【第22話】
僕は聞き覚えのある、その声に目を凝らした。
和弥だった。
「別にいいだろ。何処だって」
僕は何時に無く素っ気無い態度で言った。何故か今は和弥と話をしたくない。
「なんだよ」
和弥が言った言葉に、僕は少し苛立った口調で「何でもないよ。何か用?」
「マユのお母さんから、携帯電話が繋がらないからって伝言頼まれたんだ」
今日は、夕方からずっと携帯電話の電源を切っていた。
「それで、伝言って?」
僕は早く和弥と離れたかった。今だけは……
「今日の夕方から急な出張で、東京に行くって。明日、また電話するって」
「そう、ありがとう。じゃぁ」
僕は玄関の横にマウンテンバイクを止めて、そそくさと彼に挨拶をして家に入ろうとした。
「携帯切ってた事なんて、今まで無かったじゃん。何かあったのか」
彼は玄関先で僕の手を掴んだ。
「うるさいな、何でもないよ」
僕は、和弥の手を振り解いて玄関先にカバンを放り投げると、ガレージの隅に置いてあったカートを、家の前の公道に引っ張り出して勢い良く押した。
まだ何のメンテナンスもしていない、古書店から貰ってきたままのカート。
赤いフロントカウルの左角が割れて、スウェードのハンドルは擦り切れている。
しかし、佐々木が試運転で調子を見たときには、エンジンの調子は良かった。
その時入れたガソリンがまだ入っているはずだ。
5〜6歩でエンジンに火が入った。
遠心クラッチの無い競技用カートは、後輪とエンジンが直結されている為、押し掛けでエンジンをスタートさせる。
見様見真似の押しがけにしては上出来だった。
「おい、こんな所でどうするつもりだよ。そんなもんで公道走ったら危ないだろ」
和弥が僕の肩に手を掛けて制止させようとするが、僕はその手を大きく振り払ってバケットシートに飛び乗った。
アイドリングで走るカートのアクセルバーに足を乗せる。
「おい、よせ。危ないだろ」
和弥が息を切らせながら走って、カートを追いかけて僕の横に並ぶ。
さすがにサッカーで鍛えた足は凄かったが、僕がアクセルを踏み込まなかったのも確かだった。
「止まれ、マユ!」
視界の隅から聞こえる和弥の息がかなりあがっている。
そして、僕は無言のままアクセルバーを一杯に踏み込んだ。
100CCのエンジンが唸りを上げると、人間の足では全力で走っても到底追いつけない速度まで一気に加速した。
それは、レンタルカートとは、まったく時限の違うものだった。
初めて体験する加速力に一瞬怯むが、僕は構わずアクセルバーを踏み続けた。
ノーヘルの髪の毛が一気に後へ引っ張られる。
街路灯の明かりだけが照らす薄暗い景色が、勢い良く自分に向かって飛び込んで来る。
暗闇の錯覚で、昼間に比べるとスピード感は無い。
小さな虫か何かが右肩に勢いよくぶつかった。
「痛っ……」
遠ざかる後方で、和弥が僕の名前を叫んでいたが、競技用のマフラーから出る騒音と切り裂かれる風の音で、殆ど掻き消されていた。
住宅地から県道へ交差する道路を右折した時、マンホールのバンプで車体の底が干渉し、ズルズルのタイヤが思った以上にスライドした為、危なく道路脇の田んぼへ落ちそうになった。
立て直して、再びアクセルを全開にした。シートが遠くてアクセルが踏みにくい。
何もかも忘れたい…… 考えたくない。
無性に苛立つ自分の心が、この風圧で全て吹き飛ばされればいい。
梅雨の合間の晴れ渡る夜空に、甲高いエンジン音が鳴り響いて空気を震わせ、その振動で星が零れ落ちそうだった。
高速の高架橋を潜った辺りで、急激にエンジンの回転が下がり、ストールした。
ガス欠だ。
止まる寸前に惰性で路肩に寄った僕は、カートのシートに座ったまま空を仰いだ。
星に手が届きそうで、思わずを夜空に向かって右手を差し出した。
濃紺の空に散りばめられた無数のコンペイトウと銀色の三日月は、ただ静かに僕を見下ろしていた。