【第23話】
「明日、カート場に持っていって置いとくから。佐々木君も、整備してくれそうな事言ってたし」
僕は、千夏に電話してレガシーで迎えに来てもらい、二人掛りで荷台にカートを乗せると、そのまま彼女の部屋に押し掛けてしまっていた。
「すみません、呼び出した挙句にお邪魔しちゃって」
「ううん。気にしないでいいよ。でも、カートで公道を走るなんて馬鹿な真似は、もうやっちゃ駄目だからね」
彼女は弟を諭す優しい姉のような口調で言った。
「判ってます。ちょっとカッとなって、つい……」
「何かあったんでしょ。家に帰りたくないなんて」
「はぁ…… まあ」
俯く僕に、千夏はコーヒーを差し出した。
彼女の部屋は相変わらず甘いミントの香りが漂っていて、差し出されたドリップコーヒーの香ばしい 香がそれを掻き消したが、どちらも心地のいい匂いに変りは無い。
黒いショートパンツにピンクのキャミソールを着た彼女の肩から、ブルーの下着の肩紐が見えている。
「あの…… 千夏さんは彼氏とか、いないんですか」
僕は熱いコーヒーを啜りながら彼女に訊いた。
「いたけど、二ヶ月前に別れたわ。あたしが、カートでレースに出る事が気に入らなかったみたい。今は募集中」
彼女は鼻の頭に小さなシワを寄せて笑った。
「あなたは?」
彼女の問に、僕は大きく溜息をつく。
「さては、彼氏と喧嘩でもした?」
彼女は笑顔のまま、バージニアスリムに火を着けた。
「あの・・・性同一性障害って、知ってますか?」
僕が彼女にそう尋ねると、意表をついた質問に、彼女は怪訝な顔で僕を見つめた。
「聞いた事はあるけど」
彼女はそう言って、パチパチと数回瞬きをする。
(あたし…… いや、俺、本当は男なんです)そう言ったら、どうなるだろう。彼女はどんな反応を示すのだろう。
僕は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「いや、知り合いにそう言う子がいて。悩んでるみたいで……」
僕にはやっぱり言い出す勇気は無かった。
「そう。大変ね。身体の性と心の性が逆ってやつよね」
彼女は、少しだけ真剣な顔をすると瞳を曇らせた。
やっぱり、言えない。だいたい言ったからってどうなるって言うんだ。僕の身体が女であることに替わりは無い。
彼女が僕を男として受け入れる可能性など万に一つもないのだ。
性同一性障害と同性愛者やニューハーフ等をよく混同する場合があるようだが、あくまでも自認する性と相反する性に引かれる訳であって、認識する性別だけで見れば極当り前の事なのだ。
恋愛感情などに左右される事無く、あくまでもGIDは独立した個別の現象なのだ。
「あの、あたしやっぱり帰ります」
僕は不意に玄関の前に放り投げて置きっぱなしにして来た、学校のカバンを思い出した。中には貴重品も入っている。
「そう。じぁ、送って行くわ」
彼女の赤いレガシーに乗せられて家に着いたのは、深夜12時を過ぎていた。
千夏にお礼を言って手を振ると、彼女はボッシュホーンを軽く二回鳴らして走り去って行った。
玄関の前を見ると、確かに放り投げたはずのカバンが見当たらない。
誰かに持っていかれてしまったのだろうか。化粧道具や財布も入っている。
ふとスカートのポケットから携帯を取り出して見ると、着信メールが一件入っていた。受信メールは和弥からのものだった。
『カバンは、盗まれると大変だから預かる』
短いメッセージだが、あの状況下でしっかりカバンを片付けるあたりは、和弥らしい気の利き様だと思って、途端に僕の顔に笑みが零れた。
玄関のカギもカバンの中だったが、近くの植木蜂の下に予備が隠してあるはずだ。
五つ置いてある植木蜂を全部除けてみてようやくカギを見つけた。
僕は母親の携帯に、和弥から言伝を聞いた事をメールしてお風呂に入った。
薄いグレーの下着を脱ぐと、内側に少しだけ血痕が滲んでいた。