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新生活二日目には、少し問題が起きた。
屋敷の朝食支度のために、いつものようにオリアーヌは早起きして厨房に向かわなければならない。
手早く身支度をして部屋を出ようとすると、同じ寝台で眠っていたはずの弟がもぞもぞと這い出してきた。「ねえちゃ、ねえちゃ」と、半べそ顔で縋りついてくる。
拙い言葉の綴りによると、どうも前日の夕食支度で長時間一人置かれていたことが応えたようだ。
とりあえず朝の仕事は短い時間だから、と言い聞かせようとしても通じない。
仕方なく幼な児に身支度をさせ、半分まだ眠りから覚めないままぐずるところを抱き上げて厨房へ急いだ。
「どうか、お願いします」
「……仕方ねえな」
料理長に何度も頭を下げ、弟を傍に置く許可をもらう。
火や刃物に近づけないように、扉を開いた隣室の椅子に布を敷いて子どもを寝かせた。姉に抱かれて安心したか、穏やかな息遣いが戻っているのに安心する。
朝は通いの女たちがまだ出勤していないが、下拵えの作業は少ない。隣室の様子を気にしながら、いつも以上に手早く済ませることになった。
その後ずっと、厨房勤めは弟を連れてということになった。
朝はほぼ例外なく、隣室で睡眠の続きをしている。
昼は目覚めているが、隣室で木の玩具を握らせると大人しく独り遊びをしている。
夕食の支度時は、天気がいい限り裏戸を開けて庭の見える範囲で遊ばせることにした。
どの時間も聞き分けよく大人しくしているか案じたが、ランベールはこの年頃として逆に心配になるほど言いつけに逆らわない。
どうもそれとなく訊くと、乳児の頃からずっと侍女に言うことを聞かないと手の甲を叩かれるという体罰交じりの躾を受けていたらしい。悲しく腹立たしい思いもあるが、ここに来てありがたい面も感じないでもない。
そう思ってしまう自分も悲しいし、そんな育て方をされた弟が哀れでならない。これまでを取り返すほどに愛情を注ぎたいのだが、それにも制限がある。
何とかしたい、とオリアーヌは歯を食いしばった。
「ほら坊、もっと思い切り振りなされ」
「こう? こう?」
そんな日課を数日続けると、夕方の時間、仕事を終えたイニャスという庭師の老人がランベールの相手をしてくれるようになった。
父の時代から勤めている使用人としてほぼ唯一残っている人物で、オリアーヌの杖を作ってくれた男だ。現子爵としては全員を挿げ替えたかったのかもしれないが、ここの花壇をうまく手入れできる人材が近くに見つからなかったのと、邸内への影響力がほぼないと判断したため残したものと思われる。
昔は魔狩人として働いていたらしいが身体を壊して転職し、今は白髪白髭で何処から見てもただの好好爺という外観だ。
ただ昔取った杵柄で剣の心得があり、こうしてランベールに面白半分棒切れを振らせている。
「ありがとうね、イニャス」
「いやいや、ただの年寄りの道楽じゃ。子どもの相手は自分も元気が出ていいのさ」
仕事を終えたオリアーヌが弟を引きとって礼を言うと、庭師はからからと笑った。
こうして、弟を連れての厨房仕事も周囲を含め慣れてきていた。
残る気になる点は、とオリアーヌは頭をひねる。
昼食の片付けを終えて夕食支度が始まるまでの時間、ランベールは昼寝をしていることが多い。
この時間に、女二人とオリアーヌは十日に一度程度裏の森に植物採取に出かける。
それがない日は休憩時間だが、オリアーヌは何度か一人で森に出かけることにした。
ランベールのおやつにする果実の他、アヒイの実と毒茸を持てるだけ採取する。
アヒイと茸は弟の手が届かない高所で乾燥し、それぞれ粉状に砕いた。一度の採取分では微々たるものだったが、数回くり返すとそれぞれ布袋いっぱいになるまで溜めることができた。
翌日の同じ昼過ぎの時間。弟の寝入りを確かめ、腰に二つの袋と一本の鉈を括り付けて、オリアーヌは裏の森に入った。
杖をつき、慎重に足を進める。やや遠くから、小動物の気配が近づく。
いつもの植物採取では、極力動物の気配から避けて行動することにしている。出没するのはせいぜい野兎か野鼠なのだが、そんな動物でもまともに体当たりされたらオリアーヌは転がされてしまうし、へたすると大怪我をしかねない。
食用になる野鼠は体長でオリアーヌの膝くらいまであるし、野兎はどうかすると腰までの大きさになるのだ。脚の不自由な九歳児の力で、持ち堪えられようもない。
ただしこの日は、その気配に近づくのが目的だつた。
一帯に耳を澄まし、草むらに目を凝らす。
「いた」
短い草から頭を突き出し、一匹の野鼠がきょろきょろ周囲を見回していた。
そこへ向けて。
『調味料転移』
とたん、キエエエーーと甲高い鳴き声。小動物がのた打ち出した。
不自由な脚の許す限り急いで、オリアーヌはそこに駆け寄った。
地面に転がる動物の首目がけ、鉈を振り下ろす。
動きを止めた後ろ脚を掴んで持ち上げ、血抜きをする。
懐に入れてきた空袋に、獲物を収納する。
緊張を解いて、深々と口から息が漏れた。
「うまく、いった――」
アヒイと毒茸の二種類を準備してきたわけだが、何とかアヒイの粉を口と鼻にぶち込む方法で仕留められた。毒茸の方は食用に影響が出ないかが気掛かりだったので、こちらで成功するならそれに越したことはない。
同じ要領で、さらに二匹の野鼠を狩った。
合わせて三匹となるとかなりの重量だが、何とか引きずるようにして屋敷に戻った。
「ちょっとこの台、使わせてね」
「何だ、おい――」
大荷物を抱えて入ってきた女児に目を丸くする料理長に断り、いつもの作業台で肉を解体する。
三匹分を瞬く間に終え、一匹から自分たち姉弟の二食分相当量を分け、残りを料理長に示す。
「この一匹分の残り、もらってくれない?」
「は、どういうことだ?」
「好きなように使って構わない」
「はあ――?」
呆然と口を開けている男に構わず、残り二匹を下働き女二人の近くに寄せた。
「頼まれてほしい」
「何だい」
「この肉を、町の肉屋に売ってきてほしい」
「売る――?」
「買い取り代金の三分の一は、あなたたちが取っていい」
「何だって?」
目を丸くして、二人は顔を見合わせていた。
およそ下働き日当の半分近くになるはずなのだ。
「そんなにもらって、いいのかね」
「いい」
「それなら分かった、引き受けるさ」
「あたしも」
「お願い」
「なるほど。それだけ、現金が欲しいわけか」
したり顔で、料理長が頷いていた。
「それにしちゃ、こっちの残りは無料で俺に寄越すのか。何が狙いだ?」
「この取り引きを、誰にも言わないで」
「なるほど」
「それと、ここから調味料を少しもらうのを、見ない振りしてほしい」
「そうか」
「その代わり、その肉はどう使っても誰にも言わない」
「……なる、ほど」
「これからできるだけ毎日、こうして狩ってくる。三人とも、ずっと同じく頼みたい」
「毎日だって?」
三人それぞれに、目を丸くしている。
「毎日って――裏の森の野鼠って、すばしこくてなかなか獲れないんだぞ。そもそもお嬢様、これどうやって狩ったんだ」
「アヒイの粉を、いつも調味料を飛ばす要領で鼻と口にぶち込んだ」
「何と――」
「そりゃあ、お嬢様にしかできない狩り方だねえ」
「なるほどねえ」
呆気にとられた三人から、今後の約束を取りつけた。