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前から思っているように、厨房の三人は直接子爵家に忠義を抱いているわけではない。
それほどの手間なく自分に利益が入るなら、ある程度の頼みも聞いてくれるはずだ。
料理長にとって、大量ではなくても毎日のように肉が手に入るなら、その分仕入れを減らすことができる。収支の記録は一人で行っているので、実際購入した分との差額を懐に入れる操作はそこそこ容易にできるだろう。
口には出さないがそういう暗黙の了解で、四人はそれぞれの利益を得ることになった。
オリアーヌにとってはこれで、不足気味だった肉の入手と現金収入を得ることができる。
衣食住のうち食と住はほぼ無料で得ているが、将来を考えると衣の分に充てる現金を得ておきたい。さらにはもっと将来ここを出て自立する可能性を持つために、所持金の余裕を作っていきたいと思うのだ。
とにかく次の優先は、衣の確保だ。
夕食調理の支度を始めようとしているとランベールが使用人棟から出てきて、裏庭に庭師が迎えに来た。早速、棒の素振りが始まる。
そちらに確認の声をかけ、オリアーヌは女の一人に問いかけた。
「裁縫、得意だって聞いた」
「ああ、あたしは内職にもしてるさね」
「教えて、くれない? 礼金払う」
「お嬢様が裁縫って、何をするのさ」
「子供服、作りたい」
「ああ……」
そんなことも自分でやる必要があるのか、と改めて気づいたようで、女二人で呆れ顔を見合わせている。
「よく見りゃ、坊ちゃんのズボン、つんつるてんだものね。いいよ、お嬢様が覚えるのに間に合わないだろうから、まずズボンを縫ってあげよう。格安にしとくよ」
「助かる」
「それが現金の使い道かよ」
「うん」
呆れ顔で、料理長も首を振っている。
気にせず、オリアーヌはイモの皮剥きを始めた。
そういう形で、新しい生活も軌道に乗ってきた。
ランベールも離乳食からふつうの食事に移り、肉の増えたスープや煮物焼き物に食欲を増してきている。
庭師に習っている素振りも、だんだん腰が据わって安定してきたらしい。
約束通りズボンを縫ってもらい、引き続き空き時間に裁縫を習って、オリアーヌも上達を感じてきた。
天気が崩れない限りオリアーヌは狩りを続け、引き続き野鼠か野兎を安定して獲ることができていた。このくらいで森の動物が減ることもないようだ。
厨房の四人揃って収入が増え、機嫌もよくなっている。
子爵夫婦や息子とはほとんど顔を合わさない。ほんのときどき夫人と遭遇すると、まだしぶとくいるのか、とばかり顰め面を背けられたりする。
こっそり食事に異物を入れたい誘惑に駆られたりするが、ここは自重しておくことにする。
そんな夫人の意を汲んでか、前からぽつぽつあったあちら付きの侍女からの嫌がらせが少し増えてきた。
使用人棟の炊事場に汲んであった水が、ぶちまけられていたり。干してあった洗濯物が汚されていたり。
気にせずやり直しをしていると、やがて飽きたのか行為が止む。
しかしまたしばらくすると、思い出したかのようにくり返される。
何をしようと考えているのか、よく分からない。夫人か本人たちかの機嫌に合わせているだけなのかもしれない、と思う。
十歳を過ぎて、しばらくした頃。
そんな嫌がらせを受けた弾みに、前世らしきものの感覚が頭に浮かぶようになった。
とは言え、それが特に何に役立つということもない。
何か明確に有用な知識を伴うというのならありがたいかもしれないが、それほどまでにはっきりした像を結ぼうとしないのだ。
ただもしかして、という程度の自覚があった。
もしかして――今までにも増して、肝が据わった感覚がある。
細かいことなど気にするな。
何事も、なるようになる。
――と、いったような。
この機会に、オリアーヌは自分の意志を再確認した。
自分は、弟を無事生き延びさせられるように、育てる。
そのためなら、何でもする。
本当に改めて、決心を新たにしていた。
十一歳を過ぎ、十二歳を迎えた。
ランベールは、五歳になる。
体格は同年代よりやや小さいらしいが、庭師によるとかなり素振りの筋がしっかりしてきたという。
一緒に湯を浴びながら頭を洗ってやっていると、嬉しそうに教えてくれる。
「今日打ち込みをして、師匠に褒められたんだよ」
「よかったね、それは」
「早く剣を上達して。姉様を守れるようになるんだ」
「頼もしいねえ。はい、流すから、目を瞑って」
「はい」
このまま成長すればこの家を出ても強く生きていけるだろう、と嬉しくなる。
一方。オリアーヌの方はさらに同年代より小柄なままだった。脚の障害が影響しているのだろうか、少しずつ背は伸びているのだが、かなり心許ない成長だ。
まあ女子だから多少小柄でも問題はない、と自分を慰めるしかないのだった。
「さあて、勉強をするよ。昨日の続きの書き取りね」
「はあい」
五歳になったのを機に、ランベールに読み書き計算を教えることにした。
以前家庭教師が置いていった書籍が残っているので、それを教材に使う。
以前オリアーヌも読破したわけだが、簡単な世間の常識、国内の大まかな地理、魔獣に関する知識などを得ることができる。
将来に役立つんだと言うと、ランベールは真剣に取り組み始めた。
何だか真面目すぎ、余裕がなさすぎに思えてしまう性格の弟だ。どうにか息抜きの趣味のようなものを持たせることはできないか、と考えてしまう。
そんなある夏の夜。
ふと、何か不安なものを感じて目を覚ました。
時刻は、夜半を過ぎた頃だろうか。
一緒の夜具でくっついている弟は、すやすや穏やかな寝息を続けている。
何かあっただろうか、と夜闇に耳を澄ます、と。
窓の外、やや遠く唸り声のようなものを感じる。
そっと、弟を起こさないように、オリアーヌは夜具を滑り出た。いつも狩りのとき着用する男物のズボンを身につける。
居間として使っている隣室には、屋敷裏に向かう大きめの窓がある。そこをそっと開き、闇に目を凝らした。
数ガター(メートル)離れて、森との境に頑丈で高い柵が張り巡らされている。その上端は、この二階の窓からやや見下ろす高さだ。
柵越しに、森の端が見える。
目を凝らしていると、暗がりに慣れてきてか、わずかに闇に溶けて動くものが見てとれるようになった。
大きめの、獣か。一つ、二つ――まださらに奥から続いているかもしれない。こちらに近づいてきているようだ。
近づく。近づく。
数も、増してきているか。
柵に突き当たり。越えようとしている気配。
どうもやはり大型の白っぽい獣、犬か何かに近い体型。もしかすると、この森で最も警戒すべきと言われている、狼魔獣か?
だとすると当然肉食で人をも食らう、力は強く動きは敏捷、一頭に対して兵士十人でかかって退治できるかどうか、と本で見たような。
「拙い?」
これまで屋敷が魔獣に襲われたと聞いたことはないのだから、あの柵で侵入は防げるのだろうけど。もし一頭にでも乗り越えられたら、戦闘員など一人もいないのだから、まずこの使用人棟の住人は助からないということになりそうだ。
越えてこられたら、今から二階の部屋を出て避難しようとしても間に合いそうにない。
柵が防いでくれると、祈るしかないか。
もしや子爵は、こんな危険に曝される可能性のある使用人棟にこちら姉弟を入れて事故死を招こうと考えたのか、とふと頭をよぎったが。いやさすがにそこまではないだろう、と自分で思いつきを打ち消す。もし魔獣を使用人棟に入れたら、そのまま本館まで防ぎようもなく襲来を許すしかなくなるのだ。
考えながら、急いでオリアーヌは狩りに使う袋を二つ持ち出してきた。いつもの、アヒイと毒茸の入ったものだ。
もし、柵を乗り越えてきたなら――。
思う間に、数頭が柵から遠ざかっていた。
諦めて帰るのか、と思いきや。少し距離をとって、こちらに向き直る。
「助走をつけて、跳び越そうとする気だ」
おそらく一跳びで完全に越えられなくても、柵の上端に前肢でもかかれば、越えてしまえるんじゃないか。
袋を握るオリアーヌの手に、汗が滲んできた。