【第43話】
(Tear Stains)
病院の帰り道、最寄りの駅から自転車で走っている僕の横を、軽やかなエンジン音が減速して、直ぐ先の歩道に横付けした。
「やあ」
龍二だった。
「最近どう?」
彼は会うと必ずそう言う。
「いや、普通」
僕はそう言って笑う。
「こんな所でどうしたの」
精神科の帰り。とも言えずに「いや、ちょっと用事で」
「飯でもどう?」
相変わらず軽いノリで彼は誘ってくる。
「あ、この後予定があるから」
僕がそう言って笑うと
「そうか。じゃ」と笑って龍二は車で走り去った。
龍二は以前千夏の恋人だったそうだ。
以前、一緒に食事をした時に彼が話してくれたのだ。まさか、この女子高生が千夏と付き合っているなどとは、思いもよらないだろう。
龍二の誘いを断ったのには、もうひとつ理由があった。
前に一度会ったきりになっていた車椅子の少女の事を思い出して、どうしているか気になったのだ。
これまでも何度か足を運ぼうとは思ったが、何となくまた今度でいいやと言う気になってしまっていた。
あの少女の動かない右半身は先天的なものでは無いだろう。もしそうなら、動かせない部分は成長のバランスが悪くなる。しかし、彼女は左右均等に成長していた。動かなくなってから、そう何年も経っていないのだろう。
何が原因でそうなったか、僕は少しだけ考えてみたりした。
しかし、何よりも僕は、彼女の笑顔がもう一度見たかったのだど思う。微笑みかけられただけで幸せになってしまいそうな、あの笑顔を。
古書店の脇道を入って、住宅地の中を抜ける。一度通っただけの道なので、途中で一本間違えて通ったりして、少しだけ住宅街をぐるぐる走り周った。
風に乗って焼香の匂いが漂ってくる。今年の夏は、暑いから、お年寄りにはキツイのかもしれない。などと考えていた。
確かに少女に会った家の前に来た時、僕は少し手前で自転車を止めた。
門柱に掲げられた喪中の行燈が見えたからだ。
僕は自転車を降りて、押しながらその家に近づいた。門は開け放たれていて、奥を覗くと隅の方には、あのレトリバーのロコがリードで繋がれているのが見えた。
自分の前足に顎を乗せて静かに寝そべるその姿が、何処となく元気が無いのは気のせいだろうか……
数人の人影が見えたが、その様子から葬儀などは既に終わっているのだろうと判る。
「あの、どちら様ですか」
後から女性に声を掛けられて、僕は一瞬飛び上がりそうになった。
「あのう…… どなたか亡くなられたんですか?」
僕は、少し息を整えてから尋ねた。
「娘のサヤカです……」
喪服の女性は俯き加減で呟いた。
「あの…… サヤカちゃんって、まさか、車椅子の……」
「サヤカをご存知で?」
僕の足はガクガクと振るえた。いや、足だけでは無く、手も震えていた。
思考が何処か遠くへ飛んでいきそうな、頭の中身だけが宙に浮いているような、そんな感覚にみまわれた。
「あ、前に一度ここで、会って……」
思わず返事がぎこちなくなる。
「良かったら、お線香あげていただけますか?サヤカも喜びます」
母親の目は真っ赤に腫れ上がっていたが、涙はもう枯れ果ててしまったかのように、その対応は毅然としていた。
サヤカは脳腫瘍だったそうだ。手術は不可能で、発見されたのが去年の春。余命一年と言われ、その後一年と四カ月生きたそうだ。
母親は、医者の告知した余命よりも彼女が4カ月長く生きた事を、笑みを浮かべて話した。
今月に入ってからは、全身がほとんど動かなくなって、ずっと入院したきりになり、5日前に息を引き取ったのだと言う。
彼女は、両親に負担を掛けまいと、かろうじで動く左手と左足のみで、最後まで自分の事は出来るだけ一人でやろうと努力したそうだ。
僕が見たのは、おそらく彼女の努力のほんの一欠けらにすぎないだろう。
「サヤカはやっと自由な身体になれたんです」
枯れたと思われた母親の目には再び涙が溢れ出ていた。
あの屈託の無い柔らかな笑顔が目に浮かんで、僕の頬にも、何時の間にか涙が零れ落ちていた。
それは、いままでに流した事の無いほど密度の濃い、重い雫だった。
僕は心と身体の性が違っているとは言え、好きに動き回り、走り回り、五体満足でこうして健康に17年間生きている。
12歳で生涯を終えたサヤカの事を思うと、自分の悩みがとてつもなくちっぽけで、そして贅沢なものに思えてくるのだ。
二言、三言、言葉を交わしただけのはずなのに、サヤカに出会ったことで、僕の心が大きく揺さぶられた事は確かだった。