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屍に生きる

作者: 水落護
掲載日:2026/03/16

 その男はろくすっぽ整備もされていない街道を歩いていた。


 墓地からの帰りだった。とは言っても、男は墓地参りをしてきたわけでも、墓地の清掃をしてきたわけでもない。ましてや、彼は管理者でも関係者でもないのだ。唯一の接点があるとするならば、服にこびり付いた泥が墓土であることぐらいだろう。髪や服はひどく傷んでおり、肌には生命を感じさせる赤みなどまったくなかった。


 男に体温などはなく、濁った瞳はただ日常の延長線上を辿るように虚空を見つめるだけで、どこへともなく気の向くまま歩き続けていた。


 鳥すらも彼を生物とは認識しておらず、その男がぴたりと足を止めれば羽休めに利用する有り様だ。そんな男が歩けば、最初は警戒心などまるで見せなかった小動物たちもいよいよおかしいと感じて逃げ出す始末であり、立ち並ぶブナの木も風に語られればひそひそと陰口を叩くようにざわめいた。


 そんな木々に足元を掬われても、男は一つの声も上げやしないし、顔から地面へ向かっていく。しかし人目もなければ気にする必要などないのだ。男はゆるりとした動作でむっくり立ち上がると、土埃を払うこともなく再び前へ歩き出した。


 だが、人目に触れれば怪しい事に間違いはなかった。やがて──男は、その足をピタリと止めて息を止めた。


 目の前からうら若き乙女がこちらへ向かって歩いてきたからだった。女は抱える花束よりも美しかった。黄金色に輝く小麦畑のように美しいブロンド。雪解けした水を思わせるほど澄んだ肌は遠目に見ても目を見張るものがあった。


 それに引き替え、男はどうだろうか。劣化の激しい穴だらけの麻布のボロに、浮浪者よりもなおひどい髪。何より──その土気色の肌から放たれるひどい悪臭は、およそ人が放って良いものではなかった。


 男は思わず薮の中へと身を隠した。木陰の中で息を殺して、身じろぎ一つもせずに。女の過ぎ去る事だけを、ただ待った。


 近くで見れば見るほど美しい女だった。風に乗ってきた鼻腔をくすぐる心地よい香りに、男はどこか懐かしさを覚えた。しかし思い返せど確実に面識などというものはなく、手繰り寄せた記憶の中でもその姿は微塵も浮かびやしない。

 木陰の中で熟考する中、そこで男は、はたと考え至った。


(──これは、前の持ち主の記憶(もの)ダ)


 〝ネクロダイバー〟と呼ばれる者がいる。いつ頃から存在するのかは誰も知らない。ただ、生まれた時から生者ではなく、生ける屍として過ごすことを強制された──もはや御伽噺でしか語られることのない、今では空想上の存在として口伝される『伝説上の生き物』だ。


 死んでいるのに生きているとはまたおかしな話であるが、いつ生まれたのか、どうやって生まれたのか……幾百の年月を過ごしてきた男は、そんな遥か昔のことなど、とうに忘れてしまっていた。


 その男が覚えていた事は、人に見つかれば住処(、、)を追われるのだという事。そして、狂ったように、追い回されるのだという事。そのふたつだけであった。であれば、見つからない事は彼にとってトラブルを避ける為の絶対的な条件であり、極力関わりを持たないのが生きる(、、、)為の定石と言えた。


 男は、女が過ぎ去った後、こっそりと人目を避けて森の中を突っ切ろうと考えた。障らぬ神に祟りなし、ときびすを返した。これが正しい判断であった。


 ────……はずだった。


「お墓が荒らされてる……猪かしら」


 男は女の後をつけた。その女が来たのは、男が新たな生を得た場所であった。女が悲しげに瞳を揺らす姿に、男の胸はねじ切れんばかりに締め付けられた。

 男が墓穴から這い出た事で荒れた土を、女は獣の類が墓を荒らしたのだと勘違いしながら、周りにあぶれた土を(なら)していった。


 男は、白く細い指が土に侵され汚れていく様に、歯痒さを感じた。足が藪から先へと踏み込もうとするのを必死に堪えた。本能とは別に襲い掛かる感情に、必死に抗っていた。


 曲がった墓標と墓土を戻した女は、傍らに置いていた花束を取り上げると、盛り上がった土の上に、添えるように安置し、胸元で十字を切ってから合掌をすると、静かに黙祷した。


「あなたがいなくなっても、私は強く生きています」


 祈りの所作を済ませた女の言葉に、男はなぜか胸を撫で下ろした。だが、そうして初めて疑問を持った。なぜ自分はこのように人の言葉一つに気持ちがざわめいてしまっているのか。こんなことは今までになかったのだ。どこか不思議な感覚に男が頭を悩ませていると、女は突然いたずらに笑った。


「──なんて言えたら。すこしはあなたを安心させられるのかな」


 男は首を傾げた。どういうことだろう、という疑問がその脳内を駆け巡っていた。


「私はちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、あなたを憎んでます」


 ドクン、と止まった心臓が跳ね上がるのを男は感じた。


「あなたは私の身を助けてくれましたが……心までは救ってくれませんでしたね」

「アっ、ウっ……」


 藪の中で、男は石を引っ掻いたようにちいさな弁明のうめき声を上げた。すぐに口を手で塞いだものの、幸か不幸か女には届いていなかったようだった。


「ひどい人だわ…………私はあなたのことを忘れられやしないんですもの」


 女はそう言って一息つくと、風化して痛んだ木製の墓標をざらりと撫でた。


「デイヴィット……ほんとうに、ひどいひとだわ……ッ!」


 女は墓標にすがって泣きついた。玉粒ほどの涙が頬を伝ってはボロボロと墓土に染み込んでいった。伸ばした手がもう届かぬのだということを知った男は、そっと腕を引き寄せては茂みの奥へと姿を隠した。


 それからというものの、女を草葉の陰から見守る日々が続いた。自分がデイヴィットなのかは分からない。ただ胸のつかえにもどかしさのようなものを感じ、自然と追いかけていた。この場を離れなければいけないと、遠くで警鐘の鳴るのを感じながらも、男にはどうしても彼女を見過ごす事ができなかったのだ。


 女は相変わらず墓前で憎まれ口を叩いていた。それもひどく悲しそうにだ。


 きっと本当に言いたい言葉はこれではないのだろう。男はそれをなんとなく理解していた。なぜなら決まって最後にはこう言うからだ。


「今すぐ、あなたに会いたい……」


 それを聞くたびに胸の内に喜びと焦りとが揺れ動くのを感じた。

 男は次第にどちらが本当の自分の心なのか分からなくなってきた。


 ある日男が森の中を歩いていると老齢の男の死体を発見した。死後からそれほど時間は経過しておらず、反り立った壁を見上げれば崖から足を滑らせて転落したのだろうということは容易に見てとれた。


 その事実自体は男にとって何の関心もなかったものの、その男が羽織っていた外套が比較的損傷もすくなく、最近男の中に芽生え始めていた、ある目的を果たすために利用できると考えた。思い立ってからの行動は早かった。全身を骨折してぐにゃぐにゃになった死体から外套だけを引き剥がすと、男はその場を後にした。

 後ろで犬の鳴く声が聞こえたものの、特に気にはならなかった。

 今の男の脳裏にはたった一つの目的しか映らなかったのだ。


 ──あの(ひと)を救いたい。


 これで姿を隠すことができる。そして自分は人と関わることができるのだ。あの濡れ顔からそっと涙を拭い去ることができるかもしれない。

 男は自然に胸を高鳴らせていた。




 女の住まう寒村には雨が降っていた。ぽつ、ぽつとイラクサの葉を叩くことを繰り返していた雨は、次第に土を跳ね除けるほど激しく降り出した。


 村の中でも特に立派な敷地と牧場を持つ家の中へ入り込んだ女は、ブラウスに染み付いた雨水を簡単に絞り落とすと、そのまま暖炉へと向かった。


 そこへのそりと一定の間隔で足音を鳴らしながら近づいてきたのは中年の男だった。その男は立ち止まれば仁王立ちをしながら、女へ鋭い視線を送った。


「エリーゼ、また(、、)墓地に行ってたのか?」

「……パパには関係ないでしょ」


 降り出した雨で冷たくなった空気は、一層室内を寒々しくさせた。パチパチと火花を散らしている暖炉の火ですら縮み上がったように震えた。


「地主の娘としての自覚はないのか。死んだ農奴なんかにうつつを抜かして」

「地主の娘としての自覚、ですって……?」


 暖炉にあたって背を向けていた女はゆらりと立ち上がれば、思わず背筋も凍りつくような冷ややかな目で父を見据えた。


「それって何? お母さまみたいにご貴族様に充てがわれて、かわいがってもらう覚悟ってこと?」

「うっ……」


 仇敵をめ付けるような憎悪の視線にはさすがの父親もたじろぐより他なかった。しかし面子を重んじて固唾を飲んで踏ん張った父が「女の癖に生意気な口を」と息巻こうとしたものだから、女は畳み掛けるように言葉を紡いだ。


「それでお母さまは自害をなさったわ。そのお詫びの気持ちとして更に土地をもらったのよね? 次はどこが欲しいの、言ってみてよ!」

「…………」


 図星を突かれてか、はたまた言葉すら失ったか。女の父は視線を逸らして部屋の隅へと視線を逃すと、口惜しそうに下唇を噛み締めた。


「地主、地主ってバカみたい。結局はご貴族様方の小間使いでしょ」

「エリーゼッ!」


 湿気の高い部屋に乾いた音が響いた。女は父に頬をぶたれたのだ。しかし空のような青い瞳はその気高さを失わず、暖炉の火よりもなお情熱的に燃え上がった感情は、女の瞼の奥を沸騰させ溢れさせた。


「パパなんか……」


 続く言葉を言ってしまえば、元には戻れないことを女は知っていた。

 しかし母の死と、想い人の死と……もう二度と取り戻せない尊い命を思えばこそ、それを軽んじた父の言動は到底許せるものなどではなく、沸々と湧き続ける感情を蓋することは容易でなかった。


「パパなんか、だいッきらい!」

「エリーゼ、待ちなさい!」


 堪らず豪雨のなか飛び出した女は、父の呼び止める声すら振り切ってただがむしゃらに森の中へと向かっていった。


 目的があったわけでもない。ただささくれた枯れ木の目立つ森が、どこか中身のない自分と似ていたからだったのかもしれない。


 どこへともなく駆けだしたものの、どれだけ泣き叫ぼうとも、黒雲のように靄のかかった気持ちは瓶詰めされた気泡のように抜け出ることはなかった。  もはや頬を流れているのか雨なのか涙なのか分からなくなった頃、女はようやくその足運びを遅らせると、そのまま立ち止まった。


 目に溜まった涙をこぼさないように上を向いたのは父に対するほんのすこしの反発心からだろうか。しかし次の瞬間には言葉にならない思いの丈が、代わりに声となって口から溢れ出した。


「あっ……うっ」


 トボトボと空を仰ぎながら歩けば木の根に足を引っ掛け、女は抵抗虚しく胸から着地した。


「うっ……」


 肺を圧迫されて無理矢理押し出された息はその勢いを声帯だけで留めることなどなく、鼻の奥と口内で暴れてから出ていった。


 何をしているのだろう、と女は自問した。庶民が身につけるにはすこし上等なブラウスも、泥水をすすってはその品位も失われてしまった。


 悲しみでぐしゃぐしゃに歪んだ顔は水たまりなどまるで気にする様子はなく、あれほど力強くぬかるんだ道を蹴り出していた足も立ち上がろうとすれば力を貸してくれはしなかった。


 ──……このまま消えて無くなってしまいたい。


 声もなくそう願った。力無く地に触れる手の先で草木絡む茂みが揺れ動いたことを確認すると、野犬の存在が女の脳裏を掠めた。


 ただ命の危機に瀕してなお女は抵抗を見せなかった。

 このまま食われ排泄されて彼の眠る土となるならそれもいい。そんな言い訳じみた言葉で無理矢理自分を納得させると。やがて──、


(デイヴィッド、わたしも、今……)


 冷たい雨の降る中で。エリーゼの霞みゆく視界は、重たい瞼に蓋をされ、雨音だけを向こう手に聞けば、意識は遠く立ち退いていった。




 男の心中は穏やかではなかった。時が経てば勢いの増す天候のように、女が倒れて起き上がらなかったところで見守ることなど忘れて急ぎ近寄った。


「アっ、ウっ…………」


 どう呼びかけようか迷ったものの、まともな声など出やしなかった。生きているのか死んでいるのか、微動だにしない女の姿に、男はいよいよ自分の息が荒くなるのを感じた。


 ひたりと首筋に指先を這わせると、弱々しくも血が脈打っていることを感じた。


 まだ生きているのだと確認すれば、男は周囲を見回して何か使えるものはないかと探した。しかしそう都合よく何があるわけでもなく、自分のただれた手のひらを見つめて男はただひそかに考えた。


 ──許されるだろうか。


 そんな思いが男の中を巡った。もし彼女に触れれば、後戻りはできなくなってしまうだろう。沸々と湧き出る欲望に歯止めが効かなくなってしまう。この身が長くないことを男は知っていた。


 だからこそ、関わってしまえばまた彼女を不幸にしてしまうのではないか。頭を抱えていたものの、そんな疑念は頭上で渦巻く黒雲が放ったいかづちがいなないた瞬間消し飛んだ。


 遠くで煙の燻るさまを見た男は血色の悪い顔をなお青ざめさせるとすぐさま女を抱えて走りだした。


 そこには懸念や疑念など何もなく、ただ救いたいという純粋な思いだけがあり、それだけが鈍い足を動かしていた。当てもなく走りだした男だったが、やがて何の目的で建てられたか分かりもしない掘っ建て小屋を見つけた。


 窓もなく隙間も多く、不出来で建物と呼ぶのも躊躇われるものであったが、幸い雨は防げた。中で雨宿りをしていた男は雷が降ればまた彼女を抱えて走らなくてはと気を張り続け、そのまままんじりともせず夜を迎えた。

 すこし時が経てば空の彼方で唸る音も次第に遠ざかり、やがて雨音も止みだした。


 ただ女の息遣いは荒くなる一方であった。勢い余って咳き込むばかりか顔も熟れた果実のように赤くなってしまうような有り様だ。どうやら女は風邪を引いたようだった。


 ずぶ濡れた服をそのままに隙間風に当たり続ければそれは至極当然の道理であった。そのことを思い出した男は、慌ててあたりを見渡した。しかし古屋の中にあるのはあまりにもお粗末な、風化した修繕材のみだ。


 困った男はたちまち身につけていた外套を女にかぶせた。外套そのものも濡れているためそれでどうなるわけでもなかったが、ひとまずの安心を得た男はそのまま森の中へと向かっていった。食糧と暖を取るための火剤の確保と生まれてこの方感じたことのない焦燥感に、男は初めて足の軽くなるのを感じた。


 自分でもどうしてここまでするのかは分からなかった。ただ足だけが動いたものの、男自身どこかでそれを悪くないと思っていた。




 女は枝を踏み鳴らしたような音で目を覚ました。ひなたぼっこをしていたような感覚を不思議に思いつつも、うすらと目を開けた。

 見れば目の前には焚き火があり、中ほどまで炭化した薪木がまたちいさく爆ぜた。


 体の節々に痛みを感じながらも気だるい体に鞭を打って辺りを見渡せば、どこか見覚えのある小屋が目に映った。


 ぼうっと寝ぼけた頭を動かしていると、乾いた隙間風に思わず身が震えた。そこで女は初めて身を包む外套の下が一糸纏わぬ姿であることを知った。


 知れば体を巡る血潮が脳へと駆け巡り、真っ赤な顔は熱した栗のようにはち切れんばかりだった。


 だがそれも記憶を巡れば降る雨に冷まされた。父へと捨て吐いた台詞も渦巻けば自分へと牙を剥け、寄せる吐き気に思わず固唾を飲んだ。口の中に胃酸の嫌な後味を残しながら、女は辺りを見渡した。


 周囲に人の影は見当たらない。しかしエリーゼも地方に住む身とはいえ、曲がりなりにも地主の娘というすこしばかり裕福な家庭で育った自覚はある。よもや眠りながら火を起こして薪木を焚べ、普段ならできもしないことにもかかわらずそれを眠りながら自分を世話しのだなどと思いやしない。そんなキツネに摘まれたような話で自分に自惚れるほど夢見がちな年頃でもなければここに第三者を探すのは必然とも言えた。しかしいくら探したとて周囲に人の姿は見えない。ただ自分の足元に粗末な布袋が置いてあるのがひとつ見つかるのみであった。


「なんだろう、これ……」


 どれほど寝ていたのかは分からないが、何の気なく声に出してみてエリーゼは初めて気がついた。それほど喉の調子が悪いわけではないのだ。火の近くで暖を取りずっと眠っていたにも関わらずだ。奇妙な話だと思いながら、女は布にくるまれたものに目を丸くし、そのうちのひとつを摘み上げた。


 それ自体はこの地方ではまるで珍しいものでもない、よく食用に使われることの多いただの胡桃くるみだ。しかし女の記憶に誤りがなければ、今の時期の胡桃はまだ青く果肉も付いているはずだった。それにも関わらずこの胡桃は果肉を取ってあるばかりか、殻まで割って中の種子を取り出しては布に纏めて置かれているのだ。


 胡桃の果汁は灰汁(あく)が強く触れば手が黒く染まってなかなか落ちやしない。見れば自分の指は当然白く、最も低かった可能性はここで完全に排除された。


 いよいよここに人がいるのだと分かれば、まずその脳裏を掠めたのは父の存在であった。しかしそれならば真っ先に家へと連れ帰られているだろうと思い至ればその警戒も自然と薄くなっていった。


 次に考えられるのは親切な旅人ということになる。ただそうなればエリーゼの顔はまた薪木が爆ぜるがごとく火を噴いてしまい、それを誤魔化すように外套を頭からすっぽりと深く被った。この女とてうら若き乙女だ。婚前に一糸纏わぬ姿を赤の他人に晒したのだと思えば羞恥心に苛まされるのも至極道理であった。


 しかし薪木の炸裂する音とは別で枝を踏み締めるような音を聞けば、女も途端に警戒の色を濃くする。美しく整った顔も凛々しさが際立つように引き締まり、頼りなくとも唯一この身を守ってくれるしれない外套を引き寄せ羽織った。


 玉の肌を隠したのは精一杯の抵抗と言えるだろう。一歩、二歩と薮をかき分けて現れたその人物は、まず睨め付ける女を見れば手にしていた薪木と共に皮袋をするりと地面へ落として数度瞬きをした。トポトポと音を立てながらこぼれていく水を気に留める様子などもなく、ただ目の前にある現実を疑うようだ。そして噛み締めるように膝から崩れ落ちると安堵のため息を漏らした。その様子を見れば、初めこそ身構えていた女も呆気に取られ、この人物が自分を助けてくれたのだと理解した。


 しかしそれでもまだ幾許かの緊張は残っていた。それはその人物の服装だった。縫い合わせたぼろ布をツタでぐるぐる巻きにした服からはお世辞にも育ちの良さは見えなかった。頭をぐるぐる巻きにした異質さなど今が昼間でなければ物の怪の類かと疑いたくなるほどだ。女は一息自分に勇気をくれる酸素を取り入れれば、声を奮い立たせた。


「どなたですか?」


 図らずとも鋭い声になってしまったことに礼節を欠く行いだと反省をした。しかし口にしてしまえばそれまでで、女には固唾を飲んで男の言葉を待つより他はなかった。


「……あ、う」


 体格とは裏腹に老人を思わせるほど掠れた声に、女は外套を強く引き寄せた。異様な雰囲気を纏う男が喋ることもできないとなればそれも致し方のないことではあった。しかしおもむろに枝先で何度も地面を引っ掻き出せば、女も目を丸くして驚きを隠せやしなかった。

「……あなた、字を!?」

「あう」


 床に描かれたのは文字だった。内容は「怪しい者ではない、危害は加えない」という簡単な文章だ。しかし文字の読み書きはふつう農民にはできないことなのだ。


 ある程度の教養があるのだと分かれば、張っていた肩肘の力も途端に抜け落ち、ようやく女はそっと胸を撫で下ろして安堵のため息を吐いた。




「失礼しました、この身を救ってくれたこと、感謝致します。ご無礼をお許しください」

「うぅ…………」


 言葉が通じればと男は願った。想い人を不安にさせることもなければ、たちまち安心させられないもどかしさだけがそれを思わせた。しかしどうにも叶わぬ夢であることは間違いなかった。


 思いとは裏腹に喋れば喋るほどにしゃがれていく声は、そう遠くない未来にプツリと声帯の擦り切れてしまうことを示唆しさしていた。


 男もそれを重々理解していたものの、到底容認できるほど現実というものを噛み締められはしなかった。  頭を撫でるように吹いた乾風に男が首を振れば、女はふと自分の身のなりを思い出し、緩んでいた手をまた強く握り直しては外套を引き寄せた。


「私の服はどこに?」

「あう」


 問われれば男は迷いなく小屋を指差した。言葉が通じなくともその裏にある善意を読み取るのも容易い。女は小さく会釈をして小屋へと小走りで駆け出した。見送った男は薪木を拾い上げると火に焚べて並べ上げ、しぼんだ水風船のように地面に横たわる皮袋についた泥を気持ちばかりに指で擦った。ざらりとした砂は水と共に伸びるばかりで、完全に落ちはしなかった。




  ────食を済ませ、睡眠を取ったその明くる日。

 チリチリと焦燥感が燃え盛る。

 男は、火の海の中を駆けていた。正確には焼け野原へと変貌しようとしている森の中だ。


 女は涙目ながらに咳き込み、男は息を乱して女の腕を引いた。

 時折、背後から犬の声が聞こえる。それらは遠ざかるどころか徐々に距離を詰め、


「旅人さんッ!」

「あっ、うっ!」


 獰猛な唸り声と共に、遂には旅人の腕へと食らいついた。踊るようにかぶりを振るい、食い込んだ牙から肉を引きちぎらんとする犬の唾液は、どんどん増すばかりだ。


 しかしそれも長くは続かない。煙で麻痺していたとは言え、男の放つ腐臭は増すばかりだった。風邪で鼻でも詰まっていない限り、その拒絶感を誤魔化す事などできやしない。

 犬が涙目になりながら牙を抜いた瞬間、男はその首根っこを掴み、地面に押さえつけた。


「ガッ、ウッ……!」


 組み直せば形勢は逆転した。バリバリと後ろ足で腹を蹴られたとて、痛覚のない男に対しての有効打にはならない。犬は舌を出して静かに痙攣を繰り返すと、やがて一切の動きを止めて絶命した。


「旅人さん、大丈夫ですか?」

「……うっ」


 親指を立てて無事をアピールした。しかし普通の人間ならば痛みに悶えていてもおかしくはない。不自然ではなかったかと男が考えた時だった。


「そこまでだ」


 言い切るのと同時ぐらいだろうか。火薬の炸裂する音が響いた。声の持ち主は身なりの良い服装をしており、その手元では硝煙を立ち昇らせる細長い火筒があった。


「ガッ、うっ……」

「旅人さん!!」


 手の甲ど真ん中を射抜かれていた。血は滲まないものの、衝撃で手首がちぎれ飛びそうになっていた。女はすこしの疑問を覚えたものの、今はと声の方へと振り返る。

 身なりの良いその男は「下賎な輩め」と言いながら次弾を装填しだした。


「我が男爵家の家紋の入った捺印を奪ってどうするつもりだったのだ?」


 貴族を名乗るその男に、女は「男爵家……」と呟いた。


「あなた、もしかしてフォタト男爵?」

「おや……誰がこの領土を納めているか理解しているあたり、ただの農奴ではないらしい。それに美しい」


 ずるりと唇を這った舌に、女の顔がこわばった。


「さて、女。死にたくなければこちらへ来い。今ならその外套を奪った罪も目を瞑ってやる。何なら妾にしてやろう。先日女に一人逃げられてな。腹いせにその父親を殺してやったのよ。この銃口の火が噴く事を冗句(じょうく)だなんて思わない事だ」

「……なんですって?」


 男爵の言葉に、女は激しい怒りに震えた。女は覚えがあった。あの逃げ出した次の日、本来であれば男爵と見合いをする予定だったのだから。心中穏やかでいられるはずはなかった。けれど外れていてほしい願望ほど当たるものはない。


「勝手な行いで土地を与えてしまった事を父に叱られてしまってね。それどころか父は地主ごときに詫びを入れに行くなんて貴族らしからぬ事をしようとした。まあ、結果として事故でくたばってくれたから良かったけどね。それはそれとして、私も土地をタダで与えたままというのは如何なものかと思い至ってね」


 そこで思いついたのさ、と男爵は得意げに続ける。


「地主を殺してしまえば土地は取り戻せる! とね。けど普通に殺せば角が立つじゃないか。そこでだよ。昨日見合いをするはずだった女がいないだなんて言うもんだから無礼打ちとして撃ち殺したんだ。どうだい、完璧な作戦だろう?」


 自信満々に持論を整然と並べる男爵は気持ちを良くして高らかに笑い声を上げた。物理的に腐敗し切った肺が、胸糞悪くなるのを男は感じていた。


「そう。父が……」


 それは女も同じようだ。これ以上巻きようのない指は音を立て震え、邪魔をする掌に食い込み、血を滲ませていた。


「おっ、なんだ。お前がその娘なのか。ちょうどいい、渡りに舟とはまさにこの事か。さあ女、私と共に来い」

「……そうすれば、旅人さんは見逃して貰えますか?」


 女がそう問いかけると、男爵は一拍置いて笑い飛ばした。


「馬鹿かね君は。地主の娘と言っても所詮は女か。立場というものが分かっていないらしい。君の選択肢は私の妾となって私を愉しませる事だけだ。私を不愉快にするなら君の父親同様死んでもらうだけの事」


 撃鉄が発射準備を告げ、その照準が男から女へ向いた。森に広がる火群(ほむら)が木々を萎縮させ、悲鳴を上げさせた時、


「馬鹿が」


 女は走り出した。せめてと斜めに移動したその女へ向けてゆっくりと照準を合わせた男爵がまさに引き鉄に指を掛けた時だった。


「なんっ──!?」


 見れば男爵の手にぶつかったのは手首だ。思わぬ強襲に銃弾は明後日の方向へ飛び立った。普通見るはずのない光景に男爵がギョッと固まっている所へ、女は肩から体当たりの姿勢を見せ、今まさに男爵を押し倒さんとした。──その時だった。


「あっ、うっ……」


 男の吐息がこぼれた。その前に鳴ったのは激しい炸裂音と、尾を引く遠鳴りのような音。


「……ふぅ。遅いじゃないか」

「男爵様が早すぎるのでございます」


 現れたのは燕尾服に身を包んだ若い男。その手ではやはり火筒が硝煙を立ち上らせていた。

 女は志半ばで倒れた。地べたに炎を映やす赤を広げて。


「がッ──!」ぶちっと悲痛な音を立てて。男の声帯ははち切れた。


「薄汚い奴め」


 しかし、既に装填された次弾が男の額を捉えた。男はあえなく倒れた。


「ふう……とんだくたびれ儲けだね。ああ、土地は返して貰えたか」

「いやはや男爵様の首尾の良さ、まさに電光石火でございますね。ワタクシめも感服の限りでございます」

「何、庶民ごときに(とうと)き者の覇道を阻めんというだけの事よ。あの土地はこれからの国の発展で大いに価値が出てくるからね。庶民には勿体ない」


 地に伏す二人を嗤う二人。その最中、業火が猛り狂うように低く唸った。


「さあ外套の中にある捺印を回収するぞ。私が男爵家の跡取りたる物的証拠なのだから──」


 男爵が女の着ていた外套に手を掛けようとした時だった。


「──は?」男爵の腕に牙が食い込んだ。犬の牙が。


「はが⁉︎ いだだだだだっ、なんだこのバカ犬は!?」

「男爵様ッ、このバカ犬!」


 燕尾服の男が犬に向けて火筒の持ち手で殴りかかろうとしたら時だった。犬は咄嗟にそれを避け、火筒は遠心力任せに男爵の傷口を叩いた。


「はがァっ⁉︎」「しまっ、男爵さま──」


 燕尾服の男は、出遅れたと思った。まさか主人が飼っていた犬が牙を剥くなんて想像もしていなかったし、その犬が知略を巡らせて自分の喉元に食らいつくなんて想像もしていなかったのだから。


「がっ、あっ、ひぁッ!! だんじゃぐじゃマ──」


 バタバタと手足をもがかせていた燕尾服の男は、喉に溢れかえった血でゴボゴボと溺れ返り、やがて身動ぎしなくなった。


「この、駄犬がッ!」


 雷鳴のような音が響いた。その銃弾は本来の照準であった頭から逸れ、足を吹き飛ばした。しかし動物の動きを封じるには十分すぎた。


「こいつめッ!」


 男爵は火筒の先で犬の顔を叩いた。犬は呻き声一つ上げる事なくその折檻(せっかん)の全てを甘んじて受け入れていた。


「はあ、はぁ……思い知ったか!」


 そう言って顎を蹴り飛ばした男爵がぐるりと燕尾服の男に振り返った瞬間だった。


「は……あぁっ?」


 男爵の胸に衝撃が突き抜けた。滲み出す血の全てを服が優しく受けていた。


「おま、おまえ、なん、で……?」

「……お前ガ知る必要はない」


 燕尾服の男は、死体のように冷たい瞳で地に伏した男爵を見下ろした。




 ……それからしばらくして。燕尾服の男は腐敗の進んだ男と、地主の娘とを掘り下げた地面に安置した。


「……もう誰もお前たちヲ引き離す者はいない」


 結ばれた手の上に土をかぶせ、燕尾服の男は二人を地中に隠した。


 焼き払われた森は降った雨によって鎮火され、自然に火葬された男爵の死も事故と語り継いでくれた。


 風の噂に。男爵家はお取り潰しになると聞いた。燕尾服の男は、首元の歯形を隠すべく、スカーフを巻き込み、その下で小さくそっとほくそ笑むのであった。

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