【第32話】
(TONIGHT)
混濁のない炎天の真っ青な空を見渡すと、遠くに連なる山並みの向こうから、真っ白な入道雲が立ち昇っている。吸い込まれそうな「白」にも微妙な陰影があって、遥か上空にも確かな空間が存在しているのだ。
眩暈がしそうなほど広大なその空間を見上げると、自分の立っているこの地上がやたらとちっぽけに感じて、それと同時に、そんな大げさな事ではないのだが、微かな希望や勇気が湧き出るような気がする。
それが、大まかに言えば、清々しさなのかもしれない。
午後からスタンドのバイトに入って夜の八時にあがると、僕は千夏のアパートへ向かった。
午前中にカート場へ行ったら、彼女が夏風邪で休んでいると聞かされたからだ。
途中にあるスーパーに立ち寄って見舞いの果物と飲み物を買う。最近は夜遅くまで営業しているスーパーが増えて便利がいい。
一軒家の多い住宅街の路地を進むと、真新しいアパート群が三つ並んでいて、その左のアパートの201号室、そこが千夏の部屋だ。
閉じられた窓のカーテンから明かりが漏れている。
僕は階段をつま先だけで駆け上がり、ドアの前に立つとチャイムを鳴らした。
十数秒してガチャリとドアが開く。
「あら、いらっしゃい」
完全なスッピンの彼女は、パジャマ姿のまま土色の顔で笑った。
「大丈夫?」
見るからに体調が悪そうな彼女に僕は尋ねる。
「うん。随分良くなった。入って」
僕は少し遠慮気味に玄関に足を踏み入れた。
「寝てていいよ。あたしやるから」
そう言って何度か来て勝手を知っている僕は、キッチンからグラスを取り出し林檎ジュースを注いでテーブルに置く。
「何か食べた?」
「うん、お昼に少し」
何時も元気なだけに、彼女の弱々しい声が痛々しい。
「キウイでも剥こうか」
僕がそう尋ねると、千夏が小さく肯いたので、キッチンから持って来た果物ナイフを使ってキウイを剥き輪切りにする。
朝からあった熱は下がったらしく、食欲も出てきたと言うので、僕は冷蔵庫に入っていたうどんを卵で綴じて煮込んであげた。
「なんか、誰かにご飯を作ってもらったのって、久しぶり」
千夏はそう言って嬉しそうに煮込みうどんを食べる。
僕は自分に注いだ、グラスのジュースを飲みながら彼女を盗み見た。
弱々しいスッピンの笑顔は、まるで赤ん坊のように無防備で、それが体調の不良からくるものだと知りながらも、何故だかいとおしい。
「ああぁ、マユが来てくれて助かった」
食事を終えた彼女が呟いた。
「いつもしてもらってばっかりだから、こんな時くらい力になるよ」
僕はキウイを一切れつまんで笑った。
洗い物を片付けて部屋を覗くと、千夏はタオルケットを胸まで掛けて眠っていた。その静かな安堵に満ちた寝顔にそっと近づくと、口紅を着けていない淡い色の無垢な唇が、とても柔らかそうに寝息を立てている。
今なら、彼女の身体の全てを僕の思いのままに自由に出来るような錯覚に陥る。
そこには千夏の意識や感情などなく、ただ僕の欲望を満たす為の人形が横たわっているだけだ。
あと三センチ。僕は唇を近づけて、そこで止めた。
彼女の香が間近に鼻孔を擽って正気に戻る。
それでも彼女に触れたくて、僕はそっと千夏の額にかかった前髪を指でなぞった。
最初に見た時よりも、彼女の顔色はだいぶ良くなっていた。
僕は書置きを残すと、テレビを消して、部屋の明かりを豆球だけにし、アパートを出た。
帰り際に見上げたアパートは、彼女の部屋だけがしっとりと静かな眠りに落ちていた。
※【一口メモ】GIDの多くは一般の男女と同じく自分の『心理的性別』に相応しい服装を好み、『心理的性別』と反対の性を恋愛対象とする場合が多い。その為、身体的性別を基準に見た場合『異性装を好み』『同性を恋愛対象とする』かのように見えてしまう。