プロローグ ― 【第1話】
※女性の身体でありながら、男性の性自認をしている障害をFtM−GIDと言います。これに対して、男性の身体で、女性の性自認をしている障害をMtF−GIDと言います。
(プロローグ)
二日間降り続いた雨が上がると、外は清々しい風が吹き抜けて、道端の雑草は、雨露にきらめきながら、青々と見違えるほどの背丈に成長している。
一雨ごとに暖かくなる陽射しは、確かな季節の移り変わりを示していた。
目覚まし時計の音で目が覚めた。が、異常に眩しい。
適当に閉めたカーテンの隙間から、久しぶりの太陽の光が差し込んで、「彼女」の顔を照らしていたのだ。
刑部真夕は大きなあくびをしながら渋々とベッドから起き上がり、パジャマを脱ぎ捨てると、白いブラウスに袖を通して、全体にプリーツの入ったミニスカートを履いた。
面倒臭そうにブラウスのボタンを下の方だけ閉めて、スカートの中へ入れ、箪笥の引出しから取り出した、学校指定の紺色のハイソックスを、ベッドの上にひっくり返って履く。
カーテンを勢い良く開けると、抜けるような春の青空がどこまでも広がっていた。
校章ワッペンの着いた、紺色のブレザーを片手に階段を降りてキッチンへ行くと、母が入れていった コーヒーが、コーヒーサーバーのガラス容器に残っている。
これは何時もの事で、真夕はそれを自分のマグカップに注ぎながら、食パンをトースターに入れた。
リモコンを使って、リビングのテレビを点けると、お決まりの、朝のワイドショー番組が流れていた。
別に真剣に見るわけではないが、何時もの習慣で何となく点けるのだ。
学校でのおしゃべりの話題にも役立つ。
お天気コーナーが流れるまでには朝食を済ませなくてはならない。
携帯電話の着メロが鳴って、出てみると、クラスメイトの加奈からで、
「貸したCD、今日忘れないで持ってきてね」と言われた。
「大丈夫、持っていくよ」と応えて電話を切ると
真夕は慌てるようにして、二階の自分の部屋へ駆けて行き、加奈に借りていたCDをミニコンポから 取り出し、ケースに収めてカバンに詰め込む。
既に、MDとi‐Podへのダウンロードは済んでいたが、一週間借りっぱなしだった。
トーストを齧りながら、他に忘れ物が無いか、少しだけ考える。
宿題は無かったし、和弥に借りている漫画は当分返さなくて大丈夫だろう。
朝食を済ませると、洗面所へ行き、鏡に向かって歯を磨く。
スタイリングムースをピンポン球の大きさに手のひらに出して、髪に着けてから軽く手グシで馴染ませ、ブラウスのボタンを上までキッチリ留めて、モスグリーンのリボンを結ぶ。
淡いピンクの色着きのリップを唇に薄く塗って・・・・・
そして、何時も小さな溜息をついてから、「よしっ」と自分に気合を入れるのだ。
母の部屋から、八時を知らせるハト時計の鳴き声が聞こえてきた。
8時20分までに校門を潜るには、もう出かけないと間に合わない。
慌ただしくキッチンへ戻り、ブレザーを着て、カバンを持って玄関に向かおうとした時、真夕の左足の小指がドアの端っこにぶつかった。
「痛ってぇ…… 畜生!」
(FtM‐GID)
1
僕は僕である為に、「彼女」の身体を纏って生まれ「彼」として生きている。いや、この身体にしてみれば、僕の心に支配されて生きる「彼女」なのかもしれない。
人は「性自認」というものに従って、女性は女らしく、男性は男らしく生きることができる。しかし、全ての人間が身体の性と自認する性が同調するとは限らないのだ。
神様の些細な悪戯か手違いが、身体的な性別を容認できず、反対の性的文化に属してしまう人間を、稀に造り出す。
目覚めた自我が性自認するまでは、他の女児となんら変わりなくフリルの着いたスカートを履き、三歳の七五三では晴着を纏っている。
ある朝目覚めた時、ちゃんとした男の身体に戻っていて、全ては夢だったのだと思う事がある。
しかし、それこそが、夢の中の話なのだ。
幼稚園も小学校も、スカートなど履いた事はなかった。
いつも半ズボンかジーパンばかり履く僕に、少しでもかわいく見えるようにと、母がサロペットを買って来た事があったが、トイレが面倒であまり履かなかった記憶がある。
自分の事をずっと「俺」か「僕」と呼んでいた。
男女とからかわれた事もあったが、活発で比較的誰とでも仲良くなれた事と、常に学級委員候補の和弥と仲が良かったせいもあって、これと言った嫌悪感を味わった事はない。
どちらかと言うと、男子と女子の間を橋渡しするような、そんな存在だったと思う。だから、小学校の頃、僕のいたクラスは男女の仲が非常に良くて、一緒に遊ぶ事も多かった。
刑部真夕…… 僕は自分の名前に「子」が付いていない事に少しだけ安心感を持っていた。「マユ」と言う名前は、稀にだが、男の子にもいるからだ。
しかし、中学に入ってプリーツの四つ入った紺色のスカートを初めて履いた時、他人から見れば僕は「彼女」以外の何者でもないのだと実感した。
股間と太腿辺りがやたら風通しよくて非常に頼りないその布切れは、初めのうち、身体を動かす度に揺れて奇妙な気分だったが、慣れてくるとついあぐらをかいてしまったりする。
白いブラウスの下に着けたブラジャーも勿論初めてだった。
「絶対に着けなさい」と、僕の一番の理解者である母が言った。
仕方なく従って、デパートの下着売り場で渋々試着をしたが、人並みに張り出てきた胸には、意外なほど納まりが良かった。
中学校の入学式の日、僕のスカート姿を初めて見た和弥は、なんの遠慮も無く大笑いして、最後に優しい笑みを浮かべて「似合うよ」と言った。
中学に入ると三つの小学校が一緒になり、その中には、既に男を何人も知っていそうなほど異常にマセた娘もいて、教室には不釣合いなフレグランスの香をプンプンと匂わせていた。
そういった娘達の影響もあり、同じ小学校から来た連中も、あっという間に色気着いて、少しツッパッたクラスの男子に色目を使ったりする。
勉強も出来てスポーツ万能の、絵に描いたような和弥は、不良達とはまた違った意味で女生徒達の人気を集めた。
ある時、それを気に入らない他のクラスの不良グループが、放課後に校門の前で待ち伏せしていた事があった。が、一緒にいた友人の話によると、和弥はあっという間に三人を倒し、四人目はひたすら彼に謝罪の意を露わに泣いたそうだ。
その事件以来、和弥はどんな連中にも一目置かれているようだった。
中学に通うようになって、僕は女言葉を意識して使うようになった。
「彼女」にしか見えない以上そうするしかない。
もし、自分の全てを打ち明けるとしても、会う人全てにいちいち説明するのはウンザリするし、理解してもらえない人も中にはいるだろう。
それなら、地方出身者が東京へ行けば東京弁、地元では方言を使い分けるように、僕も二種類の言葉を持ち歩けばいいことだ。
使い出して気付いた事だが、二種類の言葉を使い分けるのは、そんなに難しい事では無い。
微妙なイントネーションの違いで、自然に語尾が違ってくるのだ。
ショートカットの男勝りな娘が、同じ学年にも何人かいたが、僕から見れば彼女らは明らかに女性だった。
しかし、端から見れば、そんな彼女達よりも僕の方が女の子らしかったに違いない。
僕は、何時しかそれを楽しめるようになった。
容姿に合った言葉、仕草、態度。それを、心の片隅から観察する「僕」がいる。
意外とおもしろい。