表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/47

【第43話】

(Tear Stains)

 病院の帰り道、最寄りの駅から自転車で走っている僕の横を、軽やかなエンジン音が減速して、直ぐ先の歩道に横付けした。

「やあ」

 龍二だった。

「最近どう?」

 彼は会うと必ずそう言う。

「いや、普通」

 僕はそう言って笑う。

「こんな所でどうしたの」

 精神科の帰り。とも言えずに「いや、ちょっと用事で」

「飯でもどう?」

 相変わらず軽いノリで彼は誘ってくる。

「あ、この後予定があるから」

 僕がそう言って笑うと

「そうか。じゃ」と笑って龍二は車で走り去った。

 龍二は以前千夏の恋人だったそうだ。

 以前、一緒に食事をした時に彼が話してくれたのだ。まさか、この女子高生が千夏と付き合っているなどとは、思いもよらないだろう。


 龍二の誘いを断ったのには、もうひとつ理由があった。

 前に一度会ったきりになっていた車椅子の少女の事を思い出して、どうしているか気になったのだ。

 これまでも何度か足を運ぼうとは思ったが、何となくまた今度でいいやと言う気になってしまっていた。

 あの少女の動かない右半身は先天的なものでは無いだろう。もしそうなら、動かせない部分は成長のバランスが悪くなる。しかし、彼女は左右均等に成長していた。動かなくなってから、そう何年も経っていないのだろう。

 何が原因でそうなったか、僕は少しだけ考えてみたりした。

 しかし、何よりも僕は、彼女の笑顔がもう一度見たかったのだど思う。微笑みかけられただけで幸せになってしまいそうな、あの笑顔を。

 古書店の脇道を入って、住宅地の中を抜ける。一度通っただけの道なので、途中で一本間違えて通ったりして、少しだけ住宅街をぐるぐる走り周った。

 風に乗って焼香の匂いが漂ってくる。今年の夏は、暑いから、お年寄りにはキツイのかもしれない。などと考えていた。

 確かに少女に会った家の前に来た時、僕は少し手前で自転車を止めた。

 門柱に掲げられた喪中の行燈が見えたからだ。

 僕は自転車を降りて、押しながらその家に近づいた。門は開け放たれていて、奥を覗くと隅の方には、あのレトリバーのロコがリードで繋がれているのが見えた。

自分の前足に顎を乗せて静かに寝そべるその姿が、何処となく元気が無いのは気のせいだろうか……

 数人の人影が見えたが、その様子から葬儀などは既に終わっているのだろうと判る。

「あの、どちら様ですか」

 後から女性に声を掛けられて、僕は一瞬飛び上がりそうになった。

「あのう…… どなたか亡くなられたんですか?」

 僕は、少し息を整えてから尋ねた。

「娘のサヤカです……」

 喪服の女性は俯き加減で呟いた。

「あの…… サヤカちゃんって、まさか、車椅子の……」

「サヤカをご存知で?」

 僕の足はガクガクと振るえた。いや、足だけでは無く、手も震えていた。

 思考が何処か遠くへ飛んでいきそうな、頭の中身だけが宙に浮いているような、そんな感覚にみまわれた。

「あ、前に一度ここで、会って……」

 思わず返事がぎこちなくなる。

「良かったら、お線香あげていただけますか?サヤカも喜びます」

 母親の目は真っ赤に腫れ上がっていたが、涙はもう枯れ果ててしまったかのように、その対応は毅然としていた。

 サヤカは脳腫瘍だったそうだ。手術は不可能で、発見されたのが去年の春。余命一年と言われ、その後一年と四カ月生きたそうだ。

 母親は、医者の告知した余命よりも彼女が4カ月長く生きた事を、笑みを浮かべて話した。

 今月に入ってからは、全身がほとんど動かなくなって、ずっと入院したきりになり、5日前に息を引き取ったのだと言う。

 彼女は、両親に負担を掛けまいと、かろうじで動く左手と左足のみで、最後まで自分の事は出来るだけ一人でやろうと努力したそうだ。

 僕が見たのは、おそらく彼女の努力のほんの一欠けらにすぎないだろう。

「サヤカはやっと自由な身体になれたんです」

 枯れたと思われた母親の目には再び涙が溢れ出ていた。

 あの屈託の無い柔らかな笑顔が目に浮かんで、僕の頬にも、何時の間にか涙が零れ落ちていた。

 それは、いままでに流した事の無いほど密度の濃い、重い雫だった。

 僕は心と身体の性が違っているとは言え、好きに動き回り、走り回り、五体満足でこうして健康に17年間生きている。

 12歳で生涯を終えたサヤカの事を思うと、自分の悩みがとてつもなくちっぽけで、そして贅沢なものに思えてくるのだ。

 二言、三言、言葉を交わしただけのはずなのに、サヤカに出会ったことで、僕の心が大きく揺さぶられた事は確かだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネット小説ランキング>恋愛シリアス部門>「Dear Girl」に投票 ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(月1回)
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ