてしまう家族なのだろうか。
「うん。退屈………」
香織はそう言った後「秀ちゃん、久しぶりだね」
と声を掛ける。
僕の後ろに遠慮気味に立っていた秀雄は、彼女に声を掛けられると、少し照れたように僕の横に並んで丸椅子に腰掛けた。
秀雄には、香織自信がメールを送ったらしい。何故そうしたのかは判らないが、学校や家族とは関係の無い誰かに、知って欲しかったのかも知れない。
「俺が、今度そいつ見つけたらぶん殴ってやるよ」
秀雄は香織にそう言って笑う。
「そんなことして、また刺されちゃうよ」
秀雄の事件の事を知っている香織は、そう言い返して楽しげに笑った。
「まぁ、男だったら一度や二度は刺されないとね」
「何それ、意味わかんない」
秀雄の言葉に僕がそう返すと、三人の笑い声が病室に溢れた。
秀雄が来てくれて良かったのかもしれない。そう僕は思った。彼の情熱的で明るい性格は、この病室を和ませてくれる。
「じゃぁ、あたし、バイトあるから、先帰るね」
僕はそう言って立ち上がると
「えっ、じゃぁ、俺も帰るよ」
秀雄も椅子から立ち上がろうとしたが
「いいじゃない、あんたはゆっくりしていきなよ。香織も退屈だろうし」
僕はそう言って秀雄を残して病室のドアを開けた。
「じゃぁ、またね」
「うん、メールして」
香織はそう言って、手を振った。
彼女とは、知り合って以来、少し距離を置いて付き合ってきた。
彼女の奇抜な行動に、ついて行けそうも無かったから。しかし、僕に自分の弱い部分を曝け出してくれた彼女を、何故だか今は愛しく思ってしまう。
それが男心なのか母性本能なのかは考えなかった。それとは無関係な、相手を思いやる人間の本能なのかもしれないから。
相手の弱い部分を承知して、それを守ってあげたいと思う気持ちが、時として友情や愛情に変るような気がする。
昔、和弥が「マユの身体を俺が守る」と言った、あの時のように……
その言葉は、僕の心の奥で今でも心地よく響いていて、たぶんそれが他人を思いやる気持ちを忘れさせないのだと思う。