【第25話】
松林の遊歩道をぶらぶらと歩いた。
松の枝と葉に日差しが遮られ、所々薄暗いその小道は、芭蕉も通ったと言う。
赤い橋を渡って離れ小島へ渡り、断崖の先まで行くと神社が在る。経年劣化によって真っ黒に焼けた木の壁や柱は、その古さを物語っている。
木を模造したコンクリートの柵に身を乗り出して下の断崖を見下ろす。
波に浸食された岩肌に打ち寄せる更なる波は、これから先もこの島を浸食し続けるのだろう。
それは、まるで女性ホルモンに侵食を受け続ける僕のようだ。
日曜日と言う事もあって、絶え間なく観光客やデート中の男女が周辺を行き交う。
僕達の隣にいたカップルが神社を後にした時、一瞬その空間に人影が途絶えた。
その一瞬の隙を突いて、秀雄は僕に素早くキスをした。
かわす暇など無かった。いや、本当は顔を背けてかわす事が出来たのではないのか…… 生暖かい彼の唇の感触を僕の唇が受け止める。
長岡とも交わさなかった唇同士のキス。
僕は、あの日処女を喪失して以来、心のバランスがおかしい。まるで、今まで微妙な釣り合いで保たれていた心が、その僅かな欠損によってバランスを保てなくなってしまったかのように。
「怒った……?」
黙って俯く僕に、秀雄が言った。
「ねぇ、もしも、あたしが本当は男だったら…… 秀雄、どうする」
僕は俯いたまま呟いた。
その時、再び観光客の群れが神社の周りを囲むように流れ込んできて、賑やかになる。
「えっ……」
秀雄は困惑した笑みを浮かべて、俯いた僕の顔を覗き込む。
「だって、マユはどう見たって女じゃん」
僕がおかしな冗談で彼をからかっていると思ったようだ。
「心の中が、男だとしたら?」
僕は秀雄の顔を見つめた
「そんなの…… 冗談だろ」
彼の笑顔が、急激に曇る。彼も、性同一性障害の事は知っているようだった。
僕は彼の「冗談」と言う言葉に無言で首を横に振った。
「もしかして、俺と付き合えない訳って……」
さすがに県下一の進学校へ通うだけの事があって、察しがいい。僕は変な所で彼に感心した。
「そう言う事だから」
僕はそう言って寄り掛かっていた柵から身を離し、一人で観光客の群れの中に消えようとした。
「待って」
秀雄は僕の手を掴んで言った。
「キミは本当に100%、心の中が男なのか?」
秀雄の言葉に、近くにいた年配の夫婦がこちらを振り返った。
「俺がさっき触れたマユの唇の感触は、どう考えても男性とは思えない。その顔も…… 身体だって…… そんな割り切りはできないよ。もし、少しでも女性なら……」
僕は、周囲を気にせず喋る彼の言葉が半分しか耳に入らなかった。
この小島にいる十数人全てが、僕らの話に聞き耳を立てているような気がしたからだ。
僕は、彼の手を引いて小島を出ると、赤い橋を渡って来た道を速足で戻った。
「男の心なのに、女の服装に抵抗はないのか?女の言葉も普通に使ってるじゃん」
足早に歩く僕の後から秀雄が追いかけて質問を投げ掛ける。
僕は黙って歩きながら、何処から説明すればよいのだろと、頭の中を整理していた。
海浜公園のかなり外れまで来て、ベンチに腰掛けた。駐車場から遠いこの辺りまでは、ほとんど誰も来はしない。
秀雄も僕の隣に黙って腰を下ろすと、タバコに火を着けた。
僕は、物心付いて以来ずっと男として性自認している事。
小学校まで男言葉を使っていたが、中学に入って以来人前では女言葉を使っている事。
今でも、思考する時は男の言葉で思考する事。そして、唯一僕を理解してくれる和弥の存在が大きい事。
それらを順番に話した。
秀雄は僕が全てを話し終えるまで、ずっと黙ったまま静かにタバコの煙をくゆらせて聞いていた。
時々彼が吐き出すタバコの白い煙が、風に乗ってさ迷いながら消えていく。
西に傾いた太陽が、淡い山吹色に輝きを変えて、水面に反射光を光らせている。
「帰ろう。送るよ」
僕の話が全て終わった時、彼は、力無く呟いて立ち上がった。
僕は、秀雄と一緒に彼のバイクの所まで来たが、ホルダーから外したヘルメットを受け取ると
「電車で帰るから」
そう言って、駐車場から駅へ続く歩道を一人で歩き出した。
黙って見つめる秀雄の視線が、幾つもの小さな針で突いたように僕の背中に突き刺さって、激しい痛みに襲われた。
ローカル線は東京と違い、数分毎に電車が来ると言う事は無い。
僕は、ヘルメットを抱えてホームのベンチに座り、十分以上海岸とは反対を向いて、ただの岩山の壁を見つめていた。
風になりたい。サーキットを思い切り走りたい。
あの吹き付ける風と、身体に架かるGと、人間離れした低い視界が全てを掻き消してくれるから。
周囲には、水筒やリュックを背負ってピクニックに来た家族連れが何組かいて、遊び疲れて眠った子供を背負った父親が、僕の隣に腰掛けていた。
重そうな子供を背負った父親も、十分に疲れた顔をしているが、その優しい笑みはとても幸せそうだ。
ホームに入ってきた電車に乗り込んで外に視線を向けた時、誰かが階段を駆け上がって来るのが見えた。
ただ漠然と外の景色に目を向けていた僕は、自分の目を疑った。
階段を上がって来たのは秀雄だったのだ。
もうとっくに帰路へついていると思っていたので、ビックリしてドアから身を乗り出そうとしたが、その瞬間、無常にもドアは閉まってしまった。
「俺、やっぱり諦めないよ。どんな形でも、マユの近くにいたいから。また連絡するから。スタンドにもガソリン入れに行くから……」
容赦なく走り出す電車の中の僕に向かって、秀雄は息を弾ませながら叫んだ。
新幹線と違って、その声は全て僕に届いていた。
そして、他の乗客のみんなにも……