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月ごとの厨房収支決算書を持って、ヴァランタンは子爵執務室を訪ねた。簡単に書類に目を通し、主人は頷いている。
うむご苦労、と声を返され、安堵して退室のため一歩下がる。
そこへ、思いがけず声が続けられた。
「そう言えば料理長、最近腕を上げたのではないか」
「は、料理の腕、でございますか」
「うむ。以前より同じ料理でもかなり味がよくなったと思う。妻も満足しているぞ」
「それは、何とも光栄な仰せにございます」
「今後も慢心せず、精進を続けてくれ」
「はい、畏まりました」
主の前を辞して廊下に出、料理長は踊るような足どりになっていた。
何であれとにかく、料理人にとって料理を褒められることに勝る喜びはない。
正直、最近――と言われても、何か努力したなどの記憶はないのだが。むしろお嬢様の手伝いが入るようになって、楽ができているという実感が強い。
あえて言えば、下拵えなどに手間をとられなくなって、肝心の調理に集中できているということか。
だとすれば。
「お嬢様、様々、だな」
機嫌よくほくそ笑みながら、ヴァランタンは厨房へと足を進めた。
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オリアーヌが夕食用の野菜の下拵えをする間、最近料理長はふらり外へ出ていることが多い。下働きの女二人は、厨房の隅でぺちゃくちゃお喋りをしている。
「ギャルヴァンに嫁いだ妹から聞いたんだけどさ、最近北の魔の森に魔獣が増えていて、こっちまで現れてきているんだって」
「それは、怖いねえ」
ギャルヴァンはリュシドール子爵領の北端の町で、この領都から歩いて一日と少しの距離だ。さらに北のミニョレー伯爵領の中に通称魔の森と呼ばれる広大な森林地帯があり、多くの魔獣が棲息していると言われる。
魔獣が移動を始めた場合、伯爵領で森の手前にある街トゥーヴロンと子爵領のギャルヴァンでそれを抑えられなければ、こちらの領都まで無防備に襲われる羽目になりかねない、と以前オリアーヌは本で読んでいた。
それに備えてそのギャルヴァンとトゥーヴロンにはそれぞれの領からある程度の兵が駐留し、民間の魔獣狩りなどを生業とする『魔狩人』と呼ばれる者たちが相当数集まり活動している。
そのためそうそうこの領都まで危険が迫ることはないはず、というのは住民の常識で、女たちの話題はすぐに気楽な方向に変わっていた。
「ギャルヴァンと言えばさあ、あそこには魔法使いみたいな化粧屋がいるんだって。どんな者でも別人みたいに装わせるんだってさ」
「へええ、凄いねえ。でも料金も高いんだろうし、あたしたちには無縁の話だろうねえ」
「そうさねえ」
ときどき暇に飽かしてというように、女たちがイモに手を伸ばして皮剥きをしてみることがある。
そうしながら、冗談のように笑いを交わす。
「何だか変だねえ。あたし妙に、前より皮剥きの手さばきがよくなった気がするよ」
「あたしもさあ。あれさあれ、嫌々仕方なくやるのと気楽にやるのと違うんでないかね」
「かもねえ」
今さらといえば今さらだが、主家の娘がいる前でする会話ではない。
思いながら、オリアーヌは別の面で納得していた。
調理の加護でできることが何となくぼんやり頭に浮かぶのだが、こればかりは実証実験する気にもなれず半信半疑でいたのだ。
どうも、加護を持つ者の傍で働く者について、わずかながらも能率や手際が上がるらしい。
ますます専門の料理屋などでは重宝されそうだが、この女たちにはたいして意味のない効果だと思う。
そんな面でも期待されてこの厨房に縛りつけられるのは敵わない、と他の人には秘密にしておくことにした。
オリアーヌの使用人扱いは続く。何事にも慣れというものはあるようで、数ヶ月も経つと誰もこれを疑問に思わない屋敷生活になっていた。
厨房の者たちは当たり前のように、主家の娘を顎で使う。子爵や夫人付きの侍女たちは幼い姉弟を完全に見下して、気晴らしの嫌がらせ行為に及ぶことさえある。
それでも何とか、最低限の生活を維持する道筋は見出せていた。
当分オリアーヌがこの境遇を耐えていれば、姉弟何とか育っていくことはできそうだ。そのうちもしかすると王室やこちらの親戚筋などが実状に気がついて、改善がなされることもあるかもしれない。
そんなふうに、考えていた。
恐ろしいことに気がついたのは、厨房仕事を始めて一年近くが過ぎた頃だ。
変わらずオリアーヌとランベールの生活は、放任に近い。
子爵夫妻は、一人息子のオーバンを溺愛している。ようやく最近、屋敷内を走り回ることを覚えたようだ。
近くに寄って言葉を交わすなどはないが、オリアーヌも折に触れてその無邪気な様を目にすることがあった。さすがに親戚とあって、遠目にこちら姉弟と同じ緑がかった青い瞳を持っていることが分かる。
ただ、髪の色は濃い茶色だ。オリアーヌの髪は濃いめの銀灰色だが、ランベールはリュシドール家の血筋を示すと言われる白金色の髪を持つ。
「え――?」
それが、ある日。廊下を走るオーバンを目撃して、衝撃を受けた。
髪の色が、変わっているのだ。白金色に。もちろん、染めるか何かしたのだろう。
思い返すとつい最近、母親が息子をつれて隣町ギャルヴァンに出かけたという話を聞いた。その町に『化粧屋』という者がいると、噂に聞いた気がする。
まだいろいろな知識に乏しい少女にも、その意味は察せられた。
彼らは、オーバンをランベールと入れ替えようとしているのだ。
ランベールは生まれてこの方ほとんど人前に出る機会がなかったが、両親の葬儀の際わずかな時間、親戚たちにお目見えしている。その際「リュシドール家の血筋を示す白金髪ですなあ」と、印象を与えている。
入れ替えを実現しようとしたら、髪の色を変えるのは必須だ。
そこに思い当たると、背筋が冷たくなる感覚を覚えた、が。
「いやいや、まさか――」
少なくとも今すぐランベールを亡き者にして入れ替えるつもり、とは思えない。
オーバンは一歳半ランベールは二歳過ぎで、いくら片方が大柄他方が小柄と言っても、乳飲み子と乳離れ済み程度の差ははっきりしている。
そこそこ慎重と見られるあの夫婦のことだ。これから少しずつ入れ替えお目見えの機会を増やして、周囲にこちらがランベールだという印象を植えつけていくつもりなのではないか。
それがはっきり成功と確信できるまでは、本物のランベールの存在を消すわけにはいかないだろう。次期爵位継承者と認められているランベールがいないと中央に知れたら、爵家取り潰しの措置だってあり得なくない。
もしかすると彼らにとって、ランベールとオリアーヌの存在をすぐにも消したい気は満々なのかもしれないが、不審死の疑いを持たれるわけにもいかないだろう。
屋敷中を自分の思いのままになる手駒ばかりにして口裏を合わせるということも考えられるが、今のところそれも無理と思われる。
ランベール付きの侍女は凡慮極まりない娘だが、少なくとも子爵に心からの忠誠を誓うという存在ではなさそうだ。
厨房の料理長も、もしかすると金に釣られるということはあるかもしれないが、根っから主に尽くすという気はないだろう。下働きの女たちならなおさらだ。
どれも例えば金品を与えてよけいなことを話さない、偽証をさせる、などということはできなくもないかもしれないが、将来にわたって信用することは不可能だ。たいした身分でもないし人数もわずかだが、これら全員を闇に葬るというのも、そうそう思い切れることではないだろう。
これらの者たちすべてを自分の手駒に入れ替えるというのも、できない相談なのだろう。できるならもっと以前からやっているに決まっている。それほど忠実な人材を抱え切れていないということに違いない。
――そうは思うのだが、安心しきることもできない。
とにかく、ランベールの周囲の安全に気を払っていく必要があるだろう。
はっきりした味方は、何処にもいない。
「私が、頑張らなければ」
ますますオリアーヌは弟といる時間を増やして、周囲に気を払うことにした。