【第44話】
8月も、もうすぐ終わりが近づくと、林や田畑を抜ける風はいくばか涼しくなる。それでも青空から照りつける太陽は、追い討ちをかけるように焼けた素肌を刺激する。
東北の夏休みは東京よりも一週間ほど早く終わりを告げる。
二学期の始業式の帰り、校門を出た僕に誰かが声を掛けて来た。
白い開襟シャツにグレーのミニスカートの制服は、勿論ウチの学校の生徒ではない。
彼女がスッピンだった為、一瞬顔を見ても誰だか判らなかったが、それは香織だった。
「どうしたの?」
僕は数秒のタイムラグの後に声を返す。
何か用事なら携帯に電話をしてくるはずなのに、直接学校の前で待ってるなんて、どうもおかしい。
「うん…… 何となく、顔、見たくなって」
少し俯いた彼女の顔には、以前の弾むような元気は無かった。
「何か、あったの?」
僕は、彼女を自分の自転車の後ろに立ち乗りさせて走り出した。
サーキットの周りに生い茂る緑の木々は、まるで生き物のように喧騒に包まれている。日中は、けたたましい油蝉の声が鳴り響き、残暑に拍車をかけ、夕暮れ時には蜩が夏の終わりを告げる。
夏休みの間、毎日混雑していたカート場も学校が始まったとたんに寂しくなった。とは言っても、大学生がちらほらいるし、平日の日中はこれが当り前だ。
ホームストレートを駆け抜ける時、コース脇のフェンスにもたれて僕を見つめる香織の姿がはっきりと見えた。
僕は、1コーナー侵入手前で、小さく彼女に手を振り、素早くハンドルを握り直す。
彼女は僕に会った事で少しは気分が晴れたのか、僕が一瞬上げた手に、大きく手を振り返していた。
香織は、妊娠したらしい……
援交デートの相手ではない。そう言った行為をしない決まりは、頑なに守っていたと言う。
相手は付き合っていた男だと言うが、妊娠の事実を告げると、途端に連絡がつかなくなったらしいのだ。
おそらく、僕も何度か見た事のある、黒いミニバンに乗ったタトゥーの男だろう。
彼女は、中絶するかどうか迷っているようだ。生めば当然高校にはいられない。
今の彼女には、決断できる答えは一つしか無いはずなのに、微かに芽生えたような母性本能が、彼女の心を揺さぶるのだ。
彼女の家は完全な放任主義…… と言えば聞こえはイイが、両親は彼女にまったく関心が無いという。そんな親に相談する気にはなれないらしい。
でも、どうして僕のところに相談に来たのだろう。何故、学校の友達に相談しないのか……
僕にはよく判らないが、今まで彼女が付き合っていた友達と呼ぶ連中は、深刻な相談事に向いていないのは確かなのだろう。
お互いに楽しい事だけを共有しあう仲なのだ。
「すごーい!カッコイイよマユ」
ピットからロビーに入った僕に、香織が駆け寄る。
「ヘルメット被ってると、男の子みたいだね」
彼女が笑って言った言葉に、カウンター越しの千夏がチラリと視線を送る。
「あ、宇佐美香織さん。前のバイトで友達になったんだ」
僕は、千夏に香織を紹介した。
「こんにちは」
香織が笑顔で言うと
「いらっしゃい。ゆっくりして行って」
千夏も笑顔で応えた。
「はい。お邪魔になります」
香織の笑顔は、傍目には何時も通りに戻っていた。
「このツナギ、彼女に貰ったんだよ」
香織は僕のツナギの袖をあちこち掴んで「へぇー、すごい。こういうのって高いんでしょ」
「お下がりだけどね」
千夏が穏やかに笑って言った。
「あたしも、何か夢中になれるものがあったらなぁ」
ロビーのテーブルで、彼女はペプシコーラを片手に頬杖をついて呟いた。
「見つかるよ、そのうち」
「そうかなぁ」
彼女は化粧っ気のない素顔で笑う。何時もつけていた真っ黒いマスカラとアイライナーが無いだけで、とても清楚な女性に見えた。
それから彼女は、しばらくの間黙ったまま、外を覆い尽くす緑を眺めていた。
僕は香織の「女」の横顔を静かに見つめていた。