【第16話】
(Good Day)
「楽にしてね」
キッチンで忙しく動き回る千夏が僕に言った。
今、僕は彼女の部屋にいる。
二週間以上カート場に顔を出さなかったので、携帯に千夏から電話が来たのだ。
「もしもし、千夏です」
「あ、こんにちは……」
「しばらく来ないからどうしたのかと思って」
「あ、ちょっとバイトとか忙しくて……」
「よかったら、ウチに来てツナギの試着してみない?」
そう言って誘われた時は正直驚いたが、よく考えれば、彼女から見た僕はカート好きの、ただの女子高生なのだった。
キッチンからホワイトソースとチーズの焼ける香ばしい匂いがする。
学校帰りに直接立ち寄った為、丁度お腹も空いてきたところだ。
フローリングの床に、白い壁と天上。
床にはチロリアン柄のラグマットが敷いてあり、天上から釣り下がっている照明器具は、黒い傘の少し変ったデザインだった。
黒いチェストの横には小さな、同じく黒い鏡台が置いてあって、コスメが並んでいる。
僕は思わず、千夏がどんな化粧品を使っているのか気になって、少しだけ覗き見る。
「今オーブンで焼いてるから、もう少しね」
彼女はそう言ってアンティークウッドで出来たテーブルの、僕の目の前にあるグラスにアイスティーを注ぎ足すと、クローゼットに手を伸ばした。
ハンギングしたセルリアンブルーのツナギを取り出す。
胸にはENDLESSと白い文字で描いてあるそれは、ツナギと呼ぶのが申し訳無い。まさしく、レーシングスーツだ。
お古と言うにはあまりにも鮮やかで、どうしていらないのか疑問さへ沸き起こる。
「カート場に置いてたんだけど、しばらく来ないから持って来のよ」
「すみません」
「うんん。カートはお金掛かるから、バイト頑張んないとね」
千夏は笑ってそう言った。
今日は仕事が休みだったらしく、殆ど化粧をせず髪を下ろした彼女は、普段見るよりずっと童顔で、僕と同い年と言っても判らないくらいだ。
「あの、なんでこんなに綺麗なのに、もう着ないんですか」
「あ、これね。こんどスポンサーが変って、イメージカラーが赤になったのよ。だから」
千夏はそう言いながら、クリーニング時に掛けられたビニールを、スーツから取り外した。
彼女もカートレースに出る際、僅かながらスポンサーが付くらしい。
「そう言うの、いやだった……」
彼女は僕の表情を探るように、少し上目使いで笑った。
「あ、ぜんぜん。カッコイイし。でも、あたしみたいな素人がそんなの着て、前のスポンサーに怒られませんか」
「大丈夫よ。問題ないわ」
彼女は笑って言った。
僕は制服を脱いでスーツに足を通して、それから腕を通した。
難燃素材特有の臭いが、逆に真新しさを感じさせる。
ジッパーを下からゆっくり上げていくと、心持ち胸の所が緩いのは、彼女の方がバストがあるという事だろうか。
「やっぱり、ぴったりね」
彼女はそう言って、目の前にシューズを差し出した。
「足のサイズいくつ」
「23センチです」
「ちょっと履いてみて。22,5だけど」
千夏が差し出したシューズはぴったりだった。
「これもついでだから、あげる」
僕を見上げて笑う彼女の笑顔は、同性に向ける警戒心の無いもののせいか、小動物のようにとても可愛く思えた。
千夏に会って間もない頃、僕は夢を見た。
彼女を抱いている夢だ。
僕の身体は身長が170センチ以上あって、きりりとした眉に切れ長のクッキリとした二重で、鼻筋の通ったアイドル系の顔。
胸板は厚く、少な目の脂肪は腹部に薄っすらと腹筋が浮き出ている。
彼女の洋服とジーパンを脱がせ、素肌を愛撫すると千夏が微かな声を上げて悶える。
彼女の両膝を立て股間に顔を埋めて、そこで見たものや触った感触は、おそらく自分自身のもの……
他の人のものなど知らないから。
そして目が覚めた時、身体が異常に火照っている。
性自認と身体が一致しない場合、複雑な心理状態により、しばしば異常な夢を見る。
しかし今、壁に立てかけた姿見に今映っているのは、小柄な女性が二人。
千夏と真夕。ただそれだけだ。
「10月にレンタルカートのワンメイクレースがあるから出てみれば」
マカロニグラタンを頬張る僕に、千夏が言った。
「えっ、素人も出れるの?」
そのレースは素人の為にあるような気軽なレースだと言う。
「マユなら、もしかしたら優勝できるかもよ」
千夏がシーザーサラダをホークで突きながら言う。
「まさか」
僕は冗談を受け流すように呟いた。
しかし、レースには出てみたい。僕が惹かれるのはやはり、男と男の勝負が出来るという事。
「考えておきます」
僕は笑顔でそう言うと、アイスティーの入ったグラスに口を着けた。