【第26話】
セルリアンブルーのレーシングスーツに手足を通して、ブルーのドライビングシューズを履く。
靴紐を硬く締め、胸のジッパーを首まできっちり上げる。
戦闘準備完了。
薄っすらと霞むような雲を張り巡らせたブルーグレーの空は、直射日光こそ遮ってくれるが、ヘルメットを被ると、七月の蒸した空気にそれだけで汗が滲みそうになる。
スモークシールドを閉めて、四つ付いているエアインテークは全て全開にする。
グローブを両手に嵌めて、マジックテープをしっかりと固定する。
真新しいスウェード貼りの赤いステアリングに左手を掛け、右手をグラスファイバー製のシートに添えたら一気にカートを押し切る。
後輪に直結したクランクとピストンの空回りする音が消え、同時にサイレンサーから確かな排気音が聞こえる。
シートに飛び乗ったら、間髪入れずにアクセルバーを踏み込むと、路面を蹴飛ばすリヤタイヤが背中を突き飛ばすように加速する。
1、2コーナーとS字を抜けてヘアピン手前、買い換えたブレーキの効き具合もいい。
バックストレートの加速が恐ろしく早い。
異常なスピードで迫るカーブにアクセルOFFだけでは足りず、軽くブレーキを踏む。
100CCの競技用カートはバックストレートエンドの直角コーナー手前でブレーキングが必要になった。
このコースはレンタルカート用に設計されている為、純粋な競技用カートには聊か狭いのだそうだ。 ただ、本来バックストレートはあと十メートルほどあり、パイロンで遮られている。
大会などで使用する際にコースレイアウトを変えるのだそうだ。
自費で購入したスリックタイヤのグリップもシャシーの出来もいいせいか、コーナリング速度も速い為、身体にかかる負担が大きくなったようだ。
5周して、1周クールダウンした後、ピットへ入る。持ち込みの場合、コースをレンタルする事になり、二十五分間で三千円になる。
「どう。調子」
佐々木がガレージから声を掛けて来た。
ようやく揃った部品を彼が組んでくれたので、今日は早速ナラシをかねて調子を見に来たのだ。
当り前の事だが、以前公道で走らせた時とは比べ物にならないくらい調子はよく、エンジンも良く吹ける。
ペダルの位置やシートの大きさも自分に合わせているので、段違いに操作し易い。
「凄いイイです。佐々木さんのお陰だね」
僕は佐々木に対するお礼を込めて、少しキュートな笑顔を演じる。
「何かあったら言ってよ。仕事の合間にだったら見てあげるから」
彼は、少しテレ笑いを浮かべて言った。
やっぱりこの身体は少し徳だな。こんな時でも、ついそう思ってしまう。
僕は他の人の邪魔にならないように、自分のカートをピットの隅に移動させて一休みしようとロビーのドアを開けた。
「そろそろ、学校は期末テストじゃないの」
ロビーに戻ってヘルメットを脱いだ僕に向かって、千夏が声を掛けて来た。
「明後日から。だから、今日と明日は午前授業なの」
僕は、午前授業をいい事に、午後一でここへ来てカートに乗っていた。
「ねぇ、来週海に行くんだけど、一緒に行かない。テストも終わってるでしょ」
海…… 勿論泳ぐ為に行くのだろう。僕は中学校の体育の授業以来、水着を着ていない。
身体の線がはっきり見える水着姿は、やはり抵抗があった。
しかし、僕は千夏の水着姿が見たいと言う不順な動機でOKしてしまったのだ。
期末考査が終わった日、6日ぶりにスタンドのバイトに入った。期末考査中は休ませて貰っていたのだ。勿論、バイトを休んだからと言って、命一杯勉強に励む訳ではないのだが。
「リコさんはもう上がりですか?」
休憩に入った時、同僚の平井理子が帰り支度の為、着替えをしていた。
ボタンを閉めるピンクのブラウスの胸元から、淡い水色の下着がチラリと覗いていた。
「うん。これから出かけるんだ」
彼女は僕よりも二つ年上で、フリーでこのスタンドで働いている為、早番の時にはこうして僕よりも早く帰って行く。
明るくて、色白の彼女は、スラリとした長い足で何時もスタンド内を駆け回っている。
仕事中、後で束ねている黒髪は、解くと背中の真ん中辺りまでくる。身長は160センチ以上あり、張り出た胸とくびれた腰は完全なモデル体型だ。
ただ彼女はアトピー性皮膚炎らしく、体調によってその症状にムラがあるようで、全然判らないかと思えば、顔全体が水ぶくれのように腫れ上がるほどに症状を露わにする事がある。
そんな時でも、彼女は大きなマスクをしてお客の前に立つ。
「じゃぁ、お先に」
彼女はバックを肩に掛けて休憩室のドアを開けながら笑った。
「お疲れ様」と言って僕も笑顔を返す。
僕が休憩を終えて給油フロアに戻ると、その隅で誰かが口論している様子が映った。