【第20話】
波の音とウミネコの声以外には何も聞こえない。
何処までも広がるその空間は、二人を遠い世界へ連れて行く。
僕も和弥の方に頭を向けて寝転がった。
目の前に落ちて来そうなほど低くて厚い雲が、どんよりと広がっている。
静かに目を閉じると、耳鳴りのような風の音が聞こえた。
潮の香りと波の音は、何故か全ての現実から気持ちを遠ざけてくれる。
和弥の吸うタバコの煙が、やたらと煙くて目を開けた。
上空は相変わらず重い雲に覆われていて、手を伸ばせばその暗雲の中に届きそうだ。
砂浜と反対側に顔を向けると、そこにはあまりにも現実的なパルプ工場のプラントが建ち並び、太い煙突から真っ白い水蒸気の煙が立ち昇っている。
僕はその煙が何処まで行ったら消えるのか、じっと目を凝らして眺めていたが、低い空が邪魔をして、何処迄が煙で何処からが雲なのか判らない。
それは、まるで僕のよう。
何処までが女性で何処からが男性なのか、最近判らなくなる。
この心は本当に全て男なのだろうか…… 本当は男と思い込んでいるだけの普通の女の子なのではないだろうか……
あたりは次第に暗くなって、街路灯が光を灯しだす。
潮風を受けた顔や腕に微量の塩が結晶化していた。
「そろそろ、帰ろうか」
僕は起き上がって和弥に声を掛ける。
「俺……」
そう言って和弥は言葉を呑み込む。
「ん?」
僕は自然に訊き返した。
「俺、今日彼女とセックスしたよ」
一瞬彼の言葉の意味が判らなかった。一秒、いや二秒くらい間を置いて、どう言う事か把握した僕は「よかったな」と言って微笑んだ。
彼は、困惑したような複雑な笑顔を僕に返すと、立ち上がって防波堤から飛び降りた。
そして僕達は、街路灯だけが煌々と立ち並ぶ産業道路を家路に向かって走った。
和弥は何故わざわざ彼女とセックスした事を僕に告げたのだろう。
僕が誰かとそう言うことをしたとしても、和弥には、いやおそらく誰にも言わないだろう。
僕に対しての踏ん切りを示したのだろうか。
僕は和弥の肩に手を置いて、走る自転車の風を受けながら考えていた。
「なぁ、どっかで何か食べていかない」
ずっと黙ってペダルを踏んでいた和弥が不意に声を掛けて来た。
僕は一瞬ビクリとしたが、彼の頭に顔を寄せて「うん、いいよ」
さっきまでいた海岸がやたらと遠くに感じた。
笛付きロケット花火を打ち上げる音が、遠い暗闇から聞こえていた。
その夜僕はなかなか寝つけずに、衛星放送のスタートレックが流れるテレビを点けっぱなしにしていた。
今になって、和弥の言葉が繰返し頭の中を過ぎり、胸の奥がキリキリと苦しくなる。
中学三年の夏、あのまま成り行きに任せていれば、間違いなく彼の初めては僕の身体で体験しただろう。
何故、今更そんな事を考えてしまうのか、自分でも判らない。
僕の中の彼女が、僕を侵食して女の嫉妬心を悪戯に掻き立てているようだ。
それとも、僕が永遠に経験できない男としての喜びを、彼が経験した事に対し、男として嫉妬しているのだろうか。ならば、その方がよっぽどマシと言うものだ。
防波堤の上で和弥が見せた複雑な笑顔が、目を閉じると瞼の裏側に何度も浮かんで来て、カーテンの外が薄っすらと白み架かる頃、僕はようやく眠りにつく事が出来た。