【第31話】
僕のグーは小さい。握りこぶしの事だ。
他の女子と交わっている間、そんな事は意識しない。
僕が始めてそれに気が付いたのは、中学3年の時。あの夏に、和弥が僕の手を握った時だ。
その手の大きさは僕の全てを覆い尽くしてしまいそうな気がした。
僕には父親がいない。母親の手もさして大きくはないから、男の人の大きな手というイメージや感覚は普段、身近に感じる事が無かった。
高校になっても僕の手はやっぱり小さくて、男子の誰かの手を真直に見ただけで、僕の現実は女性なのだと実感する。
身体つきからして、どう見てもそれは当り前の事なのに、何故だか僕の中では手の大きさが一番男女の差を実感するのだ。
目の前の階段を上る朋子の手が、ちょうど僕の視線に入る。僕はこっそり自分の手と彼女の手を見比べる。
やっぱり僕は、こちら側なのだと思った。
校舎の四階は音楽室の他に視聴覚室や美術室などの特殊教室しかないので、部活をやっていない限り人気は無い。内緒の話にはうってつけか。
「いきなり呼び止めてごめんなさい」
音楽室に入ると、朋子が言った。
「別にいいけど。話って何?」
僕は小さく微笑んで彼女に尋ねた。
朋子は、僕より少し背が高いので、僕はあえて一段高い教壇の場所に立った。
「和弥の…… 和弥先輩の事どう思ってるんですか?」
言い難そうではあったが、彼女のいきなりに不仕付けな質問に僕は目を丸くする。
「どうって、どういう事?昔からの友達…… だけど」
「ウソです」
彼女は僕が応え終わるが早いか言い返した。
「ウソじゃないよ」
僕は少しだけ激しい口調で言い返してしまう。
「だって…… 彼があなたを見る目はそんなんじゃない。まるで想いの届かない恋人を見つめるような悲しい目」
「あたしを見るって、何時?」
「いつも…… お昼休みに渡り廊下で見かけた時、放課後教室の窓から昇降口を出るあなたを見つけた時、全校集会で体育館に入って、並ぶ前の雑踏に包まれている時、そして、この前海で会った時も……」
僕は何も言葉が出なかった。彼女はただ和弥を見ていただけなのだろう。
そして彼の視線の先に映るのが何時も僕だと気付いたのだ。
和弥はそんなに僕を見ているのだろうか。
何を思い、僕さえ気付かない程の遠い距離で彼は見つめるのだろう。
それは判りきっている。判りきっているが、僕はそれを受け入れず、判らないふりを通さなければならない。
「和弥先輩とは、以前に何かあったんですか」
彼女は真剣な顔で尋ねる。
僕はどう言って説明すればいいのか迷ってしまった。
「何も無いよ。ただの幼なじみだよ。」
僕は穏やかな少女の笑みを浮かべて言った。しかし、彼女の顔はもどかしい梅雨空のように曇っている。
「あたし…… 怖いんです。ある日突然彼に振られそうな気がして」
和弥は積極的な娘と言っていたが、それとは裏腹に彼女なりに現実を見つめ不安を抱えているのだ。
「でも、それはどんな男女の仲にもありえることでしょ」
「だって、刑部先輩を見る彼の瞳には絶対勝てない……」
彼女から見た僕を見つめる和弥の視線は、それほどに絶対的なものなのだろうか。
「目の前にあっても決して掴む事の出来ない幻影……」
不意に朋子が呟いた。
「何、それ?」
「和弥先輩が前に言ったんです。あたしが付き合ってくださいってコクった時、俺の心の中にある幻影にキミは勝てないかも知れなよ。って」
僕はただ瞬きを繰り返して彼女を見つめた。
「幻影って、どう言う事ですか。それって、きっと刑部先輩の事ですよね。こうして実在しているのにどうして幻影なんですか」
彼女の口調が少しだけ激しくなると、僕はすっかり困惑して、音楽室の蒸し暑さがいっそう額の汗を誘発させた。
やはり、和弥の僕への、いや女性である刑部真夕に対しての思いは断ち切れていなかったのだ。
僕の心が男である事をこの場で言えば…… いや、そんな事をしたら、その僕に気がある素振りを見せる和弥が、おかしな目で見られるかもしれない。
それに、今更そんな事が学校中に知れたら、晴香や加奈とこの先どう接していけばいいのか判らない。
「それは、たぶんあたしの事じゃないよ」
僕はポツリと呟く。
「変な事に悩んでないで、しっかり和弥の気持ちを捕まえな」
僕はそう言い切ると、朋子に背を向けて音楽室を出た。
彼女は僕を呼び止めはしなかったが、じっと僕の背中を見つめる視線がブスブスと突き刺さり、痛かった。
目の前にあっても決して掴む事の出来ない幻影…… そうか、僕のフィジカルな刑部真夕はまさしく幻影かもしれない。
その幻影に惑わされ、悩んでいる男がもう一人いる。
秀雄だ。
しかし、彼はその幻影を掴もうともがいている。和弥が言ったとおり、おそらく絶対に掴めないだろう。
天体望遠鏡のレンズ越しに見た、銀色に輝く大きな満月に決して手が届かないように、刑部真夕という純粋な女性はこの地上に存在しないのだから。
しかし、それと同じくらい僕には千夏の身体に男として触れる事は出来ないのだ。