【第39話】
(Twins)
生きたい、死にたくない。こんな所で死んでたまるか。僕は生きるんだ。生きてこの暗闇から出て、そして自分の肺で酸素を吸うんだ。
分娩室に子供の産声が響き渡る。二卵性の双子と診断されていたはずだったが、子供の声は一人分しか聞こえなかった。
石田勇次は荒い息を立てて目覚めた。顔は冷や汗でびっしょりと濡れている。
「どうしたの」
石田の隣で眠っていた由美も、彼のうめき声で目を覚ました。
「何でもない……」
石田は両手で額の汗を拭いながら言った。
「またあの夢を見たの」
由美は少し心配そうに尋ねる。
「ああ……」
彼はそれだけ言うと、再び布団を自分の首まで掛けた。
由美は、石田が再婚して暮らしている現在の妻だ。子供はいないが、仲良くそれなりに幸せに暮らしている。
再婚前、家族として一緒に暮らしていたのは刑部小夜子。刑部真夕の母親だ。すなわち、石田は刑部真夕の父親なのだ。
石田は度々うなされる夢に悩まされていた。
初めてその夢を見たのは……
そうあの時だ。
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……………………
「旦那さんはこちらでお待ちください」
看護士が言った。勇次は妻小夜子と共に分娩室へ入ろうとしたが、止められたのだ。
「お子さんは大変危険な状態です。双子のうちどちらかはダメかもしれません」
医師は真剣な顔付きで勇次に向かって言った。
「何とかお願いします。なんとか……」
勇次は医師の腕にしがみ付くように言った。
「私達はベストを尽くすだけです」
そう言って医師は殺菌室を通って分娩室へ入って行った。
― 1時間前 ―
勇次は小夜子と共に買い物に出かけた。
青い空にぽっかりと白い雲が浮かぶような、天気の良い日曜日だった。
もうすぐ生まれる双子のためにそろそろ買って置きたいモノもある。
高速道路を使って隣町の大型子供用品店へ出かけた帰り道、再び高速道路に乗った。
石田勇次は建築会社に勤める普通のサラリーマンだ。
妻の小夜子はインテリアデザイナーとして成長している最中で、最近は勇次の月給に迫る勢いだったが、そんな事は関係なく二人の暮らしは幸せに包まれていた。
緩いカーブの向こうの非常路側帯に、緊急停車しているトラックの姿が見えた。
(こんな所で故障だろうか)勇次はふと、そんな事を考えていた。
隣に座っている小夜子は少し疲れたのかウトウトしていた。
その時、トラックが急に動き出して通常走行車線に出て来るのが見えた。
「あ、危ない」
勇次から見て、巡航して走る車、四〜五台先での出来事だった。
彼は反射的にアクセルを戻して、ブレーキペダルに足を乗せた。乗せただけでブレーキペダルは踏まなかった。かなり先での出来事だったから、それで十分だと思った。
しかし、出てきたトラックは加速が遅い。その遅いトラックに軽自動車が衝突した。
前方を良く見て運転していれば、ありえない出来事だった。
後続車は忽ち急ブレーキを踏む。
それでも勇次はきちんと車間を取って走っていた為、急ブレーキだけで難を逃れられる確信があった。
前方で二〜三台が玉突き衝突して、四方に跳ね飛ばされる車が見えた。
自分のすぐ前方の車も何にもぶつかる事無く停止して、その後に勇次も無事に止まることができた。
額に冷や汗をかいてホッとして隣の小夜子に目をやった。
しかし、その時後から嫌な音が聞こえた。
大型トラックの急ブレーキを引きずる音が、あまりのスピードで接近していた。
勇次が振り向こうとしたとその瞬間、車は大きく揺れて身体が激しくシートの上でバウンドする。
シートベルトのリミッターが働いて、肩と腹部にベルトが強く食い込んだ。
パン!と言う破裂音と共にハンドルのエアバックが開いた。勇次の目の前は一瞬真っ白になって何も見えなかった。
前後からの激しい衝撃の後、目を開いた勇次は愕然とした。
さっきまで前方にいたはずのミニバンのリヤガラスが、自分の車のフロントガラスに完全にくっ付きあってグシャグシャに割れているのが見えた。
彼の頭は混乱して何が起こったのか判らなかった。
ふと、隣に目をやると、小夜子がグッタリとシートにもたれているのが見え、勇次は事態を把握して後を振り返った。
後は完全に鉄の塊で覆われて、それがトラックなのかどうかは判らないほどだ。
「小夜子、小夜子、しっかりしろ」
勇次は彼女の肩に手をあてて揺すった。
助手席のエアバックも開いた後があり、小夜子自信は出血も無いようだった。
「うう……お腹が……」
彼女のうめき声で、勇次ははじめてその大きく張ったお腹に注意が行き、その中の生命が危機に面している事を悟った。
外へ出ようとしたが、車体が大きく歪んでいる為、ドアが開かない。
怪我の軽い人たちが車の外に出てきているのが見えた。
「すみません。妻を…… 妊娠しているんです。助け出してください」
勇次はガラスが無くなった窓から顔を出して必死で叫んだ。
数人が助手席のドアをこじ開けて小夜子を助け出そうとしたが、人力でどうにかなる状態ではなかった。勇次は窓から這い出ると助手席にまわって一緒にドアを引っ張る。
アルミホイルのようにくしゃくしゃになったドアが開くはずは無かった。
「こっち、開いたよ」
一人の茶髪の青年が右のリヤドアを開けた。みんな気が動転して他のドアを試そうとしなかったのだった。
シートベルトを外して、シートをリクライニングさせ、4人掛かりで小夜子を引っ張り出した。
「お腹が……」
小夜子が自分のお腹を抱えて苦しんでいた。そして、その時勇次がチラリと見た後ろのトラックの運転席は完全に潰れ、隙間から運転手らしき人の手だけが微かに見えた。
パトカーと救急車が到着して、すぐに小夜子は病院に運ばれた。
「出産予定日には一ヶ月早いですが、しかたありません。ただ、二人共無事に生まれる保証は出来ないと思います」
医師は真剣な顔でそう言った。
「旦那さんはこちらでお待ちください」
分娩室へ入ろうとする勇次は看護士に止められて、仕方なく廊下の長椅子に腰掛けた。
鞭打ちの首が重苦しくて、頭痛がひどかったので通りかかった看護士に言って、頭痛薬を貰って飲んだ。
彼は何時の間にかウトウトしていた。そして、誰かの声が聞こえた。
最初は、廊下で誰かが立ち話でもしているのだろうと思った。しかし、勇次は夢うつつの中で思った。それは、廊下で誰かが話している声では無い。
頭の中から直に響く誰かの声が聞こえていた。
生きたい、死にたくない。こんな所で死んでたまるか。僕は生きるんだ。生きてこの暗闇から出て、そして自分の肺で酸素を吸うんだ。