【第38話】
(Elder Brother)
お盆中は、帰郷する人で地方の町は大変混雑する。
いつも空いているバイパス道路も朝から晩まで混み合って、僕がバイトしているガソリンスタンドも、お客の入りが何時もの二〜三倍あり、給油フロアには殆ど切れ間無くお客の車が止まる。
それでも夜の9時にもなると、さすがにお客の数も減ってくる。夜の部に入っているバイトの大学生と入れ替わりに僕は上がりとなって帰宅の準備をしていた。
「刑部、お客さんが来てるよ」
ノックの後に休憩室のドアが開いてスタッフの声がする。
休憩室の奥は女性専用になっているが、パーテーションで仕切られているだけで途中にドアは無い。
私服に着替えた僕は、ロビーへ入った。そこには、40歳前後であろう女性がソファに座っている。
彼女は立ち上がって会釈をすると、マジマジと僕を見つめて
「石田由美といいます」
僕は名前を聞いても、それが誰なのか判らず、ポカンとしたままとりあえず会釈をした。
「あの…… なんの御用ですか」
「あなたが、刑部真夕さんでしょ」
彼女は微笑みながら言った。
「そうですけど」
「石田勇次の現在の妻です」
「はぁ……」
そう言われても、まだ僕には判らない。
「石田勇次は、あなたのお父様です」
僕はその言葉を聞いて少しだけ驚いたが、あまり現実味を感じなかったし、実感もなかった。父とは一度も会ったことが無いのだから、当然と言えば当然だ。
「それで、なんの用ですか?」
僕はまるで他人事のような口調で尋ねた。
「一度、どうしても会ってみたくて」
僕の母とそう変らない歳であろう彼女の笑顔は、随分老けて見えた。
「あのひと…… いつもうなされて……」
「はあ……」
僕には彼女の言葉が、どうしても自分に関係在る事には思えなかった。
「うなされるって、どうしてですか」
そう言えば、僕は父と母がどうして別れたのか知らない。しかも、今まで考えた事も無かった。
「あなたのお兄さんの事だと思うわ」
「兄…………ですか」
「あ、ごめんなさい。あなたにこんな事」
彼女は少し俯いて目をそらした。
「兄って?」
「やっぱり、聞いてないわよね。ごめんなさい、いきなりこんな事」
彼女はそう言って立ち上がると「ひと目、見れてよかったわ。じゃあ」
「あの、兄ってどう言う事ですか」
彼女はゆっくりと会釈をすると、
「何でもないのよ。それじゃ」
そう言って、待たせてあったタクシーに乗り込んで去っていった。
僕は、突然現れた石田由美という女性が乗ったそのタクシーのテールランプを、しばらくの間眺めていた。
兄…… 生き別れた兄でもいるのだろうか。父が引き取ったのか。しかし、彼女は兄の事で父がうなされる。と言っていた。
僕はその夜、なかなか寝つく事が出来なかった。
後から考えると、何故、兄弟がいる事を伏せられているのか疑問が湧いてきた。父と母は、何か深い訳があって離婚したのだろうか・・・ それと兄の事が関係しているのだろうか。
僕は、テレビの揺らめく明かりが照らし出す、薄暗い天井を眺めていた。
「ねぇ、お兄さんってなに?」
翌朝、仕事に出かける前の母に尋ねた。忙しそうにサラダを食べながらコーヒーを啜っていた母は、僕の問い掛けに息を呑んで、血の気が引くように顔色が変った。
「どうしたの、急に」
彼女は作り笑顔で応える。
「本当は、お兄さんがいたの?お父さんと暮らしてるの?」
「誰に聞いたの。お父さんに会ったの?」
僕は首を横に振った。
「今の奥さんって人が、昨日会いに来た」
「その人、なんて?」
母の顔は確かに強張っていた。僕が何を聞いて、何を知っているかをしきりに探る。
「よく判らないんだ。なんか、あの人が時々うなされる。とか言って」
母は、俯いてしばらく黙って、そしてコーヒーを一口飲んで呟いた。
「死んだわ」
カップにコーヒーを注いでいた僕は、思わず注ぐ加減を間違えてカップの外にコーヒーが零れてしまった。
「死んだって……?」
僕は、テーブルに零れたコーヒーを布巾で拭きながら訊き返す。
「いずれ判ってしまうでしょうから……」
そう言って、母は重そうな口を開き、話続けた。
「あなたは、二卵性の双子だったのよ。そして、お兄さんの方は、訳あって死産だったの。その時は、あなたも危なかったのよ」
双子だったなんて初耳だった。そして、兄が死産だったなんて。
あまりに現実感がない話で、僕の頭は少し混乱した。だから、ショックを受ける余裕は無かった。いや、ショックを受けたからこそ混乱したのか。
「お父さんと離婚したのはそれが関係してるの?」
母は小さく肯いた。
「そうだと思う」
そう言った後、何故兄が死産になってしまったのか、彼女は記憶の限り話し出した。
「アイツの声が聞こえるんだ。アイツは生きようとしていた」
あの人は毎晩そう言って、夜中にベッドから飛び起きたわ。あなたの、お兄さんの声が聞こえるんだって、夢に出てくるって。
「生まれる前の子供が言葉を話すはず無いのにね」
母はそう言いながら、悲しい笑みを浮かべる。
病院でカウンセリングも受けたの。事故の際に運転していた自分を責めているんだろうって、医者は言ってた。でも、結局あの人は出て行ったわ。真夕が一歳になる前にね。
父は、妊娠中の母を乗せて車で移動中に、交通事故に巻き揉まれたのだそうだ。
彼女は、話終わるとカップのコーヒーを飲み干して
「大変、こんな時間。もう行かなくちゃ」
そう言って、カバンを片手に玄関に向かった。
「ねぇ、その後お父さんに会った?」
僕は廊下に顔を出して尋ねると、彼女は小さく首を横に振った。
「あの人は、二度とあたしに会おうとはしなかった……」
母は、微笑んでいたが、その笑顔は何処か寂しそうだったのは決して僕の気のせいではないだろう。
「マユがどうこう考える事じゃないわ。もう17年も前の話」
そう言い残して、母が玄関を出て行った。
母のアルファ・ロメオがガレージから出て行く姿を、僕はキッチンの出窓から見送った。