5.チケットゲート
山手線は、どちらかと言えば好きな路線の部類に入る。
同じところをグルグルと回っているだけなので、変なところへ連れて行かれる心配がないから安心、という理由からだ。
ちなみに今乗っている「外回り」の車内はそこそこの混み具合。
帰宅ラッシュはとうに過ぎているし、あまり経験は無いが、終電間際の駆け込みラッシュ的な状況もまだまだ先の話だからだろう。
僕はつり革をつかんだ自分の手をじっと見つめている。
さっき彼女の顔を盗み見たら眉間に皺が寄っていたので、もう見られなくなった。
気まずい――まったく会話がない。
たぶん周りから見たら、僕と荒木さんが知り合いだとは誰も思わないだろう。
だって乗ってから一言も会話をしていないのだから。
自分のスニーカーを見下ろす感じの流れから、チラっと隣を見る。
さっきから彼女はずっと、あの丈夫そうな布製の白い手提げバッグを肩に掛けている。
大きなアレが僕の側にあると、なんとなく「壁」をイメージしてしまうので本当はやめて欲しい。
バッグに書かれているロゴ。
真ん中の大きな文字は「GO FOR BROKE!」だ。壊れるまで行け?
いや、当たって砕けろ、だったか。
まあとりあえず、ここは僕の方から──。
「……あの、荒木さん?」
「ユアレイト。遅い」
「えっ?」
「遅いよ、比嘉氏ぃ。はー苦しかった、もうリミット。エアー、エアー、酸素酸素」
そのまま隣で深呼吸を始めた。
なんだこれ。
からかわれてる?
いや、やっぱりちょっと怒っている様な――。
「で? 何を考えてたの? 比嘉氏は。黙ってるあいだに」
「は?」
ここで「山手線について」なんて言ったら、それこそ怒るだろうか――。
「ああ……それはまあ、やっぱりさっきの……」
「ミスター長谷川の件はもういいから。他は?」
「え、他って……」
何を求められているのか、意図がまったくわからない。
そう言えば僕は、国語の読解問題が昔からけっこう苦手で――ああ、そうか。
「日本語……」
「うん?」
「いや、荒木さんの日本語、ぜんぜん問題ないと思うけどな……ってさ」
「ホント?」
「うん、なんていうのかな……」
「うんうん?」
彼女が耳を寄せて来た。
列車のノイズのせい、それと僕の声があんまり通らないせいだ。
リンスか何かの匂いがした。
「……その、僕たちはべつにテレビのニュースキャスターになるわけじゃないし、普段の生活の中で、目の前にいる相手に対して言いたいことをちゃんと伝えようと、考えながら話す荒木さんの言葉は、なんか、いいなっていうか……」
「…………」
緊張するほどに近い彼女の横顔。
だが、その視線はどこか宙を見ている。
「荒木さん?」
「うん? ああ、ママがね……いや、お母さんが……」
「ママが?」
「……うん。ママがね、言ったの。言葉は難しいけれど、伝えたい言葉がちゃんと相手に伝わる様に想いを込めて、あなたは話しなさいって。あなたはそれでいいのよ、って……」
車窓を過ぎる街の明かりが、彼女の瞳に纏わりついてなかなか離れて行かない。
僕は何となく、目を逸らした。
「ああ……なんか気持ちわかるな、僕も」
空気のせいなのか、気づいたら何故かそう言っていた。
「……そう?」
「うん……いや、僕もさ、うちなーぐち……ああ、沖縄の方言のことなんだけど、油断するとけっこう出るんだよね」
「ああ、方言」
「イントネーションとかさ、時々おかしくない?」
「…………」
「えっ?」
彼女が僕の顔をまじまじと見つめている。
な、なに? いや顔じゃなくて、言葉の話なんだけど――。
「私たち話してないでしょ、お互いに、まだイントネーションがどうこう言えるほど」
「え、そうかな……」
「ていうか、あんまりしゃべってくれないじゃん、比嘉氏―」
うっ――。
「あと、もうノーモア、無しね。さっきみたいの」
「さっき、みたいの?」
「黙っちゃうやつだよ。あれ苦しいもん、サンケツになるぅ」
また深呼吸を繰り返している。
ああ、そうですか。
――お?
天井のスピーカーが次の停車駅名を告げる。
「あの、忙しいところ悪いんだけどさ、荒木さんって乗り換えどこ?」
「おー、ちょうど今アナウンスしているこれだよ。言ってなかったっけ」
天井に指を向けている。彼女も池袋だったんだ。
「あ、僕も」
「ほう」
「で……何線だっけ?」
ホームの階段を並んで下りながら、今度は彼女の利用している路線を尋ねた。
「だっけ?」と言っても聞くのは今が初めて。無言タイムが長過ぎたせいだ。
「ニシ」
「えっ?」
「西の、方です、よっ」
降りるステップに合わせて軽快に答えているが、いったい何が言いたいのかよくわからない──ああ、なんだ。
「西武線?」
「ザッツライ、正解!」
人差し指をピンと立てている。
先ほどとはうって変わってずいぶんと上機嫌だが、思えば彼女もけっこう飲んでいるのだ。
ちなみに西武線が駅の東側、東武線が西側にあることは割と有名な話だが、この場合は方角のことではないらしい。
「比嘉氏は?」
「僕はとう……」
東武線。いやいや、ここは──。
「ヒガシ」
「ほっ?」
ちょうど階段を下り切ったところだった。
彼女はまるでバッグでも守るかの様に、一歩引いたまま固まっている。
だがすぐに鼻がウサギのそれの様にヒクヒクし始め、眉は「ハ」の字の形になり――。
「えっ、なにか僕……」
「ヒ……ヒ、ヒガシ? ヒッ、ヒッヒッハハハハハハ」
彼女はのけ反る様にして笑い始めた。
壁に近かったのは幸いだったが、通り過ぎて行く人々の視線が痛い。流れる川面に突き出た岩になった気分だ。
「ちょっと、荒木さ……」
「ひい、比嘉氏が、ヒガシって、ジャパニーズジョーク……ダジャレえ? アッハハハハ、もうっ、ムリ、ムリ……」
えっ、それ?
「そんなこと……いや、違うって。偶然だって……ねえちょっと、もう……」
「アハハハ、ハハハ……お腹痛い、お腹痛いよぉ」
改札を抜ける時にもまだ収まらず、僕の腕にすがり付きながらも半分クニャクニャの状態だった。
仕方なく彼女の定期入れを奪い取ると、僕のと一緒に「二枚持ち」で構え、トランプの様に提示しながらヨタヨタと通過した。
立って改札をしている駅員は、定期券よりもむしろ僕らの顔に視線を向けており、明らかに「あーあ、女の子をこんなに酔わせちゃって」という表情で見下ろしていた。
たぶんこれは被害妄想ではない。
改札口を出てすぐのところにある、駅構内ではお馴染みの四面に大きな広告を纏った太い柱。
取りあえずいったんその懐に落ち着いた。
「ちょっと大丈夫? 荒木さん」
「はあ……ハハハ、うん、オーケイ。ごめんね、ひが……」
また鼻をヒクヒクさせている。
「もういいって」
「ソーリー、ごめんごめん。なんか急にアルコールが回って来ちゃったのかな、緊張が途切れたとたんに。アハハ……」
正直ここまで酔っているとは思わなかった。
というか――。
「緊張って、荒木さんでも緊張なんてするの?」
「オーっと、どういう意味?」
「いや、いい意味で、だよ」
「ああそうですか。私だって今日みたいなパーティー……合コン? 行くことないんだよ、滅多に。だから緊張するのっ、それなりに」
腕を「パン」と叩いてくれた。というか、まったく行かないわけじゃないんだね。
「しっかりしてなくちゃって思ってたのに、家に帰るまでは。緊張感がコッパミジンだよ、誰かさんのお陰で」
「えっ、僕のせい?」
すると彼女は急にスタスタと歩き出した。
一瞬焦ったが、単に柱を一周して戻って来た。
「ほらどう? しっかりしたもんでしょ、足もとなんて」
「ああ……うん、そうだね」
ついでに片足で立ってみせたりもしている。
「なんかね、スッキリした。思い切り笑ったら。イチバン笑ったかもしれない、こっちに来てから」
「ホントかなあ」
「ホントホント。でも今日はサンキュ。比嘉氏ってこんなに楽しいひとだったんだね」
お礼の「サンキュ」の初めのTHを、相変わらずきれいに発音する彼女。
「いや、そんなことは……」
別に笑わせたつもりはないんだけど。
「じゃあ、あっちだから、私。比嘉氏は……ムフフ、そっちだね」
東武線の改札は割と近い。
この辺りにはもう表示がけっこう出ている。
「スィーユー。またね、比嘉氏」
「……ああ」
ここでお別れか――。
「バイバイ」
「うん……」
彼女が背を向けて歩き始めた。
「意外に」というか、僕の足は自然と動いた。
「待って、荒木さん」
「うん? どうしたの……えっ」
彼女がすぐに立ち止まったので、そのまま追い抜いてしまったのだ。
今さら止まれない。
「か、改札まで送るよ。ああ……ニシの電車の」
歩きながら背中越しにそう言った。
どんな顔をしているのだろうと不安になった頃、パタパタという足音が追いかけて来た。
「ちょっと待ってよぉ、比嘉氏ぃ」
笑い声が混じっていたので、取りあえずはホッとした。
だがそんなことも束の間、西武線の改札には意外なほどあっさりと到着してしまった。
えー、もう? という感じだ。
「またね、比嘉氏」
「……ああ」
ここでお別れだ。
「バイバイ」
デジャヴではない。
わざわざ場所を変えてまた同じことを繰り返している。
彼女が背を向けた。
行ってしまう――これでいいのか?
おい、比嘉氏!
「あ、あの……荒木さん、今度……」
情けない。蚊の鳴くレベルの、小さくてか細い声――。
「オー、そうだ比嘉氏」
彼女が振り返った。
蚊の鳴く声との因果関係が無いことは明白だが、足早に戻って来た。
「……な、なにかな?」
「何か予定ある? 次のウイークエンドって」
「無い」
用件を言わずに人の予定を先に聞いてくる人間が――嫌い、じゃなかったか?
「ホント? あのさ、実はあるんだけどね、ちょっとしたコンサートが」
「コンサート?」
「そう。マイ、グランマ……おばあちゃんの古いお友だちが、今度こっちで出演するの。チャリティコンサートに。ぜひ行ってみなさいって、おばあちゃんが」
「なるほど」
「一緒に行かない? よかったら。内容的には、まあハワイアンミュージックみたいな曲が、多いとか多くないとか……そういうの、興味ないかな?」
「いや、馴染みはないかもしれないけど……うん、行ってみたい」
「リアリィ? 大丈夫?」
「あ、でもさ。僕でいいの? 他の友達とかじゃなくって……」
「オフコース! くわしい時間と場所は……うん、電話する。帰ってから」
誰の発案だったか「連絡先リスト」がゼミのメンバー全員に配布されたのはこの春のこと。
だが、こんなことでもなければ、彼女から電話が来ることなど永遠に無かっただろう。
「うん、わかった」
「比嘉氏」
「うん?」
「ありがとね、送ってくれて。バイバイ!」
「あ、うん。バイバイ……」
改札を入ってからも、彼女は振り返ってもう一度手を振って来た。
姿が見えなくなっても、なぜだかしばらくは動けなかった。
「ハーイ、荒木です。まだ、着いてないよね? ああ、いいのいいの。待ち切れないというか……まあほら、忘れないうちにね、入れときます。コンサートの日時は……おっとその前に、お礼だね。今日はサンキュ、ありがと! ホンッ……トに楽しかった! 比嘉氏と話せて。あ、一応言っとくけど、最初から思ってないからね。ピンチヒッターだなんて。だから、これからもヨロシク! それじゃあまた……ああ、違う違う、言わなくちゃね、肝心なコンサート情報を……」
帰宅したら、既にこれが留守電に入っていた。
今日ほど、部屋の電話機を留守番電話機能付きの機種にしておいて良かったと思ったことはない。
お読みいただき、ありがとうございます。
「6.スパムむすびとポークおにぎり」 へ続きます