16
大牙狼が跳び退いた逆側の木立の陰から、灰色の巨大なものが目にも留まらず飛び出した。
たちまち狼は横腹を食い破られ、真っ赤な血が噴き上がる。
ギアアアーーー!
狼魔獣の咆哮。
いちばん旨い部位だけを食いとったと言わんばかりに獲物を千切り落とし、身を屈めていた灰色の怪物は頭をもたげる。
ひととき息を呑んでいたヤニクが、声を裏返して絶叫した。
「岩鎧蜥蜴だああーー!」
「あいつがか!」
即座に、ジョスランも声を上げた。
前もってヤニクが説明していた、この旅程で最凶の相手とされる魔獣だ。聞いた通り、全身灰色の鱗に覆われ、体高は三ガター以上あるだろう。一口で巨大な狼魔獣の腹部ほとんどを噛みとり、悠々と咀嚼している。
蜥蜴と呼ぶには不似合いなほど大きな頭部、太い二本の下肢で直立し、本体と同じほど長い尾を持ち上げ揺らしている。他に比べて両腕がやや華奢にも見えるが鋭い爪を伸ばし、あれにかかるとどんな生き物も引き裂かれそうに思える。
剣も弓矢も通じないという話で、腕利きの魔狩人たちも遠くで見つけると回避の一手だという。
やや幸いなのは図体の大きさでかなり離れても存在を見てとれるので、予め回避ができる。今回のヤニクの予定でも、そうした心積もりだった。
それが今は、大牙狼の突進に備えて全員がそちらに注意を向け、この大きな接近に気がつくのが遅れてしまった。
巨大な体躯に似合わず足が速く動きが敏捷だというのも、その原因の一つだろう。今のような数十ガター程度距離の対峙だと、人間が全力で走っても逃げきれないと聞く。
「こんな――何で、気を払っていたのに……」
「愚痴ってないでヤニク、逃げるぞ!」
「無理だあ……」
ジョスランが促しても、案内人は腰砕けたようにその場にしゃがみ込んでいた。
頭を抱えて、ぶるぶる震えるばかり。
「お終いだあ、こんな距離じゃ逃げ切れるわけがねえ……」
「いいから、逃げ――」
言い合っている間に蜥蜴魔獣は口の中のものを呑み込み、初めて新たな餌に気づいたとばかり鋭い目を人間たちに向けた。
グワアと一度口が開き、大きな舌がペロリ唇を舐める。
すぐに巨大な全身が、こちらに向き直る。
「ありゃ一度や二度茸を食わせても、足りないだろうねえ」
「ああ」
「アヒイが効くか、やってみなけりゃ分からないか」
「おお」
明らかにいつもより声を緊張させて、アルムとグウェナエルが言葉を交わす。
アルムは大男の背から手を伸ばして、フラヴィが持つアヒイの袋を受け取った。
「あいつが突進してきたら、あんたたちは横の茂みに飛び込みな」
「お、おう」
「小僧は落ち着いて。狙うのは、脚だよ」
「おう」
一言返したジョスランが声を継ぐ間もなく、前方では動きが始まっていた。
人間たちの倍ほども高さのある巨体をやや屈め、両腕を前に構え。たちまち大きな歩幅で疾走が始まる。ドドドド、と地響きが伝わってきそうな迫力だ。
すぐ射程に入り、その顔面に緑の粉が炸裂した。煩そうに、わずかに走りは緩んだか。
そこへ続けて二発三発、アヒイが弾ける。
両手でそれを払い除けながら、巨大魔獣の足は止まらない。
「逃げろ!」
グウェナエルが叫び、三人は即座に左右の茂みに飛び込んだ。
本来ならさっきの狼魔獣のようにその程度の回避は意味がないのだろうが、巨大蜥蜴は残った大男に照準を定め、直進を続ける。
その顔面に、さらにアヒイが弾け散る。
嫌がって、ひととき目が閉じられた。
瞬間、グウェナエルは真っ直ぐ走り出した。
魔獣にとって、一瞬目を閉じた隙に死角に入られたことになるか。
太い脚の脇をすれ違いざま、その足首付近に大剣が撃ちつけられる。
ガキーンと、鈍い打擲音が響き渡る。しかし、傷を負わすことはできなかったようだ。
グワ、と吼え声が漏れ、魔獣の突進が止まる。見失った標的を求め、勢いよく振り返る。
長く太い尾が地面を掠めて茂みの上まで振られ、「キャッ」とフラヴィが頭を抱えて悲鳴を上げた。
改めて正面に対峙して、グウェナエルは両手に大剣を構え直した。
睨み合う隙もなく、蜥蜴の巨大な頭部が動いた。
約三ガターの高みから、思いも寄らない速さで地面近くの獲物に開いた大口が迫る。
大剣で鼻先を撲ち、辛うじてグウェナエルは後ろへ飛び退いた。
しかし、体勢を整える暇もなく。続けざまに目にも留まらぬ速さで、大きな口が迫り来る。
大剣を振り、振り、グウェナエルはくり返し後ろへと跳び足を送った。
そのたび、ガチ、ガチ、と蜥蜴の牙と大きな歯が噛み合わされる音が響く。
「どうしようジョスラン、グウェナエルが食われちまうよ。あんな逃げ、いつまで続けられるもんじゃない」
「でかい図体のくせに何て速さだ、あの噛みつきは」
「あんなの、避け続けれるもんじゃないよ。すぐに捕まって噛み千切られちまう」
若夫婦が震え声を交わし。
向かいの茂みでは、ヤニクが頭を抱えて震えている。
そもそもこんな、この伝説級の強大魔獣相手に一対一でやり合うなど、大げさな噂にさえ聞いたことがない。
グウェナエルの人並み外れた体力と、アルムのアヒイ投げつけ援護が辛うじてそれを可能にしているとしか思えない。
そうする間にも、巨大蜥蜴の攻撃は息もつかせず続いていた。
大剣を振って大男が跳び退き、ガチ、ガチ、と歯の噛み音が響く。
その間にも、アルムの粉投擲は続いているようだ。明らかに目を狙っているようで、それが蜥蜴の噛みつき照準を逸らしているのだろう。
グワアアアーー
苛ついたように、蜥蜴は一度頭をもたげて咆哮した。
粉を払うらしく首を振り、すぐにまた大口を振り下ろす。
鼻先を大剣で撲ち、グウェナエルは後ろに跳ぶ。
次の瞬間、蜥蜴は動きを変えた。全身で大きく向きを変え、太い尾が唸りを上げて振り回される。
「キャアアアーー!」
「逃げろ、グウェナエル!」
仲間二人の絶叫が、響き渡った。
横に身体を投げ出し伏して、辛うじてグウェナエルはそれを避ける。
すぐに向きを直し、蜥蜴は大口を開いて屈み込む。
予期していたらしく起き直り、グウェナエルは前方に駆け出した。
開いた口を躱し、前のめりの巨体の脇を抜け、すれ違いざま大剣を足首に叩きつける。
ガキーンと、鈍い打擲音。
しかし魔獣の体勢を崩すことはできず。
グワアアアーー!
蜥蜴魔獣にとっても渾身の攻撃だったのか、顔面を地面に叩きつけ、しかしすぐに身を起こした。
目の前から消えた標的を追って、全身で振り返る。
さしものグウェナエルも肩で荒い息をしながら、足を止めて対峙し直している。
その相手に向けて、魔獣は続けてまた大口を開き襲いかかる。
両脚を大きく開いて踏ん張り、大男は剣を握り直していた。




