【第37話】
甘い香と唇に感じる柔らかくて暖かい、なんとも言えないまろやかな感触で意識は目か覚めた。
瞳を閉じた千夏の長い睫毛がアップで見えた。
まろやかな感触が彼女の唇だと言う事は直ぐに気付いた。しかし、何が何やら理解できずにそのまま考えた。
彼女は僕にキスをしているのだと、感触ではなく頭の中で理解する。
それでも僕は、彼女の唇の感触があまりにも気持ち良くて、少しの間されるがままになっていた。
どうやら食事の後、僕は千夏の部屋で横になり、そのまま眠ってしまったらしい。
彼女は横たわる僕に、仔犬に寄り添うように屈んで唇を重ねていたのだ。
薄っすらと目を開けた彼女の瞳が、僕の瞳とカチ合った。
「ご、ごめん……」
彼女はとっさに飛び跳ねるように、僕から離れると、頬を赤く染めた。
気まずさよりも、僕はこの現実が信じられず、頭が混乱していた。
まさか、彼女までが、FtMと言うことはあるまい。
「ち、チカさんって……レズ……なの?」
僕は横になったまま恐る恐る、座って背を向ける彼女に訊いた。
「ううん。違う」
千夏は大きく頭を振って、それを否定した。
「ノーマルよ。そのはずなのに、マユといるとなんだか変な気持ちになるの。全然男っぽい訳でもないのに、どうしてか、あなたの瞳の奥に男性に感じるような、何だか判らないものを感じてしまうのよ。あたし、やっぱり、おかしいのかな……」
千夏は、自分の火照った頬に手を当てて「ごめんね、変な事して」
彼女は真夕の中にいる、いや、真夕の正体である僕を感じ取っていたのかもしれない。
そう思うと、僕は嬉しかった。
「チカ…………さん。あたし……」
何度も経験するこの瞬間。僕はその先を言葉にすることは無かった。
どうしても、その先の言葉は出ない。
自分が男性の自認をしていると言う事。
その些細な言葉が、どうしても僕の口から発せられる事を拒むのだ。
僕達は深い泥沼にはまってしまったかのように抜け出せなくなって、もがき苦しむ事になる。しかし、確かに感じる安らぎと安堵は麻薬のように身体、いや心に染み込んでその関係を更に深いものへと押し沈めるのだ。
その禁断の関係に…… いや違う。僕にとってはこれが正常な関係なのだ。
もしも、お互いのフィジカルな部分を全て取り除いて、魂の塊として対峙する事ができたなら、紛れも無くこれは男と女の関係なのだ。
しかし、そんな事は絶対に不可能だと言う事も判っている。
それでも僕はバイトが終わると、毎晩のように千夏のアパートへ行く。そして、お互いの思いを確かめ合うように、身体を絡め合う。
「どうしてだろう……」
彼女が不意に呟いた。
彼女はこんな関係を良くは思っていない。それでも、時に心と身体がバラバラに動いて、本能のまま欲する事があるのだ。
寝ている僕に最初にキスをしてきたのは彼女の方だ。僕は、そう考える事で、この関係に彼女を引き込んでしまった僅かな罪悪感から逃れている。
千夏の心は、自分の感情と一般的な恋愛の常識の狭間に、常に葛藤し、困惑している様子だった。
「マユは、こんな事になって平気なの?」
僕は、少しの間沈黙した。
それを彼女の瞳が真っ直ぐに見つめる。
この状況を第三者にでも見られない限り、僕はそれなりに満足していのだろう。
ただ、彼女の身になって考えた時、僕の目が第三者となってその行為をする二人の女性を冷静に見つめているとき……
その光景は、やはり異様だ。
そして彼女は何か思い出したかのように突然
「あっ」と小さく声に出した。
「何?」
「ううん、何でも無い」
千夏はそう言って少しだけ目を伏せた。
そのすぐ後、今度は僕が「あっ」と声を出しそうになって言葉を呑み込む。
彼女は、以前僕が性同一性障害の友人がいる、という話をした事を思い出したのではないかと思ったからだ。
彼女の表情は、何かを感じ取ったかのように複雑に変化していた。
「マユ…… 正直に言って」
長いキスの後、千夏が僕の目を見つめて言った。
「マユは、本当は男の子なんじゃないの?前に言ったよね。性同一性障害の事。あれって、あなたの事なの」
やっぱり、彼女は思い出していた。僕が以前言った言葉を。
僕は再び沈黙した。
その時、彼女の手が、タオルケットの下で僕の手をそっと握り締めた。
ひんやりとした彼女の手が、何故かとても暖かく感じた。
僕は、彼女の瞳の中に映る自分の顔を見ながら小さく頷いた。そして、何故か、自然と涙が零れた。
「嫌いになる?」
僕がそう言うと、彼女は小さく首を横に振って、僕の顔を胸に抱きしめてくれた。
とても暖かく、そして安らかだった。
この作品を書くきっかけになったのは、テレビでFtM‐GIDに悩む人を見たときでした。その人は、男の性自認をしながら女子高へ通っていました。この人凄い。その時は正直にそう思いました。その後、その人は手記を出版したようですが、私はあえて読んでいません。既に、この小説を書き始めていたので、そのリアルであろう文面に影響されたくなかったからです。