ハルノトキ 前編
「ハルノトキ」
音村しおり
目 次
第一章 時間を戻せたら
第二章 一度目は
第三章 変化していく関係
第四章 別れは
第五章 壊れていたのは
第六章 ただ君を守りたい
第七章 私の記憶
第八章 大切な人
第九章 不安な未来
第十章 夢
時間に抗えと言ってきたのは祖父だ。
祖父は、まじめで几帳面、そして思い立ったらすぐ行動の人だ。若かりし頃の祖父は、カナダ西部にある港町バンクーバーへ留学中、時計職人のカナダ人と知り合い、時計の魅力に気付いたそうだ。ここ小樽に、蒸気時計があるが、それは祖父の師匠が作ったものだった。修理や点検は、もっぱら祖父が担っている。
その時計には、不思議な力があると聞いたのは、確か小学一年生の頃。夏休みに祖父の時計店に入り浸っていた僕に、「これは秘密の話だ、誰にもいうな」と店の奥の工房で、ひそひそと教えられたのを今でも覚えている。
「広場に蒸気時計があるだろう?あれに石をはめ込むと時間をもどして人生をやり直せる。たった一度きりだけだけどな」
「えー嘘だよ。どうやってさ」
「時計の裏に秘密の扉があってな、北海道石という宝石をはめ込むんだ。そして、戻りたい時間を設定する」
「僕なら、昨日に戻りたい。僕の誕生日もう一回できるし、ケーキまた食べられるもん」
「そんなにケーキが食べたいなら、じいちゃんがまた買ってやる。ここぞというときに使うんだ。いいか。これからが大事な話だ。時間を巻き戻すときは、綿密に計画を練るんだ。徹底的にな。戻れるのは一度きりだからな」
子供の時に聞いたその話は強烈で、大学生になってからも、どこか頭の片隅にはあったのだ。どんな出来事が起きたら、時間を戻したいと思うのだろう。経営学のプレゼンで失敗した時も、前の彼女に一週間で振られた時も、時間を戻したいとは思わなかった。もちろんこの話は、夏休みで時間を持て甘し「暇だ暇だ」と、うるさい孫を楽しませてくれる即興の創作話だとついこの間までは思ってはいたのだが。
それがまさか。
ありがとう、じいちゃん。絶対にやり遂げなくてはいけないことがある。
いつも笑顔でいて欲しい人。
守ってあげたい人。
命をあげても良いと思える人。
その人は、間違えてしまったんだ。優しすぎるが故に。
第一章 時間を戻せたら
1
大学の授業が終わったら週三回ほどサワイベーカリーへ向かう。従業員用の玄関から入ったらまず鼻で深呼吸をし、店に漂う珈琲の香りを体いっぱいに充満させておく。
双葉桜都と書かれた女子更衣室の一番右端のロッカーを開け、コック服に着替え、深緑色のエプロンと焦げ茶色の帽子を身に着ける。焼き立ての香ばしい雑穀パンの湯気を浴びたら、学生からパン屋さんモードへ切り替えが完了する。
「桜都ちゃん、これ食べてくれる?」
おはようございます。と挨拶する前に奥さんから新作のパンの感想を求められた。
「この前話していた、もっちりドーナツ。タピオカ粉入れたら、いい感じになったの」
もぐもぐしながら、すぐに親指を立てた私。
「すっごくもちもちしていて美味しいです。黄な粉まぶしても美味しそうですね」
「そうよね、和風もっちりドーナツにしようかな。やっぱり桜都ちゃんとは、好みが合うわ」
うふふ、と笑いあう私達。奥さんは明るい人で、気遣い上手。コミュニケーション下手な私でも奥さんといると心地良い。
バイトを始めたのは、大学二年生になってすぐ。お世話になって半年しか経っていないのに、皆良くしてくれて本当にありがたい。
「一人暮らしで大変でしょ」と、パンの余りをこっそりくれる店長と先ほどの奥さんは本当に似た者夫婦だと思う。サワイベーカリーは、仲良しな澤井ご夫婦のお店だ。地元でも人気のこの店は、大学にも近いため、学生たちからも評判がいい。
接客が苦手な私は、製造補助担当。翌日用の惣菜パンの具材の仕込みや、簡単なパンの成形をしている。
カスタードを作ったずっしり重い寸胴鍋を洗い終えたら、今日の仕事は終了だ。
レジ担当の先輩が厨房につながる小窓から、顔を出してきた。
「桜都ちゃんさ、今日クリスマス会でるよね」
「はい、独り者なので。麗華さん、彼とデートじゃないんですか?」
「彼氏なんて、いないよー。私一人でいるのが好きなんだよ。意外にもね。ケーキ飾りつけして良いって、奥さんが。あとで一緒にやろうよ」
今日の麗華さん、機嫌が良いみたい。良かった。機嫌の悪い日は、何か気に障ることしたかと心配になってしまう。自責感情が強くていつも自信のない私。そろそろ変わりたいのに。
クリスマスの夜は、お客さんも少ないので、閉め作業が、いつもより早く終わった。コック服から、いつもよりおしゃれなワンピースと暖かなカーディガンに着替える。
見たことのない、大きなアメリカンサイズと言えば伝わるだろうか、とにかく二、三十人前くらいありそうな奥さん手作りケーキに苺を端っこから端っこまで敷き詰める。四人のスタッフたちでなんやかんや世間話をしながら、最後に市販のサンタチョコを飾ったら準備完了。
店長の作ってくれた豪華海鮮の特製ピザが運ばれてきて、賑やかなパーティーが始まる。
話好きな店長のおかげで、話題には困らなかった。フランスのパン修行の話や奥さんの寝言の話など。話すより聞く方が好きな私は、とても楽しめた。
「桜都ちゃん、バス無くなっちゃうし、もうそろそろ帰りな」
奥さんが声を掛けてくれ、時計を見ると十時半になろうとしていた。
バスの時間は、十時四十分。
「片付けはいいから。滑って転ばないようにね」
「すみません、コップだけでも洗って帰りますね」
「いいのいいの、食洗器でガーとやるだけだし、気にしないの」
「すみません。じゃ、お言葉に甘えて」
優しく手を振ってくれる皆に、ぺこりと頭を下げて店を後にした。
店の出口を出ると、白くて、明るくて、静かだった。やっぱり雪が降っている。町中が白く覆われているから、夜なのに明るい。どこのお家もクリスマスで盛り上がっているはずなのに、こんなに静かなのは、柔らかな雪が音を吸収してくれているから。
空からゆっくりゆっくり舞い降りてくる雪を、両手に着地させる。雪の結晶がスエードのカーキ色の手袋の上ではっきり見える。中心から六角形に枝が伸びている形が多いが、一つ一つ違う形。綺麗だな、どの形も。麗しくも繊細な姿は、長くは続かない。ずっと眺めていたいのに、あっという間に、溶けて消えてしまう。
急がなきゃいけないのだった。店からバス停までは、三分くらいだけれど、手押し信号の横断歩道を渡らなければいけない。その信号が変わるのが本当に遅くって。
手元を見ていて、思い出した。奥さんが「忘れないで持って帰って」と言ったケーキを忘れてきた。なんて馬鹿なの。奥さんが悲しい思いするじゃないの。全速力で店に戻った。ちょうど届けてくれようと、奥さんが店から出てきてくれていた。お礼を言って、急いでまたバス停へ向かう。運が良いことに、手押し信号をおしてくれた人がいて、待たずに横断歩道を渡れた。と同時に前の交差点から、バスがゆったりと曲がってきた。
間に合った。
夜遅くのバスは、なんだか不気味に感じた。だって、私しか乗っていなかったから。どこかに連れ去られたら、どうしようなんて、すぐ不安になるのは、いつものこと。心配していることの八割は実際には起こらないのに。
今日は、楽しかった。でも、疲れた。信頼している人たちと集まっていても、他人と長く過ごすのは、やはり気疲れする。今日の自分の発言を何度も頭の中でリピートしてみる。言葉足らずで不快な思いさせていないかな、態度悪くなかったかな。こんなだから、話すのが得意じゃない。そんなことを考えているうちにいつの間にか、うとうとしていた様だ。
「起きてますか」
バスの運転手さんに声をかけられた。
「はい」
反射的に返事をした。良かった。乗り過ごさなくて。降りるバス停は、まだ三つ先。
「お客さん、ごめんなさい。バスの調子が悪いみたいです。乗ったまま少し待っていただけますか」
「あ、はい」
すぐに運転手さんは、バスを降りて出て行ってしまった。
その三秒後くらいだったと思う。前方のドアから若い男の人が何やら必死で叫びながら入ってきた。
「早く!早く!降りて!」
私の腕を強く握り引っ張っていく。いつのまにか私のリュックも持ってくれている。
この人は誰だろう。
背が高くて、長めのコートを羽織っている。
一瞬見えた顔は、まったく見覚えがなかった。
「走って!もっと!早く!」
バスから降りてもなお急かされる。その人の長い足に合わせて走るのは、容易でなない。彼に引っ張られたまま、必死に足を動かす。
突然あたりが光ったと思ったら、後ろから爆発音が聞こえた。私達は、一瞬で舞い上がった雪に包まれた。彼は瞬時に私を地面に伏せ、大きな手で頭を覆い後ろから庇ってくれていた。
舞い上がった雪に交じって砂埃がすごい。それが落ち着くと、私の顔や体を確認しながら、早口で話しかけてきた。
「大丈夫?怪我してない?痛いところない?」
びっくりしすぎて、頷くことしか出来なかった。
何度も「良かった」を繰り返す彼の瞳が潤んでいて、今にも泣きだしそうだと感じた。彼の方が怪我したのではないかと思った私は、すぐさま彼の体の一部が吹っ飛んでないか、必死でチェックした。
「大丈夫。僕は、怪我してないよ。ありがとう」
彼はとても優しい瞳で返してくれた。
「わ、私の方こそ、本当にありがとうございます」
さっき乗っていたバスを見て、頭が真っ白になった。バスは黒煙を出しながら、オレンジ色に燃えている。
あのまま、バスに乗っていたら、どうなっていただろう。
紛れもなく、丸焦げになって、短い生涯を閉じていたに違いない。
私を大切に育ててくれている父と母の顔が浮かんできた。良かった。私は生きているよ。
すぐ近くが消防署なので、あっという間に消防隊が駆け寄ってきた。あたりは、野次馬と赤い消防車とパトカーで異様な雰囲気に包まれていく。消防隊員や警察官に怪我の有無や経緯を聞かれているうちに彼の姿は見えなくなっていた。
次の日の朝、ベッドの中で昨日のことを思い出していた。バスは、調子が悪かったせいで爆発したみたいだけれど、運転手さんも無事で、他に怪我人もいないようだった。
それよりも、昨日の彼は誰なのか。見たことのない人だった。そもそも、なぜあの時、助け出してくれたのだろう。爆発するのがわかっていた?煙がでていたのかな?
もうそろそろ大学に行く準備をしないと。むくっと起きて、キッチンへ向かう。
五枚切りの食パンに、きび砂糖をふりかけ、トースターで焼く。
高温のトースターの中で、焦がされていく砂糖。
次第にふつふつと泡が出始め、踊り始める。
つい昨日死ぬかもしれない出来事を経験したにも関わらず、恐怖より、わくわくしている自分がいる。
だって何度も、リピートしている記憶があるから。
バスに入ってきた彼は「桜都!」と私の名前を叫んでいた。
あれは、記憶違いだろうか。直前までうとうとしていたのだから、寝ぼけていた可能性もある。
いやそれは、ない。私の目をしっかり見て、名前を呼ばれた時、心臓がどくりとしたのだから。
チン、と鳴ったトースターの音でちょっとびっくりして、現実に返る。平凡な私の日常に、もしかしたら、胸を焦がすような物語が始まるのではないかと期待してしまっていた。
でも、もう一度会いたい。改めてお礼を言わなくちゃ。命の恩人に、一言お礼を述べただけでは、あまりにも失礼だと思う。
小さなテーブルに朝食を並べ、スマホでオルゴールや小鳥のさえずりなどの癒し系BGMを流す。コーンスープとトーストを頬張っていると母からビデオ通話の着信が鳴った。
「今ニュースで見たけど、大丈夫だった?昨日のバスの爆発。桜都の乗っていたバスじゃないかと思って」
「うん。実は、そのバス乗っていたんだけど、助けてくれた人がいて・・・」
「もうっ。そういう時はすぐ電話しなさいよ」
事の経緯を聞いた母はとても驚いて興奮していたが、隣にいた父が冷静に話に入ってきた。
「しっかりお礼しないと。大切な娘の命の恩人だからね。家に招いて、ご馳走したいね、母さん」
「確かにそうよね。しっかりお礼しなくちゃ。もしイケメンな方なら、あなたのお婿さんにどうかしら」
「イケメンと私じゃ釣り合わないでしょ」
「何言っているの。あなたは、お母さんに似て美人よ」
父も母の隣で同意している。なんだか話題がずれてきたし、恥ずかしくなってきたので、そそくさと電話を切って、大学に向かった。
セミナー室の机に筆記用具を出していると、いつもの明るい声が聞こえてきた。
「桜都、おはー」
「美月、おはよう」
「昨日のバスの爆発、桜都の家の近くじゃない?」
「うん、そのバスに乗ってた」
「えー!嘘でしょ。大丈夫だったの?」
「うん、助けてもらったの。なんか・・・かっこいい人に」
「はあ?桜都がイケメン連呼するなんて。やっと恋愛モードだな、これは」
「連呼なんてしてないよ」
「というか、惚れたでしょ。落ちたでしょ」
親友の相川美月は、すぐ私に恋愛させようとしてくる。でも、確かに、彼を思い出すと胸が高鳴る。
そして、今、心臓が飛び出そうなほどびっくりしている。
私の目の前を、その彼が通っているから。
まるでスローモーションみたいに。
背が高くて、細見。鼻筋が通っている横顔。
優しい瞳は、紛れもなく私の命の恩人のもの。
一瞬目があったけど、すぐに逸らされた。
「あの」
躊躇うことなく、声が出た。でも、彼はそのまま歩いて行ってしまう。
なんともいえない切なさを感じている私を見て、美月は全てを察した様だった。たまに心が読まれているのでは、と思うことがあるが、今、まさにそれを確信した。
「あの、もしかして昨日、桜都を助けてくれた人ですか?」
美月の問いかけに、明らかに動揺している彼。
「い、いや、あの、たぶん人違いかな」
「え、本当ですか。桜都、この人知り合いなの?」
追及する美月の腕をひっぱり、「すみません、人違いでした」と口から出かかったその時に、見えてしまったのだ。右手の甲に大きな絆創膏と首にも擦り傷が沢山あるのを。きっと、ガラスの破片が当たってしまったのだとすぐわかった。
「あのやっぱり、昨日の方ですよね。治療費を払わせてください。ちゃんとお礼もしたいので、今度うちに来られますか?両親からもちゃんとするように言われていて」
あきらかに困っている彼。あ、どうしよう、間違えたかも。いきなり家に誘うなんて。軽い人と思われた?
時間を巻き戻したい。体がかぁーと熱くなるのを感じた。
「あ、じゃあ俺、代わりに行っていい?桜都ちゃんだっけ?可愛い名前だね」
沈黙を破ってきたのは、彼の隣にいる男の人。
「岳、お前関係ないだろ。それは、絶対だめ」
「おー怖い」
「本当にかすり傷でなんともないから。気にしないで。ありがとう。ご両親にもよろしくね」私の方に向き直って、目をしっかり見て言ってくれた。
「悠斗って変にまじめなんだよねー。桜都ちゃん、今度俺と遊ぼうね。あ、俺の名前、月城岳っていうから覚えておいて」
セミナーの講師が教室に入ってきた為、お辞儀をして会話は、終了してしまった。
最初に他人を装ったのは、私に気を遣わせない為だと思う。今回のセミナーは2年生を対象にした、全学部合同のものだから、浪人していなければ同い年だろうに。私にはないくらい大人な人だと思った。
2
先日の出来事から、数週間経った。実はこの一か月、頭の中の大部分を占めているものが他にあった。人生で一番嫌いと言ってもいい人前でのプレゼン。好きなテーマを選んで英語で説明するという内容だ。英文学科だから、英語で行うのは仕方ない。もちろん、発音に自信はないけれど、英語を学ぶのが好きだから、この学科にした。それより嫌なのが、「大勢の前で」という点。しかも今回は経営学部と半分ずつに分けてやるなんて。知らない顔ぶれも混じるなんてもっと怖い。資料の準備も、話す練習も人一倍多くやっていると思う。それでも、失敗した自分、白い目で見てくる他人の目を想像して、吐き気がこみ上げてきていた。失敗に対する恐怖が尋常ではない。その原因が自分でもよくわからない。物心ついたときからだった様に思う。
そんなこんなでこの日、朝起きてからの私は、自分の体が自分のものではないように感じ、終始そわそわしていた。暖房の効いた教室にいるのに、手先は冷え切り、力が入らない。集中も出来ない。時間を早送り出来たらよいのに。
講師が教室に入ってきた。
私の緊張はすでにピークに達していた。浅い呼吸を深く長くと思ってもうまく出来なかった。
「くじ引きで一番初めにプレゼンする人を決めますね。その方から後ろの席の人という順番でいきましょう」
講師の言葉はさらに私をドキドキさせた。
どうかお願い、一番ではありませんように。
「はい、双葉桜都さん。準備できていますか」
最悪。本当に最悪。
はい、と立ち上がろうとした時だった。私の後ろの席から声がした。
「先生、すみません。急用ができてしまって、一番初めにやらせて貰うことはできますか」
「えぇ、構いませんよ。じゃ双葉さんは、春野さんの後で」
後ろを振り返らなくても声で誰かわかった。少し高めの声は、紛れもなくこの間の彼。
苗字は、春野君っていうんだね。
少し気が逸れた。そしてさっきまでの私の緊張は、春野君のプレゼンで更にほぐれていく。
「えー、春野悠斗です。Hi,I'm Yuto Spring Field.」
「ちょっと待て、春野君。自分の名前まで、自動翻訳かけてるでしょ」
くすくすと笑う声が聞こえる。私も、失礼ながら笑ってしまった。自動翻訳で作成したであろう原稿を堂々と読んでいる。まったく意味不明な英文に笑い転げている英文学科の生徒たち。笑われても、まったく動じない春野君。こんなに面白い人だったんだ。みんなと笑っていたら、なんだか力が抜けた。あれだけ、逃げ出したいと思っていた私のプレゼンは、あっさりと終わった。むしろ、「双葉さん、さすが」という声も聞こえた。春野君のおかげで教室の雰囲気が明るく変わり、下手なプレゼンでも良いのだという空気感に一気に変わった。
「桜都の彼氏、メンタル強くない?」
お昼時間のカフェテリア。騒音の中でも、美月の明るい声が響き渡る。
「ちょっと、彼氏な訳ないでしょ」
「ふふ、何か嬉しそう。めちゃくちゃタイプでしょ」
「まぁ、私、背の高い細見な人好きだからね」
「やっぱり。でもさぁ、春野悠斗君、ずっとカフェテリアにいるね。急用あるって言ってたのに」
もちろん私も気が付いていた。無意識に彼を探している。話しかけるなんて絶対にできないから、ただ遠目から見ているだけ。
自惚れなのは、わかっている。だけどさっき私を助けようと、嘘をついて一番先にプレゼンをやってくれたのではないかと。
「本当に知らないの?話したこともなかったんだよね」
「うん、今まで会ったことあったら、たぶん覚えてる」
ねぇ、どうして私の事を助けてくれるの?私たち知らないもの同士だよね?
本当はもっと話したい。知りたい、あなたのことを。
でも、話しかけてくれるのは、彼の友人の岳君だった。
「桜都ちゃん、今日寒いから、ソフトクリーム食べに行かない?あったかい部屋で食べると美味しいよね」
「悠斗も来るでしょ」
「いや、俺はいいや」
私には目もくれずにその場を離れていった。
「ごめんなさい。私、今日バイトで」
「そっか。オッケー。また誘うね」
明るく去っていった岳君が「なんか冷たくない?」と悠斗君の背中をたたくのが見えた。
私も、同じこと思った。私になんて興味がないのだ。
たまに、大学内で悠斗君とすれ違う場面が何度かあったが、私の存在を確認すると逃げるようにいなくなってしまうことが何度かあった。気のせいだろうか、それとも本当に避けられている?家に来て欲しいとか言ってしまったからだろうか。
でも当然だと思う。私なんかでは、釣り合わない。長身で整った顔、落ち着いている彼はきっとモテるのだろうな。胸を焦がすような物語が始まるかもだなんて、馬鹿みたい。いつもの平凡な日常にそんな夢のような話は訪れるわけがない。よく聞く話。火事場で助けてくれた消防隊員に恋をしてしまう。でも、相手は仕事だから助けただけ。思い違いも甚だしい。きっと悠斗君にも事情があって、私を助けてくれたのだろう。いや、助けてくれたのではなく、致し方ない何かがあってたまたま私がそこにいただけ。
きっとそうだ。忘れよう。本気で好きになる前でよかった。
学業とバイトの両立は、結構忙しかった。さらに一人暮らしのため、家事も一人でこなさなくてはならない。実家は、市内にはあるけれど、大学から一時間以上かかる為、両親に無理を言ってワンルームの小さな部屋を借りてもらっている。そんな両親の負担を少しでも軽くしたくて、自炊は、ほぼ毎日していた。本当に毎日あっという間に時間が過ぎていく。
気が付くと、北海道にも遅い桜前線がやってきていた。
広大な大学内にある桜並木道を楽しめるのもわずか数日。
昨年見たときは、とても感動した。満開に咲きほこる淡いピンク色のソメイヨシノ。大学の関係者以外にも多くの人たちがその景色を見に訪れていた。講義を受ける前にこんな素敵な景色を見られるなんて。心が浄化されたような気持になったのを思い出す。
今年の桜は、温かな気候の影響で例年より三日ほど早く咲いたらしい。相変わらず心奪われる淡いピンク色。昨年と同じように堂々と咲きほこるソメイヨシノ。
私もこんなに美しく堂々といられたらいいのに。
沢山の人たちを魅了できるようなそんな力があれば・・・。
きっと、悠斗君だって・・・私に・・・。
悠斗君は、今どうしているだろう。
あんなに忘れようと思っていたのに。
全く会話なんてしていないのに。
気が付くと頭の中であの優しい瞳を思い浮かべていた。
また、助けてほしいな。
その願いは、ことのほかすぐに叶った。
五月の私の誕生日。夕方から降水確率九十パーセントの日。朝、持っていこうと思っていた傘は、出かけ間際のバタバタですっかり抜け落ちていた。
夕暮れ時、図書館の玄関には、もう人はいなかった。昼間はまだ小雨だったのに、いつの間にか暴雨に変わっていた。ザーザーと音がするのに、図書室で翻訳のレポートを書いていて、まったく気がつかなかった。このまま、ずぶ濡れで帰ろう。家に着いたら、温かいお風呂に入ればいいや。確か金木犀の入浴剤が一つ余っていたはず。
意を決して、一歩踏み出そうとした時、誰かに優しく肩をたたかれた。
「これ良かったら使って」
ネイビーの傘を一本、開いて差し出してきたその人は、躊躇なく土砂降りの雨の中に飛び込もうとした。
「春野君、待って!お願い!」
振り向いてくれないと思ったから、大きな声が出た。
「気にしないで。傘はあげる。家に沢山余ってるから」
自分でもびっくりだけど、彼の腕を強く掴んでいた。
「もし嫌じゃなければ、駅まで送ります」
背の高い彼の頭が濡れぬように、傘を差し出した。大きな紳士用の傘だけれど、彼との距離はとても近い。
ふわっとした彼の柔らかそうな髪。
吹き出物のない綺麗な頬。
わずかな時間でも私の目を奪う彼の雰囲気はいったいなんだろう。
優しい彼の瞳と交差した時、時間が止まったように感じた。しばし見つめあっていたように思う。
だが、彼は、はっとして地面に視線を落とした。
「いや・・・嫌です」
その言葉に私も我に返り、掴んでいた彼の腕を離した。
「でも、傘ないと濡れちゃう」
「ごめん、急いでるんだ。本当にごめん」
そんなに嫌なの。
「傘は返さなくて良い」、「駅までのわずかな時間も一緒に過ごせない」ということは、私と
は話したくないって事だ。その言葉さえなければ今頃私は、有頂天になっていたはず。彼の
私物の傘が私を暴雨から守ってくれているのだから。
でも今は、傘を見るだけで辛い。
話したくないなら、どうして傘は貸してくれるの。
友達でも、駄目なの。
見るだけで辛い。
ほとんど話したこともない彼に、どうしようもなく惹かれていると改めて思い知らされた。だって、想いのない人にこんなに感情を揺さぶられるわけがないのだから。
胸が締め付けられるように苦しいこの感情はどうしたら良いのだろう。
望みがないのなら、私に構わないでよ、とも思う。
暴雨に躊躇なく飛び込んでいった彼は、もう見えなくなっていた。
3
自分でもどうしたら良いのかわからなくなっている。
彼女には、自分の夢を叶えてもらいたい。この先の長い人生、いろいろな事を経験して欲しい。「自分の書いた絵本を英語に翻訳して、世界中の子供たちに読んでほしい」それが、彼女の夢だった。結婚して、可愛い子供を育てる楽しみだって、いっぱいあると思う。だから僕は、彼女の人生を邪魔してはいけないのだ。絶対に。
それなのに、予想だにしないことが起きている。
バスの爆発も、彼女に近づきすぎていることも、僕の計画にはなかった。
一番邪魔しているのは、自分の中の感情だ。僕を見つめてくる時の彼女の瞳はいつも切なそうだった。本来の彼女はいつも楽しそうな表情でにこにこ微笑む子だったのに。
だから、さっき傘を貸した時の彼女の瞳を見て、すぐにでも抱きしめたい衝動にかられた。必死で抑えようと出てきた言葉は、彼女を傷つける言葉。きっと繊細な彼女は、悲しんだだろう。その上、今日は彼女の一年に一回しかない誕生日だっていうのに。助けようとした行為が、こんなことになるなんて。彼女を少しでもいいから幸せにしたい。そう思っての行動がただただ彼女を悲しませている。本末転倒というのは、正にこの事だ。やり直せるなら、もう一度やり直したい。
彼女にこれ以上合わせる顔がなくて逃げてきたけど、物凄い罪悪感で立っていられなくなり、雨でほとんど散ってしまっている桜の木の陰に蹲った。
やはり当初の計画通り、鞄の中に入っている折り畳み傘を彼女に見せるべきだった。「もう一本持っているから、大丈夫。気を付けて帰ってね」と。だけど、突然欲が出た。僕の分の傘がなければ、「一緒に入ろう」と、彼女は傘を差しだしてくれる。少しでも、彼女と話がしたい。そばにいたいと。思いやりの強い彼女は、自分を簡単に犠牲にしてしまえる人だ。そんな彼女が僕をずぶ濡れで帰すなんて、絶対にしない。傘が二本なければ、僕たちは近づき過ぎてしまう。だから、計画ノートには、しっかりと「傘を二本用意する」と記入してあったのに。
綿密な計画を実行できないなら、なぜ自分は戻ってきた。あの不幸な出来事を変えたくてやり直しているのに。思慮の浅い自分に心底腹が立った。
「桜都、ごめん、ごめんね」
心の声は、漏れていたと思う。でも、この大きな雨音でかき消されるだろう。僕の涙も洗い流してほしい、愚かな自分と共に。
堪えようと思っていた涙は、嗚咽と共に溢れ出し、止められずにいた。この罪悪感から、助けてほしいと願ったからだろうか、僕の頭は、誰かにそっと撫でられていた。誰かではない。桜都だ。顔は上げられなかった。
「春野君、どうしてそんなに悲しそうなの?私が話を聞いてあげることは出来ない?」
さっきまでザーザーと降っていた雨は、音がしなくなっていた。静寂に包まれた僕たち二人の空間の中、僕の計画は、さらに狂った。彼女を強く抱きしめてしまったのだ。
彼女に貸した傘は地面に転がっている。僕たちは、散って濡れた桜の花びらの上に、膝をたてて強く抱きしめ合っていた。
「春野君、バス事故から助けてくれた時、私の名前を知っていたのは、どうして?」
彼女の質問は止まらない。
「あと、さっき聞こえちゃったの。どうして私に謝ってたの?」
漏れていた心の声は、桜都に聞かれていた。
ごまかす言葉を考えろ。なんて言ったら、桜都を納得させられる?それとも、全て打ち明けようか。いや、それは絶対駄目だ。迷わず前者を選ぶ。
「桜都ちゃん結構、優秀だから。大学で名前聞いた事あったんだよ」
「じゃ、どうして『ごめん』って言ってたの?」
彼女の素直で純朴な瞳には嘘はつけない。でも、本当のことなんて話せるはずがないのだ。
彼女の体が寒さで震えているのがわかった。温めてあげたくて、頬に右手を伸ばした。柔らかな彼女の左手が僕の手の甲に重なった。このまま彼女にキスが出来たら、どんなに幸せだろう。何度も頭の中で想いが駆け巡った。その後に起こる不幸を考えるとそれはやはり出来ない。
「桜都ちゃん、僕のせいで濡れちゃったね。風邪ひいたら大変だから、帰ろう」
うん、と素直に聞いてくれた彼女は、駅まで一緒に帰ろう、と誘ってきた。
麻生駅付近に住んでいる事やパン屋さんでアルバイトしている事を教えてくれた彼女に、うんうん、知っているよと思いながら、必死に会話をつなごうと頑張る彼女に愛おしさが込み上げてきた。
桜都は、さっき僕に質問してきたことは追及してこなかった。「知りたいけれど怖い」という思いがひしひしと伝わってきた。
「桜都ちゃん、また学校でね」
「話しかけてもいいの?」
「うん、友達だからね」
「私にとっては、ただの友達じゃないよ。命の恩人。そんな人、人生でなかなか現れないでしょ」
僕は、心の中で、「同じ言葉を返すよ」と思っていた。
「じゃ、スーパーマンって呼んで」
「スパイダーマンでも良い?」
「いや、それはちょっと違うかな」
いつもほとんど目を合わせなかった僕たちが、笑いあって話せたのが嬉しい。それに、久しぶりに見た桜都の笑顔。ずっと見ていたい。彼女にもう悲しい思いはさせたくない。それなら、適度な距離感を保てば、友達になってもいいのではないかと思い、咄嗟に選択した。だって、「僕にもう話しかけないで」なんて言えるはずがない。もう、傷つけたくない。桜都の笑顔を見て、さっきまで罪悪感で溢れていた心が軽くなった。
考えてみれば、バスの爆発事故のせいで、僕たちは近づきすぎてしまったのだ。これがなければ、桜都から見たら、僕のことは「名前はかろうじて知っている程度の人間」という存在で、僕に邪魔されることもなく幸せな人生を全う出来るはずだったのだから。
計画は練りなおさなければならない。
ただこれだけは、当初から変わらない。
『彼女を絶対に死なせるわけにはいかない』
第二章 一度目は
1
よく思い出す彼女と過ごした濃密な日々。そもそも、これは一度目の僕の人生の話なのだけれど。今では考えられないけれど、僕なんかにもふいに、きらきらした人生が舞い込んだのだ。
彼女に初めて会ったのは、降り積もった雪がいったん解け、再度固まり、スケートリンクの様な道が出来上がった日だった。
年末年始の居酒屋の短期アルバイトで店長と車で買い出しに行った帰り、信号待ちをしていた時だ。杖を突きながら、一人のおじいさんが横断歩道を渡り始めた。滑り止めの石をばら撒きながら歩いているが、杖を持ちながらだと、やりにくそうだし、今にも転びそうだ。「あれ、親父だ」という店長は、ギアをパーキングに入れようとしたまさにその時、一人の女性がおじいさんに駆け寄るのが見えた。白いコック服に、緑色のエプロンを付けている。車側の信号は、もう青になっている。僕らの車に手を上げ、「待っていて下さい」のジェスチャーを、頭を下げながら送ってきた。おじいさんの腕を支えながら歩き、無事に横断歩道を渡らせた後も、僕らの車に会釈する彼女の姿は、ぐっとくるものがあったし、とても美しく感じた。
店長は車を走らせ、どこかへ向かい出した。
「ちょっと、あの天使に花束買うわ。花屋さん寄らして」
「あ、花屋さんなら、さっき通ってきた所にありましたよ」
「よっしゃ」
花屋から出てきた店長は、プロポーズでもするかのような大きなバラの花束を抱えて戻ってきた。
「女の人は、みんなバラが好きなんだろ」
普段からでかい店長の声は、さらに拍車がかかり、僕は右耳が痛い。
「なんて素敵な娘なんだ!十年早く出会いたかった!嫁さんにはあんな優しい子が一番!」
「いやいや奥さんと娘さんに言ったら怒られますよ。毎日店の手伝いも頑張ってくれているじゃないですか」
「ま、そうだな!いかんいかん」
がはは、と笑う店長は、勢いよくパン屋の駐車場に入っていった。
「お前も来い」と言われたので、男二人で、パン屋に入る。大きな花束は店長が持っているので、すぐに渡すのかと思ったが、トレイとトングを渡され、あれやこれやと指示されたパンを山盛りにして、レジへと持っていった。
「すみませーん。さっきあそこの横断歩道で、足の悪いじいさんを助けてくれた女の人がいると思うんだけど・・」
レジの店員さんは迷わず言った。
「きっと、桜都ちゃんですね。そんなこと出来るのうちの店じゃその子だけだから」
店員さんがすぐに厨房に向かって「桜都ちゃーん!さっきおじいさん助けたでしょう」と手招きしながら、叫んだ。厨房から、控えめに顔を出した女の人は、間近で見ると、思ったより若かった。僕と同い年位だろうか。綺麗な肌に色素の薄い瞳は、もっと近くで見てみたいと感じた。
彼女はぺこりと僕らに会釈しながらこう言った。
「あの、さっきは、車待たせてしまってごめんなさい」
「いやいや、あれ、さっきのじいさん、俺の親父なの。こっちがお礼を言う立場だから。本当にサンキュウね!」
ほら、これ渡して!となぜか花束を僕に持たせる店長。僕から、彼女に手渡される大きなバラの花束。「大した事してないです」と、遠慮している彼女だったが、強引に渡すとバラの花にその綺麗な瞳を細めているのがわかった。今考えると、彼女に最初に渡すバラの花束は、ちゃんとした日に、想いを告げながら渡したかった。だが、この出来事がなければ、僕の幸福なときは訪れなかったのだから、あの店長には感謝しかない。
居酒屋での休憩時間に出してもらえる賄い。いつもは、焼き鳥とかお茶漬けとかの居酒屋メニューなのだが、今日は違う。「なんかパンが大量にあるぞ」と若いスタッフ内で盛り上がっている。ちなみに、あの後レジで、最初に対応してくれた店員さんが、「もっちりドーナツが最近お勧めなのよ」と言ったものだから、店長が「もう、全部買っちゃう!」と言い出し、狭い休憩室のテーブルに大量のドーナツも並べられているのだ。
僕は、躊躇なく黄な粉がまぶしてあるドーナツを手にした。子供の時、じいちゃんに出されたおやつは和風な物が多かったからか、あんことか黄な粉とかそういうものが好きだ。
控えめな甘さのドーナツは餅の様に弾力があり、おもわず「うま」と声が出た。近くにいた他のスタッフも同様の感想だったらしく、「店長が持って帰っても良いって」と誰かが言った瞬間、沢山の手がテーブルに伸びてきた。僕も負けじと手を伸ばし、黒ゴマと黄な粉味のドーナツをエプロンのポケットに素早くしまった。
あの味が忘れられない。そして、パン屋の可愛らしくて心優しい彼女が忘れられない。
店長が五十代既婚者で良かった。ライバルにもならないだろう。僕のこと覚えているだろうか。さすがにあんな大きな花束渡したのだから、覚えているだろう。でも、良く考えてみろ。彼女とは、言葉を交わしていないではないか。会釈くらいしかしていないぞ。あの時、僕にもっと気の利いた言葉が言えていたら、印象に残ったかもしれないのに。これは、また行くしかない。
カランと音が鳴るドアを開けると、いい匂いがしてきた。パンの匂いやコーヒーの匂い。
白くて真四角のトレイを取り、トングを右手に準備。向かうは、もちろんドーナツコーナー。食べたことのないココア味もある。今日はイートインしたい。さっき昼ごはん食べたばかりだから、ドーナツ一個分の腹の空き具合だ。味の選択は、重要だ。
真剣に選んでいた僕の目に入ったのは、ガラス張りに見える厨房内。この間のあの子だ。抱えてきた大きなタッパーを、作業テーブルに置く。
ドーナツを両手で四つ掴み、タッパーに入れ、手際よく黄な粉をまぶしていく。
あっという間に出来たドーナツをトレイに乗せ、それを持って売り場にくるではないか。
僕は、なんか緊張してそわそわしてきた。話しかけようか、でも何て?とりあえず、ドーナツを選ぼう。緊張している手に「落ち着け」と言い聞かせ、黄な粉味をトレイに慎重に乗せる。すると後ろから声を掛けられた。
「もしよろしければ、揚げたてと交換しますよ」
「え、いいんですか。じゃあ」
僕は自分に出来る最大限の愛想の良さでお礼を言った。彼女は、僕のトレイのドーナツと彼女が作ってくれた揚げたてドーナツを交換してくれた。彼女が話しかけてくれた。めちゃくちゃ嬉しい。すぐに厨房に戻って行ってしまった彼女に名残惜しさを感じたが、だけど大丈夫。今日は、イートインしていく予定だ。まだ、話せるチャンスはあるはずだ。
会計を済ませ、イートインコーナーからでも厨房が見える席を選ぶ。熱々のコーヒーを啜りながら、なるべく厨房の方は見ないように、ドーナツをゆっくり食べる。本当にちらっと見るだけだ。レジからは、女性店員二人の私語が聞こえてきたが、彼女は黙々と手際よく仕事をこなしているように見えた。
わざとゆっくり飲んでいたコーヒーの最後の一口がなくなってしまう。
「お先に失礼します」
という声が聞こえてきた。彼女は、ぺこりと頭を下げて帰るのが見えた。
そうか、今日は、もうだめだ。僕も帰ろう。彼女の優しさに触れられただけでも良しとしよう。仲良くなりたい。もっと話してみたい。また来よう。
それから何度も彼女の働いているパン屋に通い詰めた。いつのまにか「黄な粉の人」とあだ名をつけられるほどレジの店員さんと仲良くなっていた。でも僕が仲良くなりたいのは、厨房にいる子。僕は意を決して、厨房内の彼女とガラス越しに目が合ったタイミングで親指を立ててみた。「黄な粉ドーナツ最高!」という僕のジェスチャーは通じたようだ。彼女の目が細くなり頷いてくれた。やった!嬉しい!心が通いあったように思えた。
ようやく連絡先を聞けたのは別日に三度目のジェスチャーで会話した後。彼女が外にゴミを捨てているタイミングで声をかけたものだから、ちょっと驚かせてしまった。が、なぜか、ふふっと笑う彼女。
「鼻に黄な粉がついています」
「うが・・嘘」
よくわからない声を出してしまった。やばい、完璧に変な奴だと思われている。「黄な粉の人」というあだ名の、鼻に黄な粉を付けているやばい男。しかもゴミ捨て場で連絡先を聞くなんて・・・消えたい・・・。
あたふたしながら手で鼻を拭い取った僕は、次に彼女が発した言葉に救われた。
「嬉しい。実は私もずっと連絡先聞きたかったんです」
恥ずかしくて消えたい思いは、嬉しくてたまらない思いで上書きされた。
2
晴天白日。青い空がどこまでも続き、爽やかな風が花壇の花をゆっくりと揺らす。過ごしやすい気温の今日は、まさにデート日和。彼女と初めての遠出をする事になった僕は、今朝から浮き浮きしていた。いや、違う。一週間前、カフェで約束したあの日からずっとだ。
「悠斗君、夏休みは、予定とかある?」
「うん。小樽のじいちゃんの店少し手伝うくらいかな。時計店なんだけど、修理とか、ベルト交換なら僕も出来るからさ。小学校のときから、店に入り浸ってたからね」
「すごいね。手先器用そうだもんね」
「そう?ま、指は長いって言われるかな」
「うん、悠斗君って綺麗な手しているな、って思ってた」
「そうかな。僕は、桜都ちゃんの事、全体的に綺麗だし可愛いって思ってたけどね」
ふふふ、とアイスカフェオレをストローで啜りながら、お互いに頬を染め合った。
これは、誘ってもいいかな。この間、岳に相談したら、「ストレートに誘え。回りくどいことはするな」と忠告された。確かに、僕もまどろっこしいことは、ごめんだ。彼女ともっと一緒にいたい。話したい。出来る事なら触れたい。逸る気持ちをバネに言葉を発した。
「桜都ちゃん、あのさ、月末の小樽の花火大会、興味があればでいいんだけどさ、よかったら、一緒に行かない?もし、他の人に誘われているなら全然気にしなくていいんだけどさ」
返事を早く聞きたいけど、聞きたくなくて、結局、岳のアドバイス通りには行かなかったけれど、彼女の反応は、こうだ。
「実は、私も行きたいなって。悠斗君と」
「よっしゃ」
「ふふ、浴衣着ていくね」
「俄然楽しみになってきた」
「小樽駅で待ち合わせで良いかな?」
「ううん、札幌駅にしよう。迎えに行かせて」
「でも、悠斗君のお家、小樽でしょう?花火大会も小樽だし」
「いいのいいの。通学定期もあるし、桜都ちゃんと少しでも長く過ごしたいし」
「ありがとう。じゃ、お言葉に甘えて。改札で待ち合わせね」
もうそろそろ友人関係以上に進みたい。
夏休み中こんなに早起き出来るのは、滅多にない。昨日は、早く就寝したから体力は万全。動画サイトで「男の浴衣の着こなし方」も事前練習していたから、着付けも手間取ることはなかった。
小樽駅までの道のりは、綺麗なラベンダーの花壇が続いている。風にゆられて、落ち着いたハーブの匂いが漂ってきた。そうだ、いったん落ち着いたほうがいい。別に女の子とデートするのが初めてって訳じゃない。こんなにドキドキするのは、相手が「桜都ちゃん」だからだ。控えめで、落ち着きがあり、心の綺麗な子。もちろん、容姿もタイプなのだが。彼女の浴衣姿はどんなだろう。髪型は、どんな感じかな。小樽駅から札幌駅までの電車内で、彼女の姿を思い浮かべ、今日の会話をシュミレーションする。おとなしい彼女だけれど、すっかり僕に心を開いてくれた様で、自分の考えはしっかり教えてくれるし、僕から、言葉を引き出すのが本当に上手い。人の話に耳を傾けるのが得意なのだ。彼女は、コミュニケーション下手と自分では言うけれど、全くそんなことはない。だから、本当はシュミレーションなんて必要ないのだけれども、今日は、僕の想いを伝えたいから、念入りに考えていた。場所、タイミング、言葉の選択はどうしたら良いか。
札幌駅西改札口前、多くの人が行きかっている場所。休日だから、スーツケースを引いた観光客が目立つ。何人か浴衣の人はいるが、それでも数えるほどだ。花火大会は夜八時からなのだから当然。今はまだ午前中なのだから。
初めての遠出だから、はりきって十時札幌駅集合にしてしまった。
待ち合わせ場所で、彼女が来るのを今か今かと内心そわそわして待っていると、肩をぽんぽんと後ろから叩かれた。
振り向くと「おはよう。待った?」と少しはにかみながら、僕をまっすぐに見上げてくる子がいた。淡いベージュ色に落ち着いた紫色の濃淡が美しい花の浴衣を身に纏い、柔らかな髪をアップにまとめた彼女。
「ううん、全然待ってないよ。可愛すぎてちょっと見とれた」
「悠斗君も浴衣似合ってるね。お迎え来てくれてありがとう」
「なんもなんも。でも本当迎えに来て良かった。誰かに声かけられなかった?」
「誰にも声かけられてなんかないよ。悠斗君だけだよ。そんなこと言ってくれるの」
「みんな目悪くて良かったよ」
行こうか、と言って僕は、躊躇いもなく彼女の手を引いていた。
僕が自分で一番びっくりしている。頭の中でシュミレーションしすぎたせいだろうか。いつの間にか恋人だと脳内で勘違いし、僕の手を勝手に動かしたに違いない。
「ごめん、勝手に手、つないじゃった」
「え、大丈夫。嬉しい。はぐれたら嫌だから、つなごうか」
「うん」
柔らかで、温かい彼女の手。そして彼女からは、良い匂いが漂っている。
小樽駅行きのホームは九番。新幹線用に新たに増設されたホームへ向かう白くて真新しい階段。無意識に早足で駆け上がる僕たち。いつの間にか、どっちが早くホームへたどり着けるのか競い合う。
「足大丈夫?下駄だと大変じゃない?」
「大丈夫。今日沢山歩くと思ってこれにしたの」
彼女の足元を退き込むと、ベージュ色のスポーツサンダルを履いていた。
「さすが。実は僕も」
今日沢山行きたいところがあるから、黒いサンダルにして正解だった。
「今日、午前中から待ち合わせって言われたから、色んな所連れてってくれるのかなって楽しみにしていたの」
「任せて、お嬢さん。プランは、練ってありますよ」
「まずは、どこですか?」僕の顔を覗き込む彼女がまた可愛い。
「小樽に着いたら、まず、洋食屋さんに行きます。レトロな店で絶対連れていきたいって思っていた店」
「すっごく楽しみ」
たわいもない話をしながら、あっという間に小樽駅に着いた。いつもなら、この三十分は長く感じるのに、不思議なものだ。
小樽駅に着くと、浴衣の人口が増えてきた。家族連れや恋人同士。きっと皆花火大会まで観光でもするのかな。小樽には、オルゴールや菓子、ガラス細工などの店が立ち並ぶレトロな通りや運河、水族館などなんでもある。時間を持て余すということはない街だ。札幌とは違うノスタルジックで異国に来たような不思議な感覚になる街、と言われることがある。子供の頃から住んでいる場所だから、ちょっと見飽きた部分もあるけれど、大切な人に見せたい場所は山ほどある。
「予約していた春野です」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
予約席の札がとられ、レトロで重厚なテーブル席に案内された。高級感のある店内は、クラシック音楽が流れており、室内窓には、ステンドグラスが使われている。隣の席との間隔も十分あり、ゆっくり話が出来そうだ。
「素敵なお店だね」
「そうでしょ。一回だけ、じいちゃんの古希のお祝いで来た所なんだ。ホタテが入っているグラタンが美味しかったんだよ」
「私もそれ、食べてみたい」
「オッケー。じゃあ、もう一個違うの頼んでシェアしよう。桜都ちゃん、もう一個選んで」
「うん。じゃこの人気ナンバーワンって書いてあるデミグラスオムライスはどうかなぁ?」
「実は、それ気になってたんだよね」
「通じ合ってるね。私たち」
「そうだね。血液型も一緒だしね」
はたから見たら、いちゃついているカップルに見えているだろう。だけど本当にこの時間が楽しくて仕方がない。
程なくして、運ばれてきた料理。熱々のグラタンは、クリーミーでホタテの旨味が感じられる。オムライスにかかっているデミグラスソースは、甘みがあり、どの世代にも愛されそうな味だ。仲良く半分個にし、真夏に熱々の料理をほおばる。汗ばんだ額の汗を優しくハンカチで拭ってくれる彼女。
これは、期待してもいいだろうか。言うなら今かな。
「桜都ちゃん、あのさ、花束渡した日から、ずっと気になってた。仲良くなってからも、もうずっと、桜都ちゃんの事考えてる。桜都ちゃんといると楽しくて仕方ない。もし、良かったら、彼女になってくれないかな」
彼女は、両手を膝に置き、黙って僕の話を聞いてくれていた。
「実は私も・・・」少し間があってこう続けた。
「花束貰った時に、一目ぼれだったの。こんな風に仲良くなれるなんて夢みたいなの。こんな私で良ければよろしくお願いします」
「ちょ、ちょっと待って。今、『一目ぼれだった』って言った?え、僕に?」
こくりと頷く彼女。
「なんだ、それならもっと早く話しかけたらよかったな」
「うん、悠斗君、初めて、一人でパンを買いに来た時あったでしょう?その時本当に、頑張って話しかけたんだから」
「まさか自分に興味あるなんて思いもしなかったよ。ただ親切な店員さんとして接してくれたと思った」
「たぶんドーナツ交換するときの私の手、震えてたと思う」
「え、僕もトレイ持つ手も震えてたから、気づかなかったよ」
「お互い震えてたから気づかなかったのかもね」
嬉しい誤算に胸が弾み、時間はあっという間に流れていく。
「桜都ちゃん、もうちょっと付き合って。連れていきたい店があるんだよね。じいちゃんの店なんだけど。気さくなじいちゃんだし、気遣わなくて全然大丈夫だから」
快く承諾してくれた彼女は、少し緊張した面持ちだったけれど、店の扉を開けた途端にぱっと表情が明るくなった。
時計店と言っても、現代風の店ではない。古時計が壁一面に飾られており、ステンドグラスで出来たランプが何個も置かれた店内は可愛いらしい雰囲気になっている。ショーケースには、懐中時計なんかも置いてあって、レトロ好きの女子にも最近人気らしい。
「じいちゃん、二階使うね」
「はいよ。あれ、今日は、可愛いお客さんと一緒だね」
「はじめまして。双葉桜都と言います」
「いらっしゃい。あなたが札幌の彼女さんね」
「じいちゃん!そんなこと言ったら、いろんな場所に彼女作ってるみたいじゃん」
「すまないすまない、語弊があったね。この子の母親がね、悠斗の大学が休みの日も札幌にいるって、言っていたもんだから、きっと札幌に彼女でもいるのだろうって話していたんだよ。ゆっくりしていってね」
「はい、おじゃまします」
身内に彼女を紹介するのは、本当に照れくさいものだ。そそくさと、彼女を二階の工房へ連れていく。きしむ階段を上った先は、ほぼ自分専用の工房だ。階段を上るのが面倒になったじいちゃんが、「二階はお前に譲る」と言ってくれたので、好きに使っている。アルバイトで貯めたお金で、ソファや小物を買い、できるだけおしゃれな空間に仕上げたつもりだ。
「うわぁ、二階もおしゃれだね。この綺麗なガラスの棒は何?色んな色が揃っているね」
「それで、とんぼ玉作ってるんだ。まだ、練習中だけど、将来は、体験教室とか開きたいなって思ってる」
「じゃ、将来は、このお店継ぐの?」
「うん、じいちゃんは、もう引退するって言ってるから、この店は好きにしていいって。だけど、時計店だと今後は、生き抜いていくのが厳しいかなって。もっと、人が集まれる場所って考えた時に、ペンションとかどうかなって思ってるんだ。この店、庭もあるし、奥に使ってない部屋結構あるんだよ。古いから、改装しなくちゃ行けないんだけどね」
「考えただけでわくわくするね」
「うん。こういう、ガラス細工を体験しながら、美味しい料理も食べられて、素敵な部屋にも宿泊できたら、楽しいかなって」
「だから、経営学専攻なんだね」
「うん、そう。職人になるより、起業したいって思ってるんだ」
「そっか。夢、叶うといいね」
「うん、ありがとう。実はね、今日ここに連れてきたのには理由があって・・・」
胸を膨らませた表情で僕を見てくる彼女は喜んでくれるだろうか。
「とんぼ玉で作ったアクセサリーをプレゼントしたいんだ。ブレスレットとかどうかなぁ。今日の浴衣の色に合わせて作るよ」
「わぁ、そんなの作って貰えたら、嬉しい。美月にも絶対自慢する」
「良かった。じゃ好きな色選んで」
「うーん。今日の浴衣は、紫色の花が付いているから、紫色がいいな」
「オッケー。それをベースに作っていくね」
「うん、楽しみ」
3
ちょうどその時「ボーン、ボーン、ボーン」と低い音がなった。一階に置いてある古時計の三時の音らしい。きしむ階段を誰かがゆっくりと上ってくる音がした。悠斗君のおじいさんだ。
「おやつの時間だよ」
と、大きなトレイには、アイスティーとバターサンド、口直しにと名物のかまぼこが乗せられている。
「ありがとうございます。私、何にもお土産持ってきていないのにごめんなさい」
「いいのいいの。初めてなんだから、女の子連れてくるの。おもてなしさせて頂戴ね」
悠斗君が言っていた通り、気さくで優しそうなおじいさん。鼻筋が通っていて、紳士的。二人はよく似ていると感じた。
二口でバターサンドを口に押し込み、アイスティーをガブ飲みする。悠斗君は、あっという間におやつの時間を済ませ「ごめん、桜都ちゃん、じいちゃんの相手お願い」と言って、私のアクセサリーを作りに隣の机に移動した。
「桜都さん、将来の夢はなんですか?」
「私、絵本が好きなんです。短い文章でも、人の心に残るような、わくわくするようなお話が。お話も自分で書いて、さらにそれを英語に翻訳出来たら、世界中の人に読んで貰えるかなって」
「素敵な夢だね。大学でも英語を学んでいるのかな」
「はい、英文学を専攻しています。翻訳って奥が深いなって。どの単語を選んだら、書き手の意思が一番伝わるのだろうって苦戦していて」
「英語は、小さい時からやっていたのかな」
「それが全くなんです。高校生の時にもう必死で勉強して、映画も出来るだけ、英語字幕でみたり、海外のネットニュースを聞いたり。そうしたら、夜寝ているとき、夢の中の言語が突然英語に変わったんです。私も流暢に英語話していて」
「それは、面白い」
「でも、英語の文章は上達しても、話すのは全くで」
「そう。桜都さんの様な頑張り屋さんなら、いずれ留学も考えているのかな」
「はい、実は。短期ですがカナダに行こうと思っています」
「そうか、悠斗は寂しがるかもしれないね。でも今しか出来ないことはある。やりたいことがあるって本当に素晴らしいこと。応援しているよ」
気さくなおじいさんには、全く緊張することなく、自分の夢をさらけ出すことが出来た。共感力が高く、肯定してくれる話し方は、悠斗君とそっくりだ。
「何かに夢中になっている時の悠斗の顔、かっこいいから見てあげて」
と、おじいさんは、空になった食器をトレイに乗せて、一階に戻ってしまった。
少し離れた所からでもわかる。悠斗君の真剣な眼差し。
ガスバーナーから出る青い炎に、ガラス棒をくるくる回しながら溶かしていく。
左手で持った、別の棒に器用に巻き付け、丸い形が整う。
別の色のガラス棒をまた溶かし、ガラス玉にくっ付けていく。
模様を付けているのだろうか。間近で見てみたくなり、悠斗君の席の近くに移動した。一瞬私に目を向け微笑んでくれる姿にどきっとする。
きっと花だ。淡い紫色をベースに濃い紫色の花びらを作っていく。なんて綺麗なの。青い炎はガラスを炙るとオレンジ色の炎に変わる。その中でさらに美しさを増していくとんぼ玉。綺麗なとんぼ玉だけでなく、彼の横顔にも目を奪われていた。炎を真剣に見つめる彼の瞳はとても綺麗だ。何かに夢中になっている姿というのは、おじいさんの言う通り本当にかっこいい。そして、私のために、一生懸命作ってくれている。この先どこまで彼に惹きこまれるのだろう。
粗熱が取れたとんぼ玉を掌に乗せて見せてくれた。窓から差し込む光を受け、宝石の様に見える。ずっと眺めていられそう。「ちょっと待っててね」と、とんぼ玉を紐に器用に編み込み、ブレスレットにしてくれた。
「似合ってる」
「ありがとう。今までで一番嬉しいプレゼントかも」
「この先、ハードル上がっちゃうな」
「期待してます」
こんな幸せな記念日は他にあるだろうか。でも不安にはならなかった。彼と一緒なら、この先何度でもこんな幸せな一瞬をくれそうだから。
月が顔を出し、夜も更けてきた。人ごみの中きつく手を握り合い、やっと着いた特等席。船着き場の船は、花火の見物客の為に移動され、視界を遮るものは何もない。海面は、
月あかりが反射されてきらきら光る。
心臓にドンっと響く音を感じたら、待ち望んでいた花火大会が幕を開ける。いくえにも煌めく花火を目に焼き付ける。二度と訪れない今日という時間。右手には、まだ慣れていないぬくもりが伝わってくる。終わって欲しくない、今日という日が。
三尺玉の花火が打ちあがったら、幕切れの合図。一斉に見物客が動き出す。駅めざし、暗い道を足元に気を付けながら、ゆっくりと歩く。少し口数が少ないのは、名残惜しいから。
そんな私に気づいた彼は、次の約束をしようと言ってくる。
「食べ放題とか行かない?桜都ちゃん意外に食いしん坊なのがわかったし」
「え、バレてた?」
「うん、だって、今日ずっと食べてたじゃん。境町通り歩いてた時、目につくものほとんど食べたい!って言って食べてたよ」
「少しは我慢してたんだけどな。まだ、食べられなくて後悔しているものがあるの。だから絶対また来る」
「うん、いつでも来て。とんぼ玉も教えてあげるよ」
「本当?美月にも作ってあげたいな」
そうだ、今日の出来事は、親友の美月に報告しなくちゃ。彼氏できたって伝えたら、きっとすごく喜んでくれるはず。
小樽駅に着くと、人でごった返し、人々の落胆の声が聞こえてきた。「信号トラブルによる影響の為、本日の札幌行きの電車は再開の目途がたっていません」とのアナウンスに右往左往する人々。では、バスは?タクシーは?乗り場には、すでに長蛇の列が出来ていた。「この辺で安いホテル空いてないか調べてみるよ」
「うん、私も調べてみる」
ネットで調べてみるも、どこも満室の表示。
悠斗君がこっちを見て、言いにくそうに口を開いた。
「あの、桜都ちゃんがもし嫌じゃなければなんだけど、さっきのじいちゃんの店、泊まる?じいちゃんは、店閉めてもう家に帰っている時間だし、シャワー室もあるから、泊っても大丈夫。桜都ちゃんは二階の僕のソファで寝ていいから。僕はもちろん一階で。でも、もちろん本当に無理はしないで。それか、札幌まで歩いて送ってもいいくらいなんだから。たぶん明日の朝までには着くと思うよ」
そんなに気を遣わなくていいのにと思ったけれど、誠実な彼がさらに素敵に見えるから、口を挟まずに黙って聞いていた。
「じゃ、お世話になってもいい?」
「よっしゃ!い、いや、違うよ。一緒に過ごせて嬉しいって事だからね」
夜風が心地良く、汗ばんだ体をクールダウンさせてくれる。元来た道をまたゆっくりと進む。
店の鍵を開けると、昼間とは違い真っ暗で少し緊張する。きしむ階段を上るとタオルや彼の部屋着を貸してくれ、冷たい飲み物も出してくれた。
「じゃ、シャワー室は突き当りにあるから、いつでも何度でも使って。何か困ったことあったら、一階にいるから、いつでも呼んでもらって構わないから」
「悠斗君は、もう寝る?」
「うん。歩き疲れたし、もう寝ようかな」
「そっか。今日は色々ありがとう。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
彼が振り向いて、階段を下りて行ってしまう。
寂しい、もう少しそばにいたい。
今日が終わってしまう。行かないで。
私の想いが伝わったのか、彼は踵を返し、神妙な表情で私の前に戻って来た。
「あそこの砂時計の砂が全部落ちるまで一緒にいよう。それ以上は自分でもダメだってわかってる」
彼は大小あるうちの大きい方の砂時計をひっくり返し、私を胸の中に抱き寄せた。
「ゆっくり進みたい。桜都ちゃんと過ごす時間、大事にしたい」
わずか五分。目を閉じて、彼の浴衣越しのぬくもりも優しい言葉もしっかり胸に焼き付ける。
工房のオレンジ色のランプが、二人の大切なひとときを温かく照らしてくれた。
第三章 変化していく関係
1
石畳の歩道が続く道には、土産店やメープルシロップ専門店、甘ったるそうなケーキが並ぶカフェが軒を連ねる。小樽の堺町通りと似たこの場所は、バンクーバー市にあるガスタウンと呼ばれる古い街。街の中心には、大きな蒸気時計があり、十五分毎に鳴る低い笛の音に多くの観光客が耳を傾け、時計からもくもくと上げる蒸気を物珍しそうに見つめる。
俺は、この蒸気時計を目にするのは、久しぶりのようなついこの間のような気もする。
海沿いに位置するガスタウンの雰囲気が住み慣れた小樽に似ているからか、この街が好きだ。
留学している大学には、同じ北海道の大学から同時期に来た顔なじみが数人いるはずだが、広大なキャンパスではなかなか会うことは少ない。英語を学びに来ているのだから、敢えて日本人とつるみたい、と考えはしないだろうし。
十歳頃まで、英語圏にいた俺は、特に英語を改めて学びたいと思ってカナダに留学してきたわけではない。多民族国家のカナダで、いろいろな文化や考え方の違いをもっと肌で感じ、自分の視野を広げたかったからだ。
唯一連絡を取り合い、たまに会うのが桜都ちゃんだ。
「桜都ちゃーん、課題の提出今日までなんだけど、息詰まっちゃってさ。ジェラートでも食べに行って息抜きしない?」
「うん、いいよ、ちょうど私も近くで課題やっていたから今向かうね」
俺と彼女は、新学期に合わせ九月にこちらに来た。そこからあっという間に二か月が経った。
最初は、英語が聞き取れない、ご飯も合わない、ルームメイトとも合わない、と泣きそうになっていた彼女だが、もうすっかり慣れた様子。友人も数人出来たと言っていた。
まだ紅葉が見られる大学キャンパス内。オレンジ色の大きな楓の葉っぱがあちらこちらに落ち、野生のリス達がせわしなく動き回っている。清々しい外の空気を吸いながら、テイクアウトした食事を共にする学生が多い。
「部屋移ったんだって?」
「うん、日本の子と二人部屋。東京の子でサキちゃんって子なんだけどね、優しいし、トイレもキッチンも綺麗に使ってくれるし、本当に移って良かった」
「桜都ちゃんは、日本の子とつるむの大丈夫なの?」
「うん、私と仲良くしてくれるなら、どこの国の子でも嬉しい。英語を学びに来ているけど、それ以外にも大切な事ってあるなって。だって札幌にいたら、サキちゃんとも友達に成れなかったんだよ」
「それは、俺も同感。この間、講義の時さ、たまたま日本の子の席の隣座っちゃって、そしたら、そいつ、『日本人とは話したくない』ってわざわざ違う席移動してさ。何か嫌な感じだったよね。ま、それだけ英語に対して本気なのかも知れないけどさ」
「うん。私も、同じような経験した。でも、私は一瞬の出会いも大切にしたいと思ってるよ」
「いいねーそういう桜都ちゃん、本当リスペクトだわぁ」
「私は、岳君みたいに行動力あって、誰とでも仲良くなれる人羨ましい」
「そう?ただの空気読まない男だけどね」
そんなことないよ、と首を振ってくれる彼女。悠斗はいいな、こんな彼女がいて。
「悠斗に会えないの寂しくないの?」
俺は野暮な質問をしたと思う。寂しくないはずないのだから。
「うーん、正直そんなに寂しくないかも」
予想外の答えが返ってきた。
「え、飽きたとか?それはないか」
「私を不安にさせないようにだと思うけど、『次の約束しよう』っていつも言ってくるの。だから日本に帰ってからの予定が結構ある」
「ふーん。あ、桜都ちゃん、後ろスカンクいるよ」
「えー!」
と驚き後ろを振り向くが、すぐに嘘だと見抜かれた。「もうっ」と少しむっとした彼女は、「もう帰ろうかな」と、俺が煮詰まっている課題に役立ちそうな資料をチラ見させてきた。
「ごめん、ごめん。ありがとうございます」
と資料をありがたく受け取る。
「ま、でもそのストーカー彼氏とは、もう別れなよ。日本の女の子って結構モテるよ。こっちにイケメン沢山いるんだから。もっと遊んだら?」
ふふっと笑う彼女。そんなの興味ないの、一途に悠斗を想い続けているの、というのは、言葉に出さなくても、二人を間近で見てきたからわかっている。日本にまだ居るとき、一緒に学食でランチする時がよくあった。ま、二人で仲良くしているのを空気の読まない俺が強引に割り込んでいたのだが、今では遠い昔に感じる。
「桜都、カナダ行っても、コイツのことは視界に入れなくても良いから」
「なんだよー。俺、絶対孤立して寂しいから、すぐ連絡するね!」
「うん、私も初海外だから、岳君に頼っちゃうかも。英語困ったら、助けて欲しい」
「桜都、絶対だめ、コイツとつるんだら、友だち出来ないかもよ。この男の連絡は全無視でオッケーだから」
「なんだよ、そんなに心配ならお前が一緒に来いよ」
「嫌だよ、そんなのストーカー彼氏だろ。陰ながら応援するよ」
と言っていた悠斗だったが、出発の前日に言いにくそうに俺に頼んできた。「桜都が困っていたら助けてあげて欲しい」と。全く素直じゃない男だ。
桜都ちゃんと連絡取り合っても良いと許可を取った俺は、迷惑にならない程度、二、三日に一回はメッセージのやり取りをした。ま、俺も他に友人が出来たし、セクシーな海外の子からの誘いもあったから、頻繁に会っていたわけではないのだが。
留学期間は、俺は一年と決めた。桜都ちゃんは、もとより半年と言っていたから残り四か月。きっと悠斗がいるからだろう。相性の良い二人が羨ましい。そんな相手どうしたら、巡り合えるのだろう。ま、きっと悠斗だから仕方がない。あいつは本当に良く出来た人間なのだから。
アメリカから日本の小学校に転校した時、同じクラスにいた悠斗。家もたまたま近所だったこともあり、良く話しかけてくれた。海外でほぼ育った俺は、両親ともに日本人だったから日本語は話せるが、完璧ではなかった。そのうえ、自己主張ばかり激しい俺は、クラスでもかなり浮いていたと思う。それでも、周りから孤立しなかったのは、悠斗がいたからだ。休み時間にサッカーに誘ってくれたり、クラスの授業はおとなしく聞くんだよ、ガムは持ってきちゃダメ、とか優しく教えてくれた。その恩があるから、返さなきゃなといつも思っていた。
俺自身こっちにきて二か月が経ち、生活にも慣れてきた。だが週末は、パーティの誘いが多く高カロリーな食事をとることが多かった為、あっという間に三キロ太っていた。これでは、駄目だ。モテない。学生ビザで可能な範囲の仕事を見つけた。週末限定で、観光協会のアルバイトをすることになった。場所はガスタウンにある。好きな街で働けるなんて本当にラッキーだ。面接に行くと、ありがたいことにすぐ受かった。英語も日本語も話せるなら丁度いい、日本の観光客も最近多いから助かるとのこと。
仕事内容は、道案内だったり、不慣れな旅行客のレストランの手配だったり、難しいことはない。色んな人と話すことが出来、チップも結構貰える、やりがいのある仕事だった。
そして、困っている人を手助けできることは、なんて気持ちが良いのだろう。笑顔で「Thank you」と言われることが胸にこんなに響いたのは、初めてかもしれない。
同僚たちともすぐに仲良くなり、仕事終わりには、近くの安くてうまいピザ屋で飲んだりした為、あまり体重は変わらなかったが。
単位がそのまま日本の大学でも認められる為、授業は真剣に受けたし、課題も必死にやった。アルバイトとの両立で忙しい日々はあっという間に過ぎ、先に桜都ちゃんが帰国する日となった。
「悠斗が泣いて喜ぶと思うよ」
「ううん、岳君が帰国したら、もっと泣いて喜ぶと思う」
「ま、そうだね。あいつ俺のこと好きだからね」
悠斗が聞いたら、殴ってきそうだ。観光協会おすすめのお土産の袋を彼女に手渡し、保安検査場に向かう桜都ちゃんに数名の友人と一緒に手を振った。
他の友人とは、違う意味で手を振っている。友人たちは、「気を付けてね」とか、「ありがとう。また会おう」という意味で手を振っているはずだが、俺は違う。重みが違う。
2
新千歳空港の到着ロビーでは、多くの人たちがガラス越しに自分の待ち人を探している。僕もその一人だ。「半年は、すぐだよ」と旅立った彼女を、僕は首を長くして待っていた。ただただ、無事に帰ってこられますようにと。ほぼ、毎日テレビ通話を交わし、彼女の成長を遠くから見届けられたのが嬉しい。最初こそ、不安な表情だった彼女も、だんだん自信に満ち溢れ、半年ですごく大人の女性になった気がした。
大きなスーツケースを引いてロビーから出てきた半年ぶりに会う彼女。ボブ位に切りそろえられた髪のせいか色気が増した気がした。けれど半年前と変わらぬ笑顔にほっと胸を撫でおろした。
「桜都、少し太った?」
「いやだ、言わないで。毎日、ホットチョコレートとドーナツばかり食べていたら、丸くなっちゃって。すぐダイエットしなくきゃ」
「大丈夫。丸い桜都も結構好き」
頬を膨らませる彼女も久しぶりだ。
こっちこっちと、駐車場の方に彼女を誘導する。
「あれ、快速エアポートで帰らないの?」
「うん、実はレンタカー借りてる」
「え、いつの間に免許取ったの?」
「桜都が帰ってきたら、いの一番に車で迎えに行きたくて。週末も一人で時間持て余していたし」
「わぁ。悠斗君、大人だね」
「ちょっと馬鹿にしてない?」
ふふっと笑う彼女を間近で見たのも久しぶりだ。
スーツケースをトランクに乗せ、運転席に乗り込む。助手席に乗った彼女のシートベルトを締めてあげると同時に半年ぶりのキスを交わす。
「今日実家帰らないで、うちで良いよね」
「うん、一泊させてください」
「もちろんですよ。お部屋もピカピカです」
「ありがとうございます」
「その前にご飯行く?」
「うん、お寿司が食べたくて。カナダにもあったんだけど、創作寿司ばかりで」
「どこへでも連れていきますよ」
お腹が満足した僕らは、いつもより綺麗に整えられた部屋に戻って来た。もう四月になろうという季節だが、まだ部屋は寒い。すぐに暖房のスイッチを入れた。
「時差で疲れてる?」
「ちょうど今、体内時計が夜中の二時くらいだから・・・」
僕に抱き着いてきた彼女。それは、二人にしかわからない合図だ。
少し重くなった彼女を軽く抱きかかえて、ベッドへ移動する。
「本当は、不安だった。帰ってこないんじゃないかって」
「どうして?」
「だって、かっこいい外国の人沢山いたでしょ?」
「確かにモデルの様な人は沢山見かけた」
「ほら、やっぱり」
「でも、顔に黄な粉つけているような人はいなかったな」
「なんだよ、それ」
ふふっと笑う彼女の鼻をつまむ。
「可愛いと思える人には出会えなかったなって話よ。たぶん好きな男の人にしか可愛いなんて言葉思い浮かばない。悠斗君も他に可愛い子と出会わなかったの?」
「可愛い子?今、目の前にいる子だけだけど」
彼女の腕を掴み頬に寄せると、脈が速く波打っていた。
半年前より多い愛の言葉を交わしながら、夜は更けていった。
僕たちの関係は変わらず、付き合って四年の時が過ぎた。それぞれ社会人になり、三年目になっていた。僕は、ホテルの営業職をしていたが、夢の実現の為に退職した。
桜都は、印刷会社で校閲の仕事をし、自分の絵本が出版できる日に向けて下積みをしていた。
社会人になってから、怒涛の日々が過ぎ去り、あまり会えない日も多かった。
僕の彼女に対する気持ちも少しずつ変化していった。恋から愛しいへ。「他の人に目移りしないの?」と周りは言う。正直、外見が素敵な人には何人も出会った。でも中身が伴わないのだ。自分で言うのもなんだけれど、人を見る目は確かだと思う。
雪が深々と降り積もる金曜の夜、勝手口の玄関を開け、きしむ階段を彼女が上がってくる。今日は、スローテンポだ。きっと疲れているのだろう。仕事終わりにわざわざ来てくれているのだから。
「お疲れ」
とお互いに言葉を交わす。
「やっと週末。嬉しい」
「今日、駅まで迎えに行けなくてごめんね。最後のお客さん長引いちゃって」
「全然大丈夫。タクシーすぐ拾えたから。商売繁盛してる?」
「まあまあかな。ま、これからだよ。融資の申請も本腰入れてやっているし、とにかくてんやわんやだよ」
じいちゃんから譲りうけた店は、少しずつ改装して、ガラス細工などのワークショップは既に始められた。あとは、宿泊できる施設を整えなくては。内装や、人材の手配などやらなくてはいけない事が山ほどある。前職のホテル業の経験や人脈は、かなり重宝しそうだと思っている。でも、なんせ金銭面は、厳しい。人件費は、身内に手伝ってもらって何とかつないでいる。週末には、彼女に来て貰えているおかげでワークショップの口コミは良いし、海外のお客様と意思疎通出来る彼女には本当に頭が上がらない。
ただ、ここ数か月、彼女に週に七日勤務させているのと変わらない。優しい彼女にすっかり甘えてしまっている。
日曜の朝、朝食を食べながら、彼女に申し訳ないと伝えた。
「いいの。お手伝いが出来たらそれで嬉しい。ペンション開業するの、もう私の夢の一部でもあるんだから」
「でも、桜都の体が心配なんだよ。来週は、札幌でゆっくりして大丈夫だよ」
「でも、私に会いたくないの?」
「そうじゃなくて、本当に。心配なんだ。自分の時間も作らなくちゃ」
「本当は、迷惑なの?毎週末泊りに来られるのも、仕事手伝われるのも」
見る見るうちに桜都の目から涙が溢れ、テーブルに零れ落ちていく。
「桜都、どうしたの?もしかして、仕事の悩み事?」
「ごめん、そうかも」と、必死で涙を抑え笑顔を作りながら続ける彼女。
「今日はもう帰ろうかな。あと、この間も言ったけれど、病院には行った?咳長引いてるよね?」
「うん、さっき咳止め飲んだから大丈夫」
「でも、これからもっと忙しくなるし、今のうちに健康診断とか行っといた方がいいかも。よければ私、予約するよ」
「うーん、でも結構体力には自信あるし、今の所大丈夫かな」
「でもね、この間言ったでしょう。私の職場で突然倒れた人がいるの・・・その人、余命宣告されたって。だから・・・」
「わかった、わかった。じゃ融資下りたら行くよ」
僕は、面倒臭そうに返事をした。
「それじゃ、遅いの!そんなの一か月以上先でしょ!」
「わかった。時間見つけて行くよ」
「絶対ね」
と言って、後ろを振り向き荷物をまとめる彼女。たぶんまだ泣いているんじゃないかなと思ったけれど、最近の僕にも精神的余裕がなく、何も出来なかった。目も合わさず「またね」とだけ言い残し、静かに出ていく彼女。
いつもなら、駅まで送ったり、帰り際はハグしたりするのに、彼女の不安定な感情が、煩わしく感じてしまった。
桜都が、悩んでいることがあるのは知っている。新人の教育や絵本の出版がうまくいかない事。「物事がすべて順調にいくわけじゃないよ」と諭してはいたけれど、こっちはこっちで、やることが山ほどあり、他に頭が回らない。
でも、彼女が札幌に今頃着いているであろう時刻になって、やはりあの時送って行けばよかったと後悔した。「無事に着いた?」の連絡も入れたが、その日返事が来ることはなかったし、翌日「昨日は、真剣に話聞かなくてごめん」とメッセージを入れたが、それにも返事が来ることはなかった。
お店の運営をしながら、融資の事業計画などの書類の作成などの事務作業もこなし、休む時間もないまま、気づけば夜。そんな毎日だった。
冷静になった時、やはり自分の態度に後悔と罪悪感が襲った。桜都の様子がおかしかったし、彼女の職場で余命宣告された人がいて、それをきっかけに僕の体調をとても心配してくれていたのに、無下にしてしまった。時間を見つけては、桜都に連絡を入れたが、電話には出てくれず、挨拶程度のメッセージを返してくれるだけで、向こうから連絡が来ることもないし、会いに来てもくれなくなった。いつも穏やかな彼女から、そんな態度を取られるのは当然だと気づいてはいたけれど、融資が無事に下りるまでは、忙しくて札幌に行くことが難しかった。
やっと融資が下り、ペンション開業に向けての改装工事が出来ることになった。支援者にも報告が出来る。と胸を撫でおろした時には、前回彼女と会ってから一か月が過ぎていた。
すぐに車を走らせ、札幌の彼女のマンションへ向かった。冬道は、滑りやすいため、のろのろ運転の車が多い。彼女に早く会いたいのに、とやきもきしながらも、自分の態度を見つめ直す十分な時間が出来た。
考えてみたら、僕の前で涙を見せることは、ほとんどなかったと思う。それなのに、抱きしめることも優しい言葉をかけることもしなかった。この寒い中、仕事終わりに毎週末通ってくれていたのに。愛想つかされても当然だ。そして、桜都の心配してくれていた僕の咳は、どんどん悪化していた。きっと、忙しくてほとんど寝ていなかったからだ。これからは、少し休めるよ、と彼女に報告しよう。休みの日もデートに行けるよ、と伝えよう。ごめんね、寂しい思いをさせて、と。
マンションに着いたのは、ちょうど彼女が仕事から帰っている時刻。部屋の明かりもついている。エレベーターのボタンを連打し、彼女の部屋に急ぐ。インターホンを鳴らすが、返事はない。電話をかけてみるが、出てはくれなかった。
「桜都、この間はごめん。少しだけ話せるかな?」
ドア越しに話かけてみるが、それでも返事はない。
冷たい風が喉に入ってきて、咽ていると、部屋の中から、ガタゴトと音がし、ガチャっとドアが開いた。
久しぶりに見る桜都の顔。思わず強く抱きしめた。が、彼女が抱きしめ返してくれることはなく、淡々と部屋に招き入れてくれた。
いつも綺麗に整えられていた彼女の部屋は、物が乱雑に転がり散らかっている。
覇気のない声で視線を床に向けたまま、彼女は質問してきた。
「悠斗君、病院ちゃんと行った?」
「これから、行くよ。ごめん、桜都。ごめんね。寂しい思いさせて」
「寂しくなんてなかったよ。私もすごく忙しかったし」
「うん、そうだよね。最近、新人の子はどう?」
「どうって・・・変わらず生意気な口調で私を見下してくるけど・・・」
部屋は静まり返り、今までにないくらい低いトーンで話す彼女に怖さを感じた。全く別人の様だ。顔も青白く、痩せたように見える。
「ねぇ、桜都。ちゃんとご飯食べてる?悩みがあるなら、僕が寄り添いたい」
ふーと小さな深呼吸をし、返ってきた言葉は、逆に僕を心配してくれる言葉だった。
「私のことより、自分のことを心配しなくちゃ・・・お願いだからわかって」
彼女を安心させたくて、いや僕自身が安心したくて、彼女を抱き寄せた。
「ごめん、ごめん。病院も行くし、もうあんな冷たい態度は取らないから。僕も精神的に余裕が全くなかったんだ。前みたいな二人に戻りたい。一緒にいたいよ」
桜都は「苦しいよ」と言って強く抱きしめ過ぎていた僕をそっと押し返した。
「ごめん・・・悠斗君。私も余裕がないの・・・考えなくちゃいけない事が沢山で。一人になりたいの。だから、・・わ・・私と・・・わか・・・」
そのあとに続く言葉を僕は絶対に聞きたくない。手で桜都の口元を抑えた。「お願い。この先は言わないで」と強引に。わんわんと子供のように泣く彼女の背中を撫でていた僕も胸が張り裂けそうだ。
僕たちは、いつからこんなに脆くなったのだろう。
ついこの間まで、仲良かった僕たちはどこへ行った?
週末は、僕の工房兼寝室で何度も抱き合ったじゃないか。
作業中、何度も「ねぇ、構って」といたずらな笑顔を見せて後ろから抱き着いてくる彼女には、もう会えないのだろうか。
今となっては後悔ばかり押し寄せる。
どうして、僕は耳を傾けなかったのだろう。彼女が抱えていた悲鳴や苦しみに。
彼女が「苦しいよ」と言っていた本当の意味を知るのは、あまりにも遅かった。
気づいた時には、もう彼女はこの世にはいなかったのだから。
第四章 別れは
1
いったい何時間窓の外を眺めているのだろう。今朝の天気は何だった?あんなにずっと窓の外を眺めていたっていうのに、記憶にない。雲がずいぶん早く流れていくなぁと思ったのは、今朝なのか昨日だったのかもわからない。
家の近くの内科で、「紹介状を出すから、すぐに大学病院に行きなさい」と言われたのは、確か、今から二週間ほど前。「直ぐに行かないなら、二度と会わない」と彼女に言われた僕は、紹介状をもらった次の朝、大学病院に行った。
「ご家族の方は、ご一緒ですか?」
「いいえ。僕一人で大丈夫です。どこか悪いのですか?」
「はい。重い心臓病の可能性があります。今から、入院して詳しい検査をしていきましょう」
「え、ちょっと待ってください。仕事が立て込んでいて。今からは、ちょっと」
「じゃ、いつからなら、いいのですか?」
「一週間後、くらいなら」
「それなら、死んでいるかもしれませんね。それで良ければどうぞ」
先生の冷たい言葉に、言葉が出てこない。そしてさっき心臓病と言われた?
「そんな冷たい言い方は、よくありませんよね。申し訳ない。でも、あなたには大切な家族や恋人、友人はいませんか?その方がもし、入院が必要な状況になったら、仕事をさせるのですか?」
「いいえ、させません」
「そうですよね。命が一番だからですよね」
「はい」
「ま、僕自身も、働きすぎ、休めって家族から言われているのですけどね」
たぶん、先生は、僕のことをしっかり考えて言ってくれているのであろうが、なんせ動揺しすぎて母親に入院に必要な物を頼んだ以外ほとんど記憶にない。気が付いたら、病院で検査や投薬治療が始まっていた。
病名は、「特発性拡張型心筋症」と言われた。心臓が大きくなり、血液を全身に送らせる機能が低下した状態。大きくなった心臓が肺などの臓器を圧迫している為、咳が止まらなかったり、息切れがしたりしていたのだ。ネットで調べた。重症の場合は予後不良。心臓移植しかないと。待機期間は、年々長くなり五年から七年かかるとも言われている。
僕の場合、かなり重かったらしく、病院はすぐに移植希望登録の手続きを進めてくれた。これも、審査に時間を要し、二か月程かかった。
「今日は天気がいいね」
「うん」
「今年の夏は暑くなるみたい」
「そうなんだ」
「何か欲しいものある?売店閉まる前に行ってくるよ」
「いらない」
ほぼ毎日病室に来てくれる彼女にそっけない返事ばかりしている。最低だ。なぜ、もっと優しくしてあげられない。僕はそんな人間だったのか。うん、きっとそうだ。
余命いくばくもない男といる時間なんて無駄だ。
いっそ愛想つかされるほど嫌な男になれば、もう会いに来ないだろう。
どうせ僕は死ぬのだから。
早く彼女を開放しないと。
僕が死んだあと、悲しい思いをさせたくない。
最低な男だ、いう記憶に上書きさせておこう。
何もない天井を見上げながら、どうしたら良いのか毎日毎日考えていた。
「今日は、もう帰るね。また明日来るね。約束ね」
と、病室を出る前にいつも僕の手を握ってくれる。僕はそれを握り返す事もせず、そっぽ向いていた。彼女はどんな顔で帰っているのだろう。きっと泣いているだろう。会社での悩み事はどうなった?でも、僕には何もしてあげられない。ごめんね、ごめんね、桜都。最低だ。彼氏失格だ、いや人間でいる価値もない。
「忘れ物しちゃった」
とその日の桜都は、いったん病室から出た後すぐ戻って来た。そしてまた手を強く握ってきた彼女。僕の手を自分の頬に持ってこう続けた。
「パワー注入するの忘れていたの。今日、悠斗君の好きな黄な粉ドーナツ食べたから、お裾分け。食欲ないのわかってるから、元気になるパワー送るね。本当は全部上げたい。心臓だってあげたって構わない。だって、あなたはいつも私に自信をくれた。不安を取り除いてくれた。悠斗君がいなくちゃ、ここ数年生きてこられなかったよ。お願い。だから、もう冷たいフリなんてしないで。私に嫌われようと、わざとそんな態度とっているの、わかってるんだよ」
久々に彼女の顔を正面から見た僕は、今までの悪態に反吐がでる程、後悔した。きれいだった彼女の顔は、吹き出物が多く、目は腫れ、さらに痩せていた。
「やっとこっち見てくれた」
と両手で顔を覆い、泣く彼女。僕の手には、大量の涙と震えが伝わり、ここ最近の苦しみ悶えていた彼女の姿が目に浮かんだ。
いったい何年彼女と過ごしてきたのだろう。見破られて当然だ。ここ最近、良心の呵責で苦しかった。でも笑顔で優しくという気にもならなかった。鬱状態になっていたのかも知れない。薬の副作用もある。だが、どれも言い訳だ。
「桜都、ちゃんとご飯食べてる?」
「食べられる訳ないじゃない。あなたが、食べられなくてどんどん痩せていってるのに・・・。少しでもわかってあげられるかと思ったの。悠斗君の気持ち」
そうだった、彼女はこういう子だった。他人の痛みが、悲しみが自分の事のように感じられる心優しい子。
今、やるべきことは一つだ。
「桜都、ごめんね。次の約束をしよう。ドナーが見つかるまで、補助人工心臓を付けることになったんだ。そうなったら、家に帰られるし、仕事もデートもできる」
僕は、管だらけの腕を伸ばし、彼女の頭を何度も何度も撫でた。
「次の約束、なんでも良いの?」
「うん、なんでも言って」
「本当に?」
「本当」
「絶対にうん、って言ってくれる?」
「もちろん」
「私と結婚してくれる?」
僕は苦しくてしょうがなかった。ただただ、彼女が愛しくて胸が苦しかった。
2
体内に心臓の動きをアシストするポンプが埋められ呼吸も楽になった。ただ、そのポンプを動かすバッテリーを二十四時間、常に持ち歩かなくてはならない。それが、管を通して僕の体内とつながっているのだから、煩わしくて仕方がなかったが、今では相棒の様に感じている。
仕事の方は少しずつ再開することが出来た。融資の返済も延期してもらっていたが、再延長しなくても良さそうだ。
僕のそばには、常時彼女か母親が居てくれていた。桜都は、長年勤めた印刷会社を辞めてまで、僕に尽力してくれている。補助人工心臓を付けている患者には、二十四時間家族が付き添わなければならない。本当に感謝してもしきれない。健康でいることがどれだけありがたかったのか、家族がいてくれるのがどれだけ心強いか。
彼女と僕は、仕事場の近くに小さなアパートを借りて一緒に住み始めた。そう、約束通り籍を入れたのだ。新婚旅行や挙式は、心臓移植が終わったら、と話している。
「せめて、写真だけでも撮ろうよ」
「うーん、今は駄目。ウエストマイナス五センチと美肌目指しているから。それより、新婚旅行先決めとこうよ。心臓移植できたら、そのバッテリーのバッグ持ち歩かなくて良くなるし、海外も行けるよ。わくわくしちゃうね」
旅行雑誌をペラペラめくる彼女の表情はとても明るかった。僕はこの笑顔を守れるだろうか。最悪の場合の約束も必要なのだ。彼女の後ろから手をまわし、出来るだけゆっくり話す。
「真剣な話をするよ」
「そういうの嫌」
「僕が、もしもいなくなったら、全部上げるからね」
「財産の話?悠斗君、借金ばかりじゃない」
「確かに。それは心底謝るよ。だけど、財産の話じゃなくて、僕の桜都に対する愛情の話。桜都に渡しきれてないんだ。百パーセント中まだ三パーセントくらいしか渡せてない。色々隠しておくから見つけて」
「重すぎるよ。私、悠斗君がいなくなったら、カナダに行って、トムとかボブとかと結婚するから、大丈夫」
「なんだよ、それ。普通、『私はあなた以外考えられない、あなたがいないなら一人でいた方がマシ』とかじゃないのかな?」
ふふっと笑う彼女は「ドラマの見過ぎよ」と一蹴してきた。
「とにかく、ボブとかマイケルは駄目だから」
「じゃあ、タロウとかジロウにする」
さっきから、ずっと旅行雑誌に目を向けている彼女の顎を掴み、こっちを向かせる。彼女の悪い口は、僕の口で封じといた。
結婚した以上責任はしっかり果たしたい。最後の最後まで幸せにすると誓った。桜都の両親にはもともと反対されていた。どうして、心臓移植後ではないのか、と。両親に必死に懇願する彼女の姿は、絶対に忘れない。ちゃんと考えている。借金だって死亡保証金で全額返せるようにしてあるし、彼女がしばらく何も手につかなくても暮らせる位は残せると思う。
入院していたせいで延期していた建物の補強や客室工事が本格的にはじまった。
円安の影響、木材の供給不足が重なり、当初の予定より、お金が湯水のように消えていく。DIY出来そうなテーブルや棚などは、廃材やリサイクルショップで買ったものをリメイクした。
「悠斗君、内装頼んであった工務店から新しい見積書届いてるよ」
「おっと、それ僕もらうね」
と半ば強引に奪い取る。やばい、怪しまれた。
「見せて」
と強引に奪い返す彼女。
「えー!クローゼット拡張工事追加って何?客室四個分でプラス十二万になってるよ」
「あーこれね。本当は、十五万の所、値引いてくれたみたい。本当助かるよ」
「クローゼット大きくするだけ?」
「うん、やっぱり連泊とか想定してさ。お客さんだって部屋の中綺麗に整えたいじゃん」
「それは、わかるけど・・・」
見積書は、「僕に手渡しで」って工務店にお願いしていたんだけどな。こういう時のためにプランBを用意しておいて良かった。
「桜都、今日夜、天狗山行こう。お弁当持って、夜景と星空観察どうかな?」
「もう・・・誤魔化すのうまいんだから。じゃ、お弁当今から仕込みしていい?」
「もちろん」
彼女の口元が綻んだのを僕は、見逃さなかった。作戦成功だ。
運転席から降りた彼女は、お弁当を大事そうに抱え、展望台の方へ駆け出したが、すぐに戻って来た。
「ねぇ、すっごく綺麗だよ」
ここは、海と街を一望できる展望台。
「今日は、僕に持たせて。それくらいなら持てるから」
と左手に弁当、右手に椅子二人分持とうとしていた頼もしい彼女に声を掛けた。
「桜都は、お弁当とひざ掛け係ね」
「了解しました。隊長」
と茶目っ気たっぷりに言う彼女は、僕があまり気を遣われるのが嫌なのは、良く理解してくれている。
柵のない展望台は、少し足を踏み外すと転げ落ちそうだ。少し離れた所に椅子を並べる。
夏の終わりの日の入りはちょうど夕飯時が終わった頃。お腹が満たされた後、完全に日が落ち、辺りは真っ暗になった。
海に浮かぶ漁船は、夜イカ漁の船だろうか。
普段いる街は、夜になるとこんなに綺麗なのか。
僕の肩に頭をちょこんと乗せている彼女が、鞄からタブレットを取り出し、何か書き始めた。昼間はまだ暑い日も多いが、夜になると冷える。ひざ掛けがずれ落ちそうだが、夢中で書き物をしている彼女は気づいていない。足元も冷えないように掛け直してあげた。
僕は、彼女がペンを置いたタイミングで聞いてみた。
「どんな話?」
彼女は、はにかみながら、教えてくれた。
『星空へ向かって手のひらを差し出すと、光が一つ舞い降りて来ました。
よーく見ると、小さくて可愛い星。
私は、その小さくて可愛い星をお家に持ち帰り、コレクションボックスに大切にしまいました。
ある日胸が痛いよ、という男の子が私のお家に来ました。
私は大切にしまってあった星をコレクションボックスから取り出し、男の子に手渡しました。
小さくて可愛い星は、男の子の胸の中に入っていき、温かい眠りに誘ってくれるのです。
朝、目が覚めると男の子の痛みはすっかり消えていました』
僕は、桜都を胸の中に引き寄せる。
「やっぱりボブとかジロウと結婚してもいいからね。桜都には幸せになって欲しい。桜都には沢山貰った。もうこれ以上いらないよ」
「したくない。ボブもジロウもタロウもいらない。悠斗君だけがいればいいの」
「この間と話し違うじゃん」
「悠斗君もね」
「桜都・・・僕がいなくなった時の約束をしよう」
「・・・そんなのしたくない・・・」
彼女の涙が僕のシャツ越しにも伝わって来た。僕の涙も頬を伝って、彼女の頭に落ちていく。
「僕がいなくなっても、毎日ごはんだけは食べて。それだけで、生きる活力が湧いてくるはずだから」
「うん・・・わかった・・・。それじゃ私とも約束して。絶対に生きるって。それだけだよ」
「うん、わかった」
ドナーが見つかる保証もない。いつ合併症で死ぬかもわからない。だけれど、自分が死ぬ怖さより、桜都だけを残していく方が怖かった。
「桜都の絵本は、ペンションの売り上げで出版しようと思ってるんだ。お土産コーナーにも置けるよ」
「本当に?嬉しい」
まだ、真っ赤な目で僕を見上げてきた。
「だから、準備整えといてね」
「うん。文章はすぐ出来ると思うんだけど。いつも悩んでいたのが挿絵で。自分で書いて見ようと思って何度か挑戦してみたんだけど、やっぱり駄目で。挿絵は、プロにお願いしようと思ってるの。カナダでルームメイトだったサキちゃんって子、覚えてる?」
「うん、綺麗好きで、性格が合うって言っていた子だよね」
「そう、その子、絵がものすごく上手なの。今ね、個人でデザインの仕事してるんだって。特に動物の絵とか風景とかが好きで、北海道は最高の素材がいっぱいって絶賛してた」
そう言って二人で、「それだ」と目を合わせた。
ロビーの殺風景な壁をどうしようかとこの間話していた所だったのだ。
「サキちゃんに大きな絵、書いてもらうのどうだろう?こんな絵を描く子なんだけど」
と、SNSにアップされているイラストを数枚見せてくれた。
描かれているのはリスや鳥などの小動物が多く、どれも、柔らかなタッチで描かれている。色使いも淡く、見る人を癒してくれるようなそんな絵だった。
僕らの意見は完全に一致した。
工事が始まって半年後、やっとオープン日を迎えることが出来、冬の観光シーズンに間にあった。
外に出て、文字看板「ハルノトキ」を眺める。真鍮で出来たそれは、金色だけれど輝きすぎることなく、主役のお客様を引き立ててくれそうだ。
やっとここまできた、だけどこれからだ、と自分を鼓舞する。店の名前は、僕の苗字「春野」とじいちゃんの店「春野時計店」を掛け合わせてつけた。
桜都の友人、サキちゃんが書いてくれたシマエナガの大きな絵は、緑がかったグレー色の壁が目を引くロビーに飾った。ペンション入口から入ったら、まずここに視線が行く場所だ。白くてふわふわの毛を持つ小鳥たちが横一列に並び、互いを温めあっている優しいタッチの絵。
僕は、その絵の前で、関係者の方たちへ感謝の挨拶をした。
「今日、この日を無事に迎えられたのは他でもありません。皆さんのお陰です。一番に泊りに来てくれる好奇心旺盛のお客様、差し入れを持って応援してくれる地域の方、わがままを聞いて形にしてくださった職人の方、そして、僕の体を一番に気にかけてくれる大切な家族。僕は、この体になって身に染みています。体が自由に動くこと、やりたいことがやれること、大切なひとときを愛する人と過ごせること。だから、このペンションを開業する意味があります。皆さんの人生の大切なひとときをここで過ごして欲しい。今日は、存分にご家族、友人の方とのひとときを味わって下さい」
盛大な拍手をもらい、桜都と僕は深々と皆にお辞儀をした。ほっとしたのも束の間、来て下さった方へのお礼回り、軽食の振舞い、宿泊者の方の対応やスタッフへの仕事の指示、清掃などあっという間に時間が過ぎ、気が付いたら日付が変わっていた。
目まぐるしい日々が一週間過ぎていった。夜は、夜勤スタッフに任せていたし、部屋数も四部屋しか稼働させていなかったが、体への負担が大きかった様だ。気が付いたら、病院のベットで点滴されていた。
「起きて起きて」すすり泣く彼女の声が耳に届き、目が覚めた。
「仕事行かなきゃ」
「大丈夫。今日は休館日だよ」
「そっか」
「もう無理しないで。お願いだから」
「うん。ごめんね。桜都。大好きだよ」
「私も大好きだよ」
僕たちは、いつ来るかわからない別れの日が怖くて自然と互いが素直になれていた。
幸運なことに、ほどなくして体調は良くなった。ただ、念のためということで二週間ほど入院したが、その後もすぐ仕事に戻れた。
そして、幸運は立て続けに起こる。しかも予想外の早い知らせだ。
『直ぐに病院に戻って来てください。ドナーが現れました』
荷物は、この日のためにまとめていた。車より電車が早い。電話をもらってから一時間もかからず、病院に着いた。
母親は、「頑張るのよ」の一言だけ言って隅の方に行った。きっと僕たちに気を利かせてくれたのだろう。
「悠斗君、頑張ってね。一番大好きだからね。私の宝物」
「こっちのセリフだよ。そうだ、手術長引くと思うから、この手紙読んで待っていてくれる?」
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます」
涙を浮かべ見つめてくる桜都のおでこに長めのキスをして、手を振った。
不安な気持ちを抑えて手術台に上り、これからはやりたいことがやれるんだぞ、と思ったのが手術前の最後の記憶。
「春野さん、わかりますか。無事に終わりましたよ」
あぁ、やっと終わったのか。生きてる。生きてるんだ。長かった本当に。
なんだか、長い夢を見ていたような気がする。
一般病棟に移ってから混濁していた意識がはっきりしだした。初めて見た病室からの景
色は、オレンジ色の綺麗な夕焼けだった。
桜都、終わったよ、早く会いたい。写真も撮りに行こう。ウェディングドレスはどんな
のが似合うかな。旅行先はイタリアがいいって言っていたね。絵具を流したような青い海
を見ながら地中海料理食べようよ。
「母さん、桜都は?」
「話せるのね。良かった」
「うん、心配かけたね。あぁ、何だか変な夢見てた・・・手術室入ったのに、移植中止になる夢・・・」
泣き崩れる親の姿を見て、自分がどれだけ親不孝ものだったのかと思った。
そして、僕に心臓を提供してくれた方、本当にありがとう。そのご家族の方本当にありがとう。どんな言葉を並べても足りない。きっと素晴らしい方に違いない。僕の人生を全うすることで恩返しができると、そう思っていた。だけど、僕の頭の中は、お花畑だったのかも知れない。
何日経っても、桜都が病室に来ないのはなぜだろう。
なぜか皆よそよそしい。
この胸騒ぎはなんだ。
「マスコミ収まらないね。もう何日も経っているのに」
という話し声が聞こえた。何があったのか。嫌な予感がする。
まだ、ぎこちない体でタブレットを開き、ニュースを見た。地域のトップニュースはそればかりだった。
『病院待合室内にて、精神病患者あばれ、女性一人重症』
その下にも、衝撃的な見出しがある。
『病院内事件、頭負傷し脳死判定。夫に心臓移植』
もうそこから、記憶は一切ない。
第五章 壊れていたのは
1
葬儀は、桜都の両親が執り行ってくれた。本来なら、夫である僕が喪主を務めなくてはいけない立場だが、入院中で且つ、精神崩壊している人間には任せられないのは当然だ。
遺骨を抱え病室に入って来た彼女の両親の悲観に暮れている顔は忘れられない。僕は、必死で土下座したが、一生許してはくれないだろう。「お前に心臓を渡すために娘の結婚を許したわけじゃない」という憤りの感情はひしひしと伝わった。
手術から、二週間後退院できた。
アパートのドアを開けたら、桜都が「おかえり」と声を掛けてくれるのでは、と思ったが、シーンと静まり返った部屋からは、何も聞こえない。
母親が泊まり込みでなんやかんやと世話を焼き、僕は何もせず座っているか、ベッドに横になっているだけだ。単身赴任でいつも家にいない父親も長期で休暇を取り、母親と交代で僕を一人にさせないようにしていた。おそらく、変な気を起させない為だろう。でも、死ぬ事なんて出来ないのだ。自分を殺すというのは、桜都を殺めるのと同じこと。
苦しい。
胸が痛い。
彼女の命を犠牲にしてまで、僕は生きながらえたのか。
こんな糞みたいな人間消えたほうが良い。
桜都の方が世の中に必要な命ではないか。
妻の大事な心臓をもらってまで生きようとするなんて、鬼畜の所業以外のなんでもない。
僕が死ねばよかったんだ。
あんなに愛情いっぱいに僕に接してくれた彼女がここにいないなんて変だ。美味しいご飯をお腹いっぱいになるまで美味しそうに食べる彼女。綺麗な景色に言葉が見つからないほどうっとりしている彼女。僕が無理して仕事している時に「もうっ!」と怒って来た時の全く怖くない顔。小さなランプの光だけの寝室で、僕だけに見せる可憐な姿。
何もかも無いなんて。おかしい。間違っている。きっと間違いだ。悪い夢だ。目が覚めたら、「すごく後味の悪い夢を見たんだよ」とすぐに彼女に報告しなくちゃ。
日に日に、ベッドに行って眠るのが怖くなった。目が覚めると、まず、何が夢か現実か確認するのが日課になり、彼女の位牌を見て、やっぱりこっちが現実だったのかと思い知らされるから。
事件の真実は、こうだった。僕が手術室に移動した後にすぐ起きた。隔離病棟から逃げ出した男が、なにやら意味不明な言葉を捲し立てながら、ナイフを持って襲い掛かって来たそうだ。なぜかそこにいた岳が必死で桜都を守ってくれたが、腹を刺され、うずくまっている間に、彼女の頭を椅子で何度も殴ったそうだ。彼女は、すぐに手当てを受けたが、助からなかった。一方、岳は大事には至らなかったようだ。
断片的に覚えている。最初に、僕に心臓提供してくれようとした方のご家族がやはり辞めたい、と言い出し、手術は直前に中止されたこと。物凄い剣幕で「奥さんが!奥さんが!」と僕を呼びに来てくれた看護師さん。変わり果てた桜都の姿。泣き叫ぶ彼女の両親。必死に謝ってくる岳。
そして、二回目の脳死判定が終わったあと、僕の意思確認が行われた。僕は首を横に振ったはずだ。貰えるはずがない。桜都の心臓だぞ。無理だよ、と必死に拒否したのを覚えている。
だが、僕の両親が必死で説得してきた。これが彼女の意思だと。無駄にするな、と。しわくちゃになった臓器提供意思カードを見せられ、これが彼女の手に握られていたんだぞ、と。そこには彼女の字で『春野悠斗にのみ提供します』と書かれていた。
開業したばかりのペンションは、オーナー不在にも関わらず、スタッフだけで持ちこたえていた。仲山君は、僕がホテルで働いていた時の後輩なのだが、僕らの事情を汲んで頑張ってくれていた。だから、いつまでも任せきりには出来ないのだ。病院からは、もう社会復帰しても大丈夫だと言われている。それなのに、退院して一か月以上家に閉じこもっていた。これでは駄目だ。
久しぶりに職場に顔を出すと、温かく迎えてくれるスタッフたち。
「もう、繁盛しすぎて困っていますよ。問い合わせの電話がすごくて。キャンセル待ちのお客さんもほら、こんなに沢山」
と、仲山君が宿泊予定者リストを見せてくれた。三か月以上先まで満室。キャンセル待ちは、土日に平均三組はいるだろうか。
「ネットニュースになっていたの見てないんですか?口コミもいっぱい来ていますよ」
僕は、首を横に振る。
「秘密の宝探しが出来るペンションって話題になっていますよ。しかもホームページにはそんなこと一切書いてないから。さらに興味をそそるって」
僕は、スマホを開き、宿泊サイトからマイページにログインし、宿の口コミを開いた。
『子供が興奮して喜んでいました。あまりここに書くと楽しみがなくなりますね。また家族で行きます』
『こんにちは。開業日当日に泊った者です。こんな素敵な宿初めてです。朝食のミネストローネと黄な粉ドーナツ、不思議な組み合わせだなぁと最初は警戒しましたが、本当に絶品。面白い体験をありがとう』
『恋人と一緒にエゾリスの部屋に泊りました。客室内に入ると可愛いエゾリスのぬいぐるみがお出迎えしてくれ、お布団もふっかふか。夜もぐっすり眠れました。そして、奥さんに教えてもらった通り、恋人と一緒にクローゼットの中に扉を完全に閉めて入ってみました。きっとここでは詳しく書かない方がいいですよね。おかげでロマンティックな夜が過ごせました。あと一つ素敵なお土産も家に持ち帰りましたよ。見つけた方は、本当にラッキーですね』
僕は、それを見て一目散にエゾリスの部屋に向かった。
教えていなかったはずだ。桜都に。このクローゼットに仕掛けがあること。
急にクローゼットの仕様を変えたのは、桜都のためだ。僕が万が一、この世からいなくなった時に見つけてもらえるサプライズ。クローゼットを当初の予定より大きくしたのは、座れるベンチを付けたかったから。そのベンチに座りながら僕と交わした約束を思い出して欲しいから。
クローゼットの扉は、閉めると完全に光が入らないようにと職人さんに我儘を言った。
気付いてくれていたんだね。桜都は。これを見てくれていたんだね。
恋人と来てくれたさっきのお客さんは、何を持ち帰ったのだろう。僕は、持ち帰れるものは仕掛けていないはずだ。
クローゼットの中の小さな引き出しを開けてみて、点と点がつながった。
桜都の字で書いてある『どうぞ、見つけた方はお家にお持ち帰りください』のメモ。
その隣には、ガラス細工で出来た数個の星。繋がっている?持ち上げてみると、星がビーズやワイヤーでつながっていて窓から差し込む太陽の光を反射して輝いていた。
これは、きっと桜都が天狗山で言っていた話に出てきた星だとすぐにわかった。
僕は、しばらくこの客室から、出られなかった。胸に桜都の作った星を抱きながら、嗚咽と共に流れ出る涙をなかなか止めることが出来なかったから。
2
犯人は、すぐ捕まったようだ。名前ももう見たくないし聞きたくもない。精神鑑定とかされるようだが、どうでもいい。頭がおかしいのはわかっている。もう事件から数か月経っているのに、謝罪など一切来てない。来たとしても、謝罪は一切受け入れない。絶対許さない。もう僕たちに関わらないで欲しい。桜都も腹わたが煮えくり返っているはずだ。「誰でも良かった」と言う鬼畜に。
忙しい日々でも忘れることの出来ない桜都の存在。チェックインカウンターに彼女と同い年位の女性を見つけては辛くなる。小さな子供を連れている人。恋人と仲睦まじく笑いあっている人。あぁ、彼女が生きていたら、一緒に旅行したり、子育てしたり、無限に沢山の事が出来たはず。お客さんと接するのが辛くなり、仲山くんに宿を任せて、家に休みに行くことも多々あった。
最近では、まぼろしも見えるようになった。洗面所の鏡を覗くと、そこには桜都が涙を流しながらこっちを見ている。まるで心臓を返して、と言っているようだ。
やっぱり桜都は、怒っている。僕にも。こんなはずじゃなかっただろう。やりたい事いっぱいあっただろう。絵本だってまだ出版できてないし、子供だって欲しかったはずだ。僕なんかと出会わなければ、あいつに殺されることも、僕に心臓を取られることもなかっただろう。そういえば、天国に行っている桜都は、心臓がなくても大丈夫だろうか。生まれ変わるにもやはり心臓が必要なのでは?
僕は、とんでもない選択をしたんだ。やってはいけない選択を。戻りたい、戻りたい。手術を受ける前に。いや、違う僕と出会う前にだ。
目を開けると見たことのある殺風景な白い天井が見えた。
あ、やっぱり今までの事は、夢だったんだ。
「ひどい悪夢だったよ、桜都」
と話しかけた相手はこう答えた。
「今、先生呼んできますね」
ナース服を着た女性が、白衣を着た黒縁メガネの男を連れてきた。
「精神科医の森と申します。春野さん、ここがわかりますか?」
「わかりません」
「そうですか。春野さんは昨日、お家で暴れて少し怪我をされたようです。ガラスの破片が腕に刺さっていたので数針縫っていますが、心配ありませんよ。そこは、すぐに治りますので」
「そこは?他に何か悪いんですか」
「いやいや、ゆっくり休んでいって下さいね。しばらく休養が必要ですよ。お薬飲めばちゃんと治りますから」
「先生、僕の心臓ってまだバッテリーついてますよね?」
「いいえ、無事に移植完了と聞いていますよ」
「先生!」
とさっき横にいたナース服の女性が遮った。
「あぁ、失敬。配慮が足りなかったね」
「いえ、確認したかっただけです。僕は正常です。帰ります」
「駄目です。春野さん」
「離せよ!俺に触るな!」
「春野さん!点滴外しちゃ駄目です!」
「拘束の準備して!」
「はい!」
「やめろ!離せ!家に帰せ!」
その後、注射を打たれ、また意識を失う。
「悠斗!おい!」
「来てやったぞ」
懐かしい声で目が覚めた。最近老人ホームに入ったじいちゃんだ。特に介護が必要な体じゃないが、友人が欲しいとかで、早めに入居した様だ。
「何やっとるんだ。しっかりせい!情けない!」
耳が遠くなってきたせいか、声がでかい。
「なんだよ」
「お前、じいちゃんよりボケたのか」
「ボケてないよ。早く帰りたいのに、出してもらえないんだよ」
「お前は、本当にボケているようだな。大事なこと忘れとるだろ」
「大事な事?」
「ん。よーく思い出してみなさい」
思い出す?何を?
じいちゃんは何やら『あれだ、あれ』と壁の方を指さしている。
「え、何?時計?」
「忘れたのか?あんな大事な話」
「は?訳わかんないよ。もしかして、子供の時に言ってた時間を戻せるってやつじゃないだろうな」
「無論。その話だ」
「じいちゃんだろ。ボケてんの。ホームの人に迎えに来てもらうからな」
「おい、待て。その足りない頭でよく考えろ。本当にじいちゃんがボケているのだとしたら、二十年前にお前にした話なんてとっくの間に忘れているだろう?」
「ま、確かに・・・まさか本当に戻せるなんて誰も信じないよ」
「時間は、戻せる。抗おうという意思があれば」
「じいちゃん戻ったことあんのかよ」
「ある。偶然だけどな。信じないなら、別にかまわん。さて、もうお暇するかな」
「ごめん、ごめん。ちゃんと話聞くよ。本当に戻せるとしたら、桜都の事助けられるってこと?」
じいちゃんは、椅子を引き小声で話し始めた。
「わからない。桜都さんを助けられるのか。過去を変えようとするとどうなるのか。でも、
戻れるのは確かだ。もうお前にこれ以上失うものはないだろう。これ以上不幸なことはあるのか?」
「ない。桜都が戻ってこられるなら、何もいらない」
「それなら、まずやることがある。『一度しかやり直せない』というのは覚えているな」
「うん。『綿密に計画を立てるんだ』だろ」
じいちゃんは深く頷いた。
じいちゃんは自分の羽織っていたツイードのジャケットとハンチング帽を僕に貸してくれた。
「非常口の鍵、開けといた」
と、にんまりしている。病院を抜け出した僕たちは、ハイタッチを交わす。子供の時「母さんには秘密だぞ」と言いながら、夕飯前にお菓子を一緒に食べた時のじいちゃんを思い出した。
3
じいちゃんを老人ホームに見送った後、家に帰って来た僕は、ノートとペンを机に置いた。
まず、時期を考えるんだ。今度やり直すなら、僕と彼女は一切かかわらない方が良い。僕と出会わなければ、そもそも病院の待合室に来ることがない。そして、あんな惨い殺され方はしないのだから。だから、僕らが出会う前に戻るんだ。彼女に出会ったのは、確か大学2年生の冬休み中。居酒屋でアルバイトしている時だった。正月明けだったと思う。だから、それより少し前に戻ろう。
戻る時期は二〇一八年一二月。クリスマス頃にしよう。
そして、居酒屋でのバイトは、絶対にしない。
けれど、僕たちは、同じ大学だ。学部は違っても、出会う可能性は、ゼロではない。その時はどうする?友達ならいいのか?いや、やはりそれは無理だ。僕の人生に巻き込みたくない。ただ話しかけずに、遠くから見守るだけにしよう。
でも、それだけでは、何か違う気がする。ただ見ているだけか?
大学在学中、彼女の困っている顔を何度か見てきた。人前での発表にとても緊張している彼女。あの時、僕は、たまたま彼女の後ろに座っていた。まさか、意中の相手が同じ大学なんて知らなかった。ドキドキしている僕よりも、違う意味でもっと緊張している彼女に気が付いた。一番指名を受けた彼女に変わって、僕が先にやるといったのだ。それは、同じように行おう。
他には何があっただろう。
そうそう、あれは大雨の日。桜都が、図書館の玄関で立っているのが見えた。傘を忘れたのだろう。まだ付き合う前で、桜都の働くパン屋に通い詰めてはいたけれど、ほとんど話したことがなかった。そもそも、僕も傘を持っていなかったから何も出来なかったのだ。その後彼女は、高熱を出したらしくパン屋に通っても、しばらく会えなかったのだ。そして、これは、付き合った後に知ったのだが彼女の五月の誕生日の出来事だったということがわかった。誕生日に高熱を出して最悪だった、レポートの提出も間に合わず大変だったと言っていたことを思い出した。
迷うけれど、傘くらいは、貸してもいいだろう。その日はちゃんと傘を二本持っていこう。僕の傘を貸したら、「あなたの傘はあるの?」って絶対聞いてくるだろうし。
それだけか。綿密な計画と言っても意外に簡単だった。桜都の人生に僕が関わらなければ良いのだから。ただ、影からそっと、少しだけ、見つからないように助けるだけ。
大事な事だけ、もう一度書いておこう。
『戻る時期は、二〇十八年十二月二四日。
居酒屋のバイトはしない。
英語のプレゼンの時は、同じよう様に彼女を助ける。
二〇十九年桜都の誕生日の日、傘は二本持っていく。
必要以上に彼女と話さない。
友達にもならない。
桜都の人生を邪魔しない』
ノートを書き終えた時、家のチャイムが鳴った。精神科の病院の人たちが迎えにきたのでは、と恐る恐る玄関のぞき穴を覗いた。
だが、そこに立っていたのは、暗い顔をした岳だった。
久しぶりに会う岳。最後に会ったのは、岳が身を挺して桜都を刃物から守ってくれた日。結果的に桜都は助からなかったけれど、岳がいなかったら、桜都の体はもっと悲惨な状況になっていただろう。
「桜都ちゃんに手あわせていいかな?」
「うん、入って」
岳は正座して、桜都に長い間手を合わせていた。
「桜都ちゃん、ごめん。ごめんな。守れなかった」
僕は、岳を責めるつもりは一切ない。だが岳は、桜都にだけじゃなく、僕にも謝罪したい、と言い出した。
「悠斗、お前に言ってなかったことがある」
という岳の顔は見たことのないくらい歪んでいる。
次の言葉まで、僕は息を呑んで待った。
「桜都ちゃんは、知っていたんだ。全部」
「何を?」僕は、恐る恐る聞いた。
「悠斗が、心臓の病気になることも。移植が必要になることも。そして・・・自分が殺されるということも」
「は?どういうことだよ?」
「俺、バンクーバーの観光協会でしばらく働いてただろ?その時、聞いたんだ。同僚から。蒸気時計の事。お前も知ってるだろ?そもそも初めに聞いたのはお前からだよ。あの時計で過去に行けるって言ったのお前だろ?」
「それが、桜都と何の関係があるんだよ」
「バンクーバーにある蒸気時計は、未来に行けるやつだ。反対に、小樽にあるのは過去に戻れる」
もう訳が分からない。この手の震えは、怒りなのか、何なのかわからない。
岳は、深呼吸しながらこう続けた。
「同僚が時計を開ける鍵を職場から持ってきて、ふざけ半分で適当な日付設定したんだ。そしたら、ちょうど今頃に飛ばされてて、その時・・・すでに桜都ちゃんは死んでたんだ。あいつに殺されて。全身刺されてたけど、心臓だけは大丈夫で。致命傷は、今回と同じく頭を殴打されたことだった。だから今回と同じように桜都ちゃんの心臓がお前に移植されていたんだよ。だから、この未来は変えないとって小樽の方の時計で過去に戻ったんだよ」
「じゃ、お前・・・こうなるってわかってて、あの場にいたのかよ!」
震える手で岳の胸倉を掴んでいた。
「そうだよ!救えなかったんだよ!俺が全部悪い!全部知っていたのに救えなかった・・・全部・・・全部俺のせいなんだよ・・・」
自分自身を見ているようだ。嗚咽を漏らしながら、涙を流す姿は、僕と一緒じゃないか。岳のせいではないのはわかっている。でもなんで言ってくれなかったんだよ。知っていた
ら、桜都の事助けられたはずだ。自分の命を犠牲にしてでも。
だが、さっき岳が言ったことを思い出した。
「岳、さっき、桜都が全部知ってたって言ったよな。殺されるってことも知ってたって・・・」
「うん、全部知ってた。だから、そこに行っちゃいけないって。違う場所にいるんだよって何度も言ったんだ。代わりに僕は、ドナーの家族を説得するからって。桜都ちゃんは、病院から離れてって。だけどその日、桜都ちゃんと連絡取れなくて・・・まさかと思ってあの場所に行ったんだよ・・・案の定、桜都ちゃんがいて・・・」
何でわかっているのに、桜都は、そこに行ったんだ。殺されるの知っていたはずなのに。
「理由は、俺が言わなくてもわかるよな。なぁ悠斗・・・」
そういうことか・・・。
そんなのないよ。桜都。
もう充分もらったから、いらないって言ったじゃないか。
いつから知ってたんだよ。
「桜都がそのこと知ったのいつ?」
「悠斗が会社辞めて、ペンションの準備始めた頃だと思う」
「そんな前から・・・」
「もちろん、最初は半信半疑だったと思う。だけど、悠斗の病気が見つかってから、疑う余地はなくなったんじゃないかな」
ずっと苦しんでいたのは、桜都の方じゃないか。
そうだ、彼女の様子がおかしい時期があった。
その時の「苦しいよ」の意味がやっとわかった。
遅い、あまりに遅すぎる。
なんでもっと早く気がつかなかったんだよ。
岳もきっと言えずに苦しんだんだろう。
岳が僕に言わなかったのは、ドナーの家族を説得させ、移植を受けさせるため。
親友の岳も、桜都の気持ちも痛いほどわかる。
きっと逆の立場なら、同じことをするだろう。
「胸倉掴んでごめん、岳。桜都のこと守ってくれてありがとう。体の方は一切傷がなくて、綺麗だったって聞いてるよ」
「とにかく罪悪感でいっぱいなんだ。苦しいよ。悠斗・・・」
「うん、わかってる。だから、やり直してくることにした。桜都と出会う前から」
「いつ行くの?」
「やること済ませたらすぐ行こうと思う」
「絶対変えて来いよ」
「まかせとけ」
ノートにもう一文書き加えた。
『二〇二六年一月八日 桜都を病院に近づけさせない』
第六章 ただ君を守りたい
1
じいちゃんは約束通り、タクシーに乗って夜中の二時に蒸気時計前に来た。年寄りにこの時間外出させるのは、気が咎めるが致し方ない。人気のない時間にやるしかないのだから。
「準備はできたか」
「うん。ありがとう。じいちゃん」
「もう一回言うぞ。戻れるのは一回だけだ。お前が経験してきた出来事は、お前だけの頭に残っていても、桜都さんには、ないからな。そして、代わりにお前が死ぬ事になるかも知れん。それでもいいんだな」
「かまわない。たくさん考えたけれど、桜都を助けたいんだ」
じいちゃんはそれ以上何も言わず、鍵で蒸気時計の扉を開けた。そして、胸ポケットから、小さな巾着を取りだし、何やらその中から、石のような物を取り出した。
「これは、鉱物だ。紫外線をあてると光る。北海道石と言われているやつだ。これを溝に当てはめ、時間を設定する」
「疑問だったんだけど、じいちゃんって戻ったことあるの?」
「ん、まぁな。大昔の話だからな。ほら、早く行け」
「ありがとう。じいちゃん」
じいちゃんにハグしたのはいつぶりだろう。
背中をポンっと叩かれ激励を受ける。
「日付は絶対に間違えるなよ」
そう言ってじいちゃんは、タクシーに乗って老人ホームへと帰っていった。
「よし、やるか」
心臓がどくどくしているのを感じる。
僕は、慎重に『二〇一八年一二月二四日』とダイヤルを変えた。
時計の針がくるくると回り出し、その針の動きに合わせて、僕の周りの世界が小さな粒子に変わり、渦巻いていく。その粒子はやがて黄金の光を放ち、とても眩しくて目を開けられなくなった。
気が付いた時、僕は、自分の部屋にいた。懐かしい部屋だった。
六畳ほどの部屋には、子供の頃から使っている何かのキャラクターのシールが貼られた木のベッド。乱雑に置かれた経営学の本や資格本。そして昔使っていた懐かしいノートパソコン。
「悠斗いるのー?ご馳走準備できてるわよ」
聞きなれた声が階段の下から聞こえた。
「今行くー」
よし、成功した。勉強机の上に置かれているデジタル時計には、『二〇一八年一二月二四日』としっかり書いてある。じいちゃんの言った通りだ。
自分の部屋のドアを開けると、二階まで良い匂いが漂っている。リビングまで一目散に階段を駆け下りる。足が軽い。さすが若い体は違うな。体力がみなぎっている。
「父さん、お帰り」
「おお、悠斗元気だったか?」
「うん、元気。絶好調。美味しそうじゃん」
食卓テーブルには、到底三人では食べきれない量のご馳走が並んでいる。
「ビーフシチューはね、母さんが作ったの。ガーリックトーストと一緒に食べたら美味しいわよ。こっちのオレンジチキンはね、父さんが、東京で買ってきてくれたのよ」
「へえー若者が好きそうな食べ物詳しいじゃん。雪大丈夫だったんだね。飛行機飛んで良かったよ。家族三人でクリスマス会なんて夢みたいだなぁ。ね、父さん母さん!」
「悠斗、なんだか別人みたいだな」
「晴れ晴れとした顔して、何かいいことでもあったのかしら」
「まぁな、サンタさんが来たのかも」
ついこの間まで心配を掛け続けた両親。白髪が目立ってきたなぁと思っていたけれど、今、目の前にいる両親は大分若々しい。やっぱり気苦労かけていたんだな、と感じた。
桜都は、どうしているだろう。札幌で何しているのだろう。付き合う前のクリスマスの事は聞いたことがなかったな。会いたい。七年前の桜都に。出会った頃は本当に可愛かった。いや、そんなこと言ったら、彼女に怒られるな。今も十分可愛い。
「ちょっと出掛けてくる」
「あら、ケーキもあるわよ」
「戻ったら食べるから」
僕は、自室のクローゼットの扉を開け、一番清潔感のある服に着替えた。コーディロイのシャツと厚手のパンツ。上は、ロングのチェスターコ―トにしよう。黒いブーツの紐を固く結んで、札幌行の電車に乗った。あてがあるわけじゃない。桜都が今日どこにいるのかなんてわからない。僕のスマホにもまだ登録されていない彼女の番号。暗記しているから、いつでも電話は掛けられる。だが、掛けたところで、「どなたですか?」となるだろう。「違う時間軸での夫です」なんて言えるはずない。実家に帰っているかも知れないが、取り敢えず彼女のマンションを見てみよう。
札幌駅に着くと、新幹線沿線工事の為、すでに閉店したビルや商業施設がまだお客さんで賑わっている。やはり本当に過去に戻って来られたのだ。
外に出ると、雪が降っていた。
「ホワイトクリスマスだよ、ねぇ見てよ」
「本当だ。イルミネーション見てから帰ろうぜ」
若いカップルが腕を組みながら歩いている。
あぁ、懐かしい。僕たちもあんなだったな。桜都が、腕に抱き着いてきて、冬の彼女はふんわりしていて可愛さ倍増だったんだよな。厚手のコートを着て、毛糸の帽子をかぶって、髪はふんわり巻いていて。
彼女が昔住んでいたマンションに着いた。
確か、部屋は2階の右端。灯りは付いていない。出かけているのだろうか。そういえば、今日はバイト中だろうか。いや違う。パン屋は十八時閉店だ。とっくの間にその時間は過ぎている。思い出した。パン屋さんでは、毎年従業員だけのクリスマス会を開くと言っていた。だけれど、僕と付き合ってからは、断っているんだ、と言っていた。
本当にストーカーみたいだけれど、彼女の働いていたパン屋に向かってみた。大学にほど近いパン屋。懐かしい。僕も通い詰めていたのだから。
パン屋の灯りは付いているが、ブラインドが下ろされ、中の様子を伺うことが出来ない。
ここで、待っていたら、桜都に会えるだろうか。
彼女は元気にしているだろうか。遠くから、見るだけなら問題ないだろう。
時刻は、二十二時前。近くの公園のベンチで、しばらく待つことにした。
辺りは、とても静かだ。物思いにふけるのにちょうどいい。ゆったり降ってくる雪を手袋に乗せて眺める。綺麗な結晶がはっきり見える。桜都が冬になるといつもやっていたな。
カランっとパン屋のドアが開く音がした。
僕の心臓は、ドクッとした。
久しぶりに会えた。
桜都だ。
生きている。
歩いている。
ダッフルコートと毛糸の帽子を着たその子は、手の平を正面に出し目を細めて、雪の結晶を見つめている。やはり桜都だ。
彼女は、バスの時刻を思い出したのか早歩きで歩き出した。だが、突然はっと何かに気づき、元来た道を戻っていった。
すぐに戻って来た彼女は持ち手つきの白い箱を抱えていた。きっとケーキを取りに行ったのだろう。
あ、横断歩道渡るなら、手押し信号押してあげよう。ボタンを押して、彼女が横断歩道を渡る前に僕も渡った。僕は、怪しまれないようにバス停とは反対方向に進む。
振り返ると、彼女は無事にバス停に着き、ちょうどバスも到着した。
良かった。寒い思いをして、バス停で待たなくて良いだろう。
遠目からだけれど、彼女の元気な姿を見られて良かった。本当に良かった。
桜都、会いたかったよ。僕のせいでごめんね。こんな人生になるなんて思ってもいなかったよね。僕が絶対に変えるからね。手袋で涙と鼻水を拭い取った。
彼女の乗ったバスが発車してゆく。
気を付けて帰るんだよ、と心の中で話しかけながら、バスを見つめた。僕は、そこでとんでもないことに気づいたのだった。
二人で九死に一生スペシャルという番組を見ていた時の事。
「私が乗ろうとしていたバスが、爆発したことがあって。乗り遅れたから、被害に合わなかったの」
「え、あのバスの爆発事故の事?クリスマスイヴだったよね?」
なんて会話を今思い出した。
僕は、とんでもないことをやってしまった。
走れ!走れ!
タクシーは?どこにもいない!
後ろからヘッドライトがこちらに向かって来るのが見える!
しょうがない!
僕は、乗用車の前に大きく手を広げて立ちはだかった。
クラクションと共に、運転手が驚いた顔が見える。
止まってくれ。お願いだ。
雪道でブレーキをかけても滑ってすぐには止まれない。結構離れた所に飛び出したはずだが、車は横滑りしながら、雪しぶきを豪快に上げ、僕の一メートル手前で止まった。
「馬鹿なのかお前!」
「すみません!あのさっき曲がって行ったバス追いかけて下さい!事情は後で話しますから」
僕は運よく施錠されていなかった助手席に乗り込んだ。しかも相手が、いかついお兄さんだったから良かった。
「は?良くわかんないけど、面白そうだから追いかけてやるよ」
と急発進してくれた。これが、若い女性とかまじめなお兄さんなら、警察に通報されている所だ。「急いで」なんて言わなくてもぐんぐんスピードを上げる車。赤信号で止まり切れず、横から来た車と接触しそうになったが、兎にも角にも、このいかついお兄さんのお陰で、バスに追いついた。
僕は、お礼も言わず「このバスからすぐ離れて!」とだけ言い残し、一目散にバスに走った。降りてくる運転手とすれ違う。何やってんだよ!桜都はどこだよ!
バスに乗り込むと、桜都がまだ座っているではないか!
「桜都!」
「早く!早く!降りて!」
という僕の声にきょとんとしている彼女。彼女の腕を引っ張り、荷物を持って必死に足を動かした。
案の定バスは、爆発した。間に合った。この事件の事は知っていたが、どこで爆発したかまでは、知らなかった。ただ、ニュースでやっていたのは覚えている。クリスマスイヴの夜、家族で深夜のニュースを見ていた時、生中継していたのだから。
黒煙がすごい。桜都を必死で守ったけれど、ケガはしてないだろうか。僕は急いで彼女の体を確認した。幸い怪我はないようだ。
本当に間に合って良かった。そして今、僕が触れていたのは桜都だ。どれだけ会いたかったかわからない。そして、僕の前で話している。やっぱり優しい彼女は、僕のことも心配してくれている。
けれど、これ以上近づくわけにはいかないのだ。束の間の幸せをありがとう。
僕は、すぐに立ち去った。
次の日の朝、シャワーを浴びていて首の後ろがボディーソープで染みて痛かった。それよりも僕の手の甲に刺さっていたガラスの破片、桜都の頭を守った時のだよな。手袋はいていたから、深い傷にはならなかったけど、これが彼女の頭に当たっていたらと思うとぞっとする。彼女に当たらなくて良かった。本当に間一髪だったと思う。
まさか、手押し信号を僕が押したせいで、こんな事件に巻き込まれるなんて。おそらく前回の桜都の人生では、信号が青になるのが遅く、バスに間に合わなかったのだろう。余計なことをしてしまった。こんな風に前回では全く問題にならなかったことが、ささいな行動をきっかけに、大きな事件に発展してしまうのだ。
過去に戻る前は、あんなに簡単な事のように思えていたのに、初っ端から、計画倒れだ。幸先が悪い。
あれ、僕は、いつも何時に大学に行っていたのか?岳に聞いてみよう。
「今日講義何時のやつだっけ?」
「今日外せないセミナーだぞ。九時半開始。明後日から冬休みなんだから、気合い入れてけー」
時刻をみると八時過ぎてる。急げ。
セミナー室に入ると、桜都がいる。やばい。前回はここですれ違ってない。遅刻ぎりぎりに来たからか。しかも、「昨日助けてくれた人」とか言っている。やばい、色々変わってしまった。嘘ついて「人違いです」とか通じないだろ。馬鹿なのか。隣にいる岳も「桜都ちゃん」とか言っているし。気やすく奥さんに話しかけるな!
もうてんやわんやではないか。一体自分は何をしに来たんだ。
その後の英語のプレゼンの日、やはり当初の計画通り彼女の席の後ろに座り、様子を眺めていた。彼女は全く気付いてないようだ。隣に座っている美月ちゃんに「もう帰りたい。本当嫌」とか言っていて、顔が真っ青だ。相当緊張しているのが伝わってくる。
大丈夫だよ、桜都。絶対成功するから。と心の中で何度も送った。
予定通り、講師は彼女を一番指名したので、理由を付けて僕が一番にプレゼンすることになった。
前回同様、自分の原稿にはほとんど目を通していない。英語が苦手な僕は、これをずっと後回しにし、前日になって岳に代わりに翻訳してと頼んだのだ。翻訳された文章がメールに添付されて送られてきたのは、昨日の深夜。前回の時は、やはり英語の出来る奴は、羨ましいな、なんて思いその資料を印刷して持ってきた。が、今回は、そうそうこの調子と思いながら印刷したのだ。
この後、自分のプレゼンがいかに滑稽なものになるのか知っている。でもこれが重要なのだ。
前回は、意中の相手がまさか前にいるなんてと思い、うまく自分をアピールしようと必死だったし、緊張している彼女を助けたい一心で一番を名乗り出た。まさかこんなデタラメな文章だと思いもしなかったが、もう笑われるしかないと途中で腹をくくったのを覚えている。
今回もやはり自動翻訳機能で一瞬にして作られたであろう英訳文を読み上げる。くすくす笑われるのが聞こえる。僕は、心の中でガッツポーズをしていた。面白い親友がいてくれたお陰で桜都を助けられるなんて感謝してもしきれない。
いつだって僕の目には、桜都が自然に入ってくる。広い大学内は人口も多く毎日沢山の人物とすれ違っているはずだ。なのに、気が付くと彼女を探している自分がいる。一目姿を見られただけで安堵出来たし、元気そうに笑っていると本当にほっとした。
けれど、それだけじゃ満足できない自分もいた。本当は話したい。「今日こんな事があって」とか「新しい食べ物屋出来たんだって。今度一緒に行こうよ」とかそんな会話をしたい時、まっさきに彼女の顔を思い浮かべてしまう。
本能に逆らわなければいけないのは心底辛かった。
大学内の古い階段。踊り場から下の階を見ると、彼女が階段を登ってくる。僕は右手を後ろにまわし、ひらひらさせると彼女の温かい左手が僕の手と絡まる。一瞬の幸せな時間。前回は、そうだった。
今は、階段下に彼女を発見した僕は、早歩きで教室に移動する。
カフェテリアでの席は、彼女と出来るだけ離れた席に座るようにして、距離を取った。
売店ですれ違った時だってそうだ。「あっ」という表情を見せた彼女にすぐさま背を向け違う商品に目を向けた。きっと何か話かけてくれようとしていたはずなのに。
彼女はどう思っているだろう。
きっとひどく冷たくて不格好な男に映っているはずだ。
好きな人に嫌われる。その事実は全身を悶々とさせる。本当は、僕はそんな人間じゃないんだと必死で説明したい。けれど、彼女の未来をもう奪いたくない。これでいいんだ、と言い聞かせる程に胸が苦しくなっていき、吐き気がこみ上げるようになっていった。
2
五月の彼女の誕生日。咄嗟の判断で友達になったあの日から僕は心が少し楽になってい
った。
幸い、あの雨に濡れはしたが、しばらく木の陰に居たおかげか彼女は高熱を出さなかった
ようだ。今日の彼女は図書室で何時間もパソコンや参考書と睨み合っている。集中してい
て僕には気付いていないようだ。
途中、一人の男に話しかけられる彼女。
誰だ?
会話の内容が気になる。気付かれないように、本を探すふりをして近づいた。
「留学行くんだって?」
「あ、うん。半年だけね」
「双葉さんが行くのなら、僕も行こうかな、なんて」
明らかに桜都の顔は、引きつっているように感じる。
「そうなんだ。田中君も留学興味あったんだね。もうすぐ締め切りだから、急いだ方がいいかも」
「うん。双葉さんどこの大学にした?」
「えっと・・・カナダの大学」
「カナダの何ていう大学?」
「ブリティッシュコロンビア大学」
「へぇ、そうなんだ。僕はさ、アメリカの方が興味あって。一回旅行行ったことがあって、すごく遊べたんだよ。カジノとか楽しいし。双葉さんもそっちに変更しない?」
「あ、でも私、カナダ行ってみたかったの。自然も沢山あるって聞いていたし」
「それじゃ、北海道と変わんないよ。都会的な所も楽しいよ。違う世界見たくない?」
「うーん。でも申し込んじゃったから」
「まだ変更効くと思うよ。一緒に留学センター行ってみようよ。話聞いてみるだけでもさ」
明らかに困った顔している彼女なのに、どうして気が付かないんだよ。おい田中!お前は誰だ!
「あのさ、桜都ちゃんは、カナダに行きたいって言ってるんだよ。アメリカよりカナダの方が治安良いっていうし、そういうの心配にならないの?女の子なんだよ」
言ってしまった。でも抑えられなかった。
「え、双葉さん、友達?」
「あ、うん、友達以上の友達。スパイダーマンみたいな・・・あ、スーパーマンかな」
「へぇ、何かごめんね、しつこくして。でも気持ち変わったら教えて」
バツが悪そうに立ち去る田中に僕は勝った!と思った。
「気持ちは変わりませんから!」
と、大人気もなく捨て台詞も吐いてしまった。
椅子に座っている彼女は、両手で口元を抑えて肩を震わせている。
「桜都ご・・・桜都ちゃんごめん。余計な事した?」
彼女の隣の席の椅子を引き寄せ、顔を覗き込む。
「ううん。ありがとう。もう面白くって。涙出てきたの。ありがとう。助けてくれて。田中君なんてほとんど話したこともないし、随分悪いうわさもあるから、どうしようって思ってたの。本当にありがとう」
「なら、良かった」
彼女は、僕が左手に抱えている本に視線を落とす。
「何の本読んでいたの?」
「あぁ、ドーナツの作り方・・・」
自分が何の本を持っていたのかさえ分からない位、田中の言動に腹を立てていた。
「ドーナツ好きなんだね。自分でも作るの?」
「いや、実はさ、サワイベーカリーの黄な粉ドーナツに、はまっていて」
「そうなんだ。嬉しい。いつもその黄な粉まぶしているの私だから。今度買ってきてあげる」
「ありがとう」
「あのね、ドーナツの穴って哲学なんだって」
その話は聞いたことがない。
「ドーナツの穴ってなんで開いてるんだろう?て考えたことない?」
「言われてみれば確かに」
彼女は両手でドーナツの穴を表現しながら続ける。
「穴を食べてみたいと思うでしょ。でもドーナツを食べたら、穴もなくなってしまう。どうにか出来ないかって考えるのよ。それこそが、大事なんだって。常識を疑うこと。あたりまえだと思っていたことが本当は違うんじゃないかって深く考えることが」
「なるほど。確かに。何か深く突き刺さった気がする」
そうだ、僕はやっぱり色々考え直さなくちゃいけない。
「全部バイト先の店長が言ってたんだけどね」
にこっと笑う彼女は、やはり魅力的だ。
僕も最近あった、どうでもいい話や美味しいお店の話など桜都に聞いて欲しかった話を続ける。
彼女は、相槌を打ちながら、時々クスクス笑って聞いてくれた。出来るだけ、声のトーンを落として話していたが、司書のおばちゃんに「静かにね」と怒られてしまった。
「ごめん。もう一時間くらい邪魔しちゃったね。きっとレポート書いているよね」
「ううん、すごく楽しかった。さっきは本当にありがとう」
「なんも。また田中が現れたらいつでも言って」
「どうしてそんなに私の事助けてくれるの?」
そんなのは決まっているじゃないか。
「好きだから」そんな言葉が出かかって、なんとか唇の手前で抑えた。
僕の目を見てくる彼女もきっと同じ気持ちだろう。
「スパイダーマンだからね」
というと、彼女は目を細める。
「面白い。春野君って」
時は次の季節を運び、夜でも気温が下がらない日が続いていた。そんな日に僕は、内面から出てくる熱と葛藤している。
このまま超えてもいいのだろうか。
友達になって数か月、適度な距離を保ちながら接してきたはず。
なのに、僕たちは今、深夜の彼女の家に二人きりだ。
相変わらず綺麗な部屋。
ほこりのない掃除の行き届いた床。
きちんとベッドメイクもされている。
チェストの上には雑貨類がセンス良く配置されている。本来なら僕らの写真がそこにあったな。
視線を横に向けると、正座し、焦がれた目で見てくる浴衣姿の愛しい人。
淡いピンク色の口元が二文字の言葉を放ってから、僕の時間は止まり続けている。
何か言わなくては。
さっきまで、岳と美月ちゃんの四人で夏祭りに出かけていた。浴衣姿の桜都を見て、初めてのデートを思い出した。美味しそうにクレープやたこ焼きを頬張る彼女はとても可愛いし、楽しそうにはしゃぐ姿は、全く同じだったから。愛おしくて、その細くて長い指に触れたいと思ったのは、一度ではなかった。
美月ちゃんは彼氏と合流するからと先に帰り、岳も他の女の子と遊びに行ってしまった。小樽行きの電車が鹿に衝突した影響で運休になり、致し方なく桜都のマンションに来てしまった、という流れだ。
ホテルに泊まればいい。その通りだ。でも「うちに泊ってもいいよ」の冗談めいた一言で、のこのこと付いていく。なんて浅はかなんだ。
「なにか冷たい物飲もうか?突然告白されても困っちゃうよね」
と言われた僕は、彼女の腕を引っ張った。
「いや、違う。そうじゃないんだ・・・好きになっちゃいけないって思って。ずっと気持ちに蓋をしてた。僕じゃ駄目だって」
「どうして?」
「今は言えない。だけど、これだけは言える。僕は桜都ちゃんの事好きなだけじゃないんだ。愛してる。自分の人生を掛けても守りたいほどに」
右目から出る涙が頬をつたう。あぁ、言ってしまった。
「私、どうしようもないくらい、あなたに引き寄せられる。目が勝手に。心も体も勝手に・・・」
僕もだ。あれだけ、彼女に近づかないと決めていたのに、勝手に蓋が開いたように、溢れ出す僕の感情。
もう駄目だ。止められない。
暗い部屋の中で、お互いの気持ちを確かめ合う。
月の光に照らされた色素の薄い彼女の瞳。何度も何度も僕の目を見つめて欲しい。その瞳が心の不安も棘も全て取り払うから。暖かな気持ちに包まれるこの感覚が、懐かしい。
「悠斗君、起きて」
「うーん。桜都、今日の宿泊者何名?」
「うふふ、何の話?」
彼女は、寝ぼけ眼な僕に顔を寄せてきた。
「夢じゃなかった」
もう私服に着替えていた彼女を抱き寄せた。
「夢だと思ったの?」
「うん」
「夢の方がいい?」
「いや、絶対いやだ」
「間違えたと思ってない?」
「・・・間違えていたかもしれない・・・」
一気に暗い表情になった彼女の手を取り、説明した。
「そうじゃない。昨日の夜は、本当に幸せだった。あれ以上自分の感情に蓋をしていたら、僕は壊れていた」
じゃ、何が間違えていたの?という疑問の表情を投げかけてきた。
「最初の僕の決断。綿密に立てたと思っていた計画は全く綿密じゃなかった。一番大切なことが抜け落ちていた」
きつく抱きしめた彼女は、同じく僕の背中に腕を回し、きつく返してくれた。
「桜都ちゃんのこと、抱きしめずにいられないんだ。悲しい思いも怖い思いもさせたくない。ずっと、そばで守らせてよ」
こんな意味のわかんないこと言われても事情の知らない彼女は戸惑うだろう。
「ありがとう。すごく嬉しい。私の事こんなに好いてくれる人、他にいないもの。何か、他に事情があるんでしょう?話せるようになったら、話してね」
さ、起きてよ、と僕の両手をひっぱりローテーブルの前まで連れてってくれた。
野菜たっぷりのミネストローネと黄な粉のドーナツ。久しぶりだな奥さんの手料理。このミネストローネと思い出のドーナツ。この組み合わせ、お客さんにも評判良いんだよな。
隣でにっこり微笑んでくる彼女を見て、浮かんできた。違う未来があるかもしれないと。まずは、どう彼女に伝えるかだ。
「君は数年後、殺される。そして、僕の心臓になる」
なんて言われたら、ふつう怖いだろう。頭のおかしい奴確定だ。
その為に私に近づいたの?なんて言われてもおかしくない。
どう伝えるのがベストなのかきちんと考えよう。自分だけの考えでは、もう足りないのかもしれない。
相談する相手は一人しかいない。いつもチャラついているが、本性は知っている。小学校から、ずっと過ごして来た親友だ。
岳は、なにかと「悠斗って、かっけー」と言ってくる奴だった。もちろん容姿にではなく勉強や行事ごとに真剣に取り組んでいる事にだ。同級生から、「エリート」「委員長」とかあだ名をつけられていた僕は、まじめに生きて何が悪い、と思っていたが、岳は、それをかっこいいと肯定してくれた。それは、からかいとかではなかった。「俺もやる」と言って、勉強も行事ごとも一緒に励まし合いながらやって来たのだから。
アイスコーヒーより氷の方が多いグラスを眺め、「これ詐欺じゃないか」という岳は、「最上級和牛ハンバーグも奢ってよ」と言ってきた。
「相談する人間違えたわ」
「ごめん、ごめんって。悠斗君!悩み事って彼女のことでしょっ」
にやにやしながら、アイスコーヒーを啜るこの男は、やはり癇に障るが、致し方ない。こんなこと相談できるのは、岳しかいないのだから。
「桜都と結婚するんだ」
「は?何言ってんの?この間まで俺らは友達だから、とか言ってただろ。そうかと思えば、桜都ちゃんには絶対手だすなとか言ってきたりさ。次は結婚するからって。頭おかしいのか?」
「ま、そうだな。でも今の岳の反応で、わかったよ。お前がこの時間軸では、未来に行ってさらにやり直してないって事」
そう、僕の一回目の人生で、岳は未来に行ってから過去に戻ってくるタイミングは、現時点より前と確認取っていた。
「は?お前大丈夫か?病院連れてってやるよ。何か去年の暮あたりから変なんだよなぁ。妙に大人びてるし」
そう言われるのも納得だ。岳には、「なぜ桜都ちゃんにあんなに冷たいんだよ」とか「本当は気になってるんじゃないの」とかさんざん聞かれていたのに、この状況だ。
「ちゃんと説明しろよ」
「うん、岳さ、カナダの大学興味あるんでしょ?」
「うん、9月が向こうは新学期だから、もうすぐ行くよ。あれ、この話サプライズにしようと思ってたはずだけど、誰かから聞いた?」
「聞いてない。けど知ってるんだ。バンクーバーにある大学だよね?」
「え、怖いんですけど・・・」
本気で引いた顔をしている岳に、僕は得意げに続ける。
「バンクーバーにさ、小樽と同じ蒸気時計あるじゃん?」
「うん、例のやつね」
やはり話が早い。
「ということは、覚えてるんだよね?俺らが、小学校の時にした話」
「覚えてるよ、だって、俺本当の話だと思って、すぐ蒸気時計の所に行って扉開けようとしたもん。そんですぐお前のじいちゃんに怒られた」
「そうそう」
「え、それが何?」
「それ、本当の話だった。時間戻せるの」
「は?」
「しかも小樽のは過去に戻れて、バンクーバーのは未来に行ける」
岳は、本気でヤバい奴だという目で見てきた。
「一旦さ、親友の言うこと信じて」
「わかった、わかった。一旦聞こう。その前に店員さーん!」
岳は何の断りもなくハンバーグを追加オーダーした。
「それで?」
「今、俺二回目の人生」
「はい、出たー。最近流行ってるもんね。二回目とか三回目の人生やっちゃう話」
「店員さーん。ハンバーグキャンセルで!」
「ごめんって!聞く聞く!」
「だから!今俺二回目の人生なの。簡潔に言うと、一回目の人生で桜都と俺が結婚したんだけど、心臓病になった俺のために、心臓くれたんだよ。鬼畜野郎に殺されて。しかも桜都、結婚前には殺されるのわかってたんだ。だから、それを回避するのに過去に戻って来た」
「待って。ちょっと信じられない。お前ら結婚するの?そんなの嫌だよー。俺の桜都ちゃんだろ」
「本気で帰るわ」
「嘘だって!まとめると、お前が心臓病になって余命幾ばくもないから、桜都ちゃんが親族になれば悠斗だけに心臓渡せると思って、お前と結婚したわけね。しかも、結婚前には自分が殺人犯に襲われるってわかってたわけか。でも何で知ってたんだろう・・」
「さすが岳・・・そこまで話が見通せるとは・・・実はさ・・・」
何て言おうか。「岳、お前のせいだ」は唐突だよな。
「わかった。当ててやろうか?俺のせいか?」
言葉が出てこないから、頷くしか他ない。
「例えばだけど、俺が、未来に行ったせいで、事件を知った。それを回避しようとして過去に戻って、桜都ちゃんに伝えたけれど、うまく行かなかったとか・・・そんな感じ?」
「全くその通りだよ。だから、今回は何とか食い止めたい」
僕は、事件の当日の話を岳に伝えた。
「うん、俺が記憶してない出来事だけど、なんか申し訳ない。俺なら、失敗している所が想像できるし・・・でも、今回は、俺とお前がそうなる事実知ってるってことだよな?それって、最強じゃん!男二人いたら、殺人犯から、桜都ちゃん守ってあげられる」
「確かに、そうだ」
「じゃ、まとめようぜ」
「まず、事件が起きるのは、二〇二六年一月八日。この日、桜都を病院には近づけない。殺人犯はその病院の患者でもあるし」
「うん。確認だけどさ、心臓移植できるって言われて、お前は病院に行くわけだけど、結局断られるのね?」
「うん、それは間違いない」
「そっか、じゃお前も最初から病院行く必要ないよな?わりとシンプルかも。桜都ちゃんも悠斗も俺もこの日は絶対に病院に行かない。ただそれだけ」
「そっか、割とシンプルかもな。ま、まだ六年以上先だから、忘れないでくれよ」
「今から、スマホのカレンダー入れとく」
「ありがとうございます。ハンバーグは奢らせて貰います」
岳の分のレシートをもって会計を済まし、先に店を出た。
自分一人で抱えていたことを岳に打ち明けてみて、一気に肩の荷が下りた気がした。よし今夜は落ち着いて寝られそうだ。
「お客様、大丈夫ですか?」
「顔色が悪いですよ。もしかしてハンバーグ生やけとかでした?」
「あ、いや、大丈夫です。でも、一つ聞いても良いですか?お姉さん」
「あ、私でよろしければ・・・」
「もし親友が数年後病気になって、死ぬかも知れないってわかったら、どうします?」
「それは・・・私ならきっと、沢山思い出作って・・・どれだけあなたが大切かってことを日頃から伝えるようにします。後悔のない日々を過ごしたいです」
「ありがとう。お姉さんに聞いて良かったよ」
3
「桜都、せっかく悠斗君と付き合えたのに、留学しちゃうの?」
「うん、前から決めていたことだから」
「悠斗君なんて言ってた?」
「応援してるって」
「ふーん。そういえば、桜都が色々疑問に思っていたこと教えてくれたの?」
「ううん。もう少し待とうと思う」
そうだ、バス事故の時、初対面なのに私の名前を呼んでいたこと、雨の中、私にごめんと泣きながら謝っていたこと。どんな理由があるのか知りたいけれど、知ってはいけないような感覚もあり、まだ聞けていないのだ。
美月は、人の気持ちを察するのが本当にうまい。無理にこうしたら?あぁしたら?とか言ってこないのも好きだ。だけど本当に肝心な時だけ背中を押してくれる子だ。
美月の美的センスによって、どんどんおしゃれになっていく私の爪。パン屋さんの仕事では、ネイル禁止だから、普段はやらないのだけれど、おしゃれしてみたくなった。
「今日の女子会、十八時からだから、もう少し桜都の家でゆっくりしていって良い?」
「うん、もちろん」
「悠斗君、この間泊ったんでしょ?」
私は頬を赤らめながら頷く。
「お互い好きなのバレバレなのに展開遅かったよね。なんか本当見ていてやきもきしてたんだから。でもこれからは、堂々と応援出来るね」
「うん、ありがとう」
「表情も明るくなったし、本当よかった」
私も、美月がそばにいてくれて本当に良かった。
なんせ「告白してみたら?絶対うまく行くよ」と背中を押してくれたのは、美月だったから。
飲み放題メニューには、いちご豆乳カクテル、チーズケーキラテなどいかにも女子が好きそうなメニューが並ぶ。掘りごたつにぐるりと女子総勢十人。まとめ上手な美緒ちゃんが、みんなの食べたいメニューを聞き、タブレットで注文してくれる。金曜の居酒屋は、とても賑やかだ。個室だっていうのに隣の個室からは、誰かの退職の挨拶の声が丸聞こえだ。
「みんなグラス持った?」
やはり、ここでも美緒ちゃんが率先して仕切ってくれる。
「カンパーイ!」
近場の子とグラスを鳴らし合う。やはり、話題は、彼氏だったり、大学での愚痴や噂話、この場所にいない子の悪口など。
気心知れた数人、出来れば3人までなら、楽しめるのだが、ここまでの大人数は本当に苦手。そして、皆話し上手。オチがあったりして、芸人さんかと思うほどに、話術がすごい。やはりここでも聞き役に徹する。けれど、けっして、つまんなそうな顔は見せてはいけない。リアクションはとても大事。反応が薄いと過去に友人から言われたことのある私は、少々オーバー気味に喜怒哀楽を出さないと相手に伝わらない気がする。作り笑いをし過ぎた時は、顔が引きつっているのを自分でも自覚することもある。そんな口数の少ない私に、話題を振ってくれたり、ドリンクの追加注文を聞いてくれる子には、本当に感謝している。私もそんな風でありたいと思う。
誰かが「写真撮ろうよ」言い出す。そして、私はいつも通りすみっこで笑顔を作るのだ。
このタイミングで各々好きな席に座り始めた。美月がこそっと耳打ちしてくる。
「最初からくじ引きじゃなくて良かったのにね。席、桜都と離ればなれだったじゃん」
そうだね、寂しかったよと、一瞬美月の腕に絡みつく。
私たちの前に座ったリエちゃんが口火を切る。
「ねえ、美月ちゃんたちさ、最近、経営学部の男の子たちと一緒にいるよね?」
「あぁ岳くん達ね」
「え、大丈夫なの?なんかいつも女の子と遊んでるでしょ、特に月城岳って人」
「あぁ、あの人、実は女の子に相手にされてないからね、面白い人だよ。ね、桜都」
「あ、うん。意外にも優しかったり・・・」
「へえーもう一人いるじゃん、背高くて結構かっこいい人。春野君だよね?」
名前を出されてなぜかどきっとする。
「そうそう、何かあった?」
美月が返す。
「かっこいいって言ってる子いてさ、すごく可愛い友達でインフルエンサーなんだけど、紹介してもらえないかな?」
美月が私に確認してくる。言ってもいい?と目配せで。
自分で言うね、と合図を送る。だって、これは自分で言わなくちゃ。
「実はね、私、春野君と付き合うことになったの」
「えええー!桜都ちゃんが?」
リエちゃんが私の全身をまじまじと見る。
「嘘でしょ!全然意外なんだけど!」
一体どういう意味なんだろう。見た目?やっぱり私じゃ不釣り合いか。
「いや、違うよ。ごめんね。桜都ちゃんも可愛いよ。でもさ、もっと陽キャな女の子が好きなのかと思ったの」
「春野君はね、控えめで落ち着いている子が好きみたい。桜都みたいな」
助け船を出してくれた美月に、ふーんと返すリエちゃん。
私はこの子の事、あんまり得意ではない。以前「桜都ちゃんって何考えてるかわかんない」と何の脈略もなく言われたことがあるから。そして、席を移動したリエちゃんは、端っこにいたリエちゃんの仲良しさんに耳打ちしてる。仲良しさんは一瞬私を見たから、リエちゃんは私と悠斗君の件を言いに行ったのだろう。私は、女子特有のこういう雰囲気が苦手なのだ。
飲み放題の三時間が過ぎ、やっと解散になった。「カラオケ行こうよ」と誰かが言い出す。
「桜都、今日はもう帰らない?私、彼氏と会いたいし」
「うん、私も、もう遅いし帰る」
みんなに「また集まろうね」と声を掛け合い、手を振って別れた。
「あぁ、疲れた。桜都、私はね、桜都と悠斗君の事、ジャックとローズくらいお似合いのカップルだと思ってるからね」
「ちょっと大分昔のカップルだけど嬉しい」
また私は美月に抱き着く。この子は、どうしてこんなに私の心が読めるのだろう。優しくてスタイルも良くて、綺麗で可愛い。私が男なら確実に好きになっている。
美月と別れた後、スマホのメッセージの着信音がなった。今いちばん恋しい人からだといいなと思い、スマホカバーを開く。その通知画面に胸が躍る。
「夜遅いけど、会いたい」
「わたしも」と指が勝手に反応する。
マンションの前に着くと何かを後ろに抱えている彼がいた。
優しく微笑んでくれる彼の瞳に自然な笑顔が出る。
「なんか渡したくなって」
目の前の景色が、大きな赤いバラで埋め尽くされる。
「今夜はすごく会いたかったの」
と返す私の目の前の景色は、彼の匂いがする青いシャツに一変した。
「わがまま言ってもいい?」
「そういうの好き」
「近くにね、ライトアップしている公園があるの。ちょっと散歩しない?」
「もちろん」
寒い北海道はお盆明けから気温が一気に下がり始める。それに合わせて見頃を迎える秋
の花、コスモス。もちろん昼間に見るのがベストなのだが、ここの公園はライトアップされ、昼間とは違う表情を見せてくれる。コスモスを漢字で書くと秋桜と読むらしく、桜のようなピンク色の花たちが身を寄せ合い、細くて折れてしまいそうな茎をまっすぐ天に向かって伸ばし、夜風になびいている姿は、儚く美しい。
私たちは、ベンチに腰を掛け、夜に浮かぶコスモス畑に恍惚としながら、ゆったり会話をする。
「桜都ちゃん、来月にはカナダ行っちゃうんだね。寂しいけれど、応援してる」
「うん、ありがとう。半年だけだから、あっという間だと思う」
「もしもうまくいかないことがあったら、すぐ戻って来て良いからね。全部受け止めてあげるから。ま、でも桜都ちゃんなら、絶対やり遂げられると思うよ」
そんなに優しい言葉を掛けられると泣きそうになってしまう。でも泣くのは変だ。自分で選んだ挑戦なんだから。
「桜都ちゃんって朝早いの得意?」
「大丈夫だよ。電話の時間だよね?」
「うん。9月はまだサマータイムだよね。バンクーバーの朝七時が、日本は夜十一時だから、それくらいに話せる?」
「うん。毎朝電話する。きつい時は先に寝てね。お互い無理しないようにしよう」
「うん。ビデオ通話できる時代で良かったよ」
「顔見て話したいもんね」
「桜都ちゃん、名前呼び捨てしても良い?」
「もちろん。なんかもっと近づけたみたいで嬉しいな」
彼の薄めの唇がゆっくりと言葉を放つ。
『桜都』と。
鈴虫の音しか聞こえない静寂の中で、呼び捨てにされるとどきっとする。
「次の約束をしよう」
遠くを見ながら話す彼の横顔は、なんだかとても儚く見えるのは気のせいだろうか。
「約束?」
「うん、戻ってきたら、何しようか?どこでも連れていくよ」
「うーん、なんだろう」
「海外行ったら、日本食恋しくなるっていうよね」
「うん、やっぱりお寿司とかラーメンとか、かな」
噴き出して笑う彼。え、そんなに可笑しい?
「桜都って食いしん坊だよね。そういう所が好きなんだよな」
「やだ、恥ずかしい・・・」
「こっち向いて」
私の顎をそっと掴み、手慣れた感じでキスをしてくる。心の底から温かくなる幸せを私はこの人から初めてもらった。
彼は、今まで私が出会ったことのないタイプの男性だ。恋愛経験に乏しいのもあるが、今まで私がほんの少しだけ付き合った人とは全く違う。
私の話を遮ることなく耳を傾け、そしていつも肯定してくれる。
優しく私を見つめてくるその瞳は嘘をついてないのが良くわかる。
私が不安にならないように「次の約束をしよう」と言ってくれる。
そして、私の命の恩人。
そんな人、他にいるだろうか。たぶん世界中探しても彼一人しか見つからないと思う。大事にしたい。自信を与えてくれ、頑張れる力をくれる彼の事を。一方で不安な気持ちもある。そんな彼に私は何か返せているだろうかと。まだ、一ミリもお返し出来てない気がする。
実家の最寄り駅のエレベーター下でおそらく緊張しているであろう人を迎え待つ。
休日の午前、駅構内はまばらな人の流れで、中心部から電車で降りてくる人は少ない。
九月まで残り数日という日、駅前の街路樹の一部は、赤く変化し始め、季節のバトンタッ
チが始まっている。長袖のカーディガンを秋色のチェック柄ワンピースの上に羽織り、腕
を後ろに組みながら、少し前のめりで待つ。
想い人は、菓子屋の紙袋を手に持ち現れた。
私は、控えめに手を振る。
「変じゃないかな?一応ジャケット羽織ってきたんだけど」
「大丈夫。ジャケット姿初めてみた。すごくかっこいい・・」
「え、なんて?もう一回言って」
「え、何を?」と知らないふりをする。
目が交差し笑いあう、この短い時間が大好きだ。
よかった。あんまり緊張しているようには見えない。もとより、彼は、メンタルが強い人という印象がある。この人は、いつも落ち着いていて、怒ったり焦ったりしている所を見たことがない。泣いているのは見たことがあるが・・・。
それでも、さすがに家の玄関の前では深呼吸をしてから入る彼。
しっかり自己紹介をする彼の後ろに立つ私は、ピンと伸びた大きな背中に見惚れてしまっていた。この人が私の彼なんてまだ信じられない。
「いらっしゃい。小樽からわざわざありがとうね」
「いえ、今日はお招きいただいてありがとうございます」
「さ、あんまり固くならないで。入って入って」
母は少し緊張していて、せかせかしているようだが、父はいつもの落ち着きようだ。
お昼ごはんの手巻き寿司の準備は、駅に向かう前に母と一緒に済ませてあった。飲み物をグラスに注いで、父の合図で彼のおもてなし会が始まる。
「まずは、娘の命を救ってくれて本当にありがとう。君には足を向けて寝られないよ。そして、桜都の命の恩人が彼氏になってくれるなんて。な、母さん」
「本当に。彼氏なんて家に連れてくるの、はじめてなのよ。男っ気がなくてね」
「そうですか」
とにこやかに対応してくれる彼。
「桜都さんは、家ではどんな子ですか?」
「私にとっては最高の娘だよ。小さい頃は恥ずかしがり屋で母親の後ろにいつも隠れているような子だったけど、母親の手伝いをよくする子だったし、頑張り屋さんだった。それは今でも変わらない。頑張って勉強して第一志望の大学にも入れたし、次は留学にも挑戦したいって言ってる。頻繁に連絡くれるような子じゃないけれど、あなたのような誠実な人がそばにいてくれたら安心だ。末永くよろしく頼むよ」
「お父さん、結婚するわけじゃないんだから、悠斗君困るでしょ」
彼は両手を膝に置き、はっきりした口調でこう続けた。
「いえ、桜都さんとは、ゆくゆくは結婚したいと思っています。そのつもりで今日来ました。まだ、学生の身で何を言っているのかと思われると思いますが、起業して、生活の基盤が整ったら、結婚したいと思っています」
「あら、どうしましょ」
「母さん、お酒あったかな?」
慌てる両親を横目に一番驚いているのが、私だ。
「ごめん桜都。僕の方が困らせること言ってるね」
「ううん、嬉しい」
抱き着きたい衝動を胸に抑え込んで、海苔を一枚とり、ご飯とサーモンをこれでもかと乗せる。くるっと巻いて口に放り込んだ。サーモンの濃厚な脂の旨味がわからない。さっきのはなんだ。
『そのつもりで今日きた』
『結婚したいと思ってる』
なんて反則だよ。まごまごする私を見て、ちょっといたずらな笑顔を見せる彼。あなたはどこまで私を虜にさせるつもりなのだろう。
「悠斗君、起業とは何をしたいのかな」
お酒を口にした父は、質問を重ねていく。
「はい、祖父の時計店を改築して、ワークショップを兼ね備えたペンションにしたいと思っています。堺町通りにあるので、観光客も見込めます」
「そう、この間お店見せてもらったんだけど、レトロなお店で素敵だったんだよ。悠斗君おじいちゃん子だったから、時計の修理も出来るし、最近はガラス細工とかもやっていて本当に手が器用みたい」
「そうか、若いのにしっかりしていてさすがだね。やりたいことを見つけられるっていうのはなかなか難しいことなんだよ。父さんが大学生の頃は、安定した企業に就職する事しか考えてなかったよ。何か困ったことがあれば、いつでも連絡くれて構わないよ。君は、もう家族も同然なんだから」
「嬉しいです。そんな風に認めてもらえるなんて思ってもいなかったから・・」
お礼をしたいとかねがね言っていた私の両親に、予想外の展開にはなったけれど、紹介できて本当に良かった。
いつの間にか、私の幼少期のアルバムを部屋の奥から引っ張り出し、思い出を語る母とその写真に見入る彼。オセロゲームの勝負を挑み、彼が負けた事実に本気で喜ぶ父。
それを傍から見ていた私は、彼との将来が想像できた。優しくていつも守ってくれる旦那さん。子供にも優しい眼差しを向けている姿。なんて、考えただけで心が躍ってしまう。
リビングの大きな植物の影が長くなってきた頃、楽しく穏やかな時間はお開きになった。五時間あまりの会だったが、時間が飛んだように感じられるほど楽しかった。
駅まで続く線路沿いの細い歩道。車道側を歩いてくれる彼の手を握り、オレンジ色の夕日を背景にしながら、ゆっくり歩み進める。
「悠斗君、今日はありがとう。父も母もとても喜んでくれたみたい」
「こっちこそ、とても楽しかったよ。桜都、なんかびっくりさせちゃってごめんね。突っ走っちゃったかな?」
「そんなことないよ。予想外だったけれど嬉しい」
「でも、本当の気持ちだから。桜都が留学するから、焦って言った訳じゃない。これだけはわかっていて欲しい」
「うん、将来そんな風になったら、嬉しいなって今日は沢山想像しちゃった」
「何それ。楽しそう。詳しく聞かせてよ」
「例えば、悠斗君に似ている女の子が生まれて、一緒に黄な粉ドーナツ頬張って、親子で顔が黄な粉まみれになっている姿とか・・・本当にそっくりね。なんて言っちゃって」
そう言うと、なぜかぎゅっと抱きしめてくる彼。
「そんな未来が良いよね。桜都が沢山愛されて育ったように、愛情あふれる家庭がいいな」
「悠斗君・・・一つ聞きたい事があるの。どうして、そんなに私の事好きなのか聞いても良い?私何もあげてないし、持ってないよ」
「桜都の好きな所は、いっぱいあるよ。食べ物に目がないところとか、ちょっと丸いほっぺとかかな」
「もう・・・聞かなきゃ良かった」
「やっぱり好きな所を上げたらキリがないよ。ちょっとした所が可愛いと思えてしまうんだ。お父さんが言っていたように頑張り屋な所も、おとなしそうな感じに見えるけど意外に野心家で海外行っちゃう所とかも・・・どんどん前に行っちゃって僕なんてすぐに置いて行かれそう。そして桜都は心が綺麗なんだよ。悪口とか絶対言わないし、他の女子と違う所はそういうところかな」
彼の言葉で満タンになる私の胸の中。充分エネルギーチャージは出来た。
準備を完全に整えた私は、この数日後、バンクーバーへと旅立った。
後編へ続く。