3.CROSS ROAD
◇
「お義父さんには、必ずあなたから電話入れておいてくださいね」
「……ああ、はい」
羽田空港出発ロビー。
妻の言っていた通り帰省は久々で、前回は確かまだ海斗が中学に上がったばかりの頃だったと思う。
「あと喪服と、それからお香典袋は用意しておいたから。中身とか表書きとかは自分でやってよね」
既に荷物は預けてしまい、妻の手にあるのは小さな白いポーチのみ。海斗はスマートフォンと、それ以外はジーンズの膨らんだポケットの中に押し込まれているのだろう。
「じゃあ、行くから。逐一連絡は下さいね、何もなくても」
「ああ、うん」
何もなくても逐一、とは?
「まったく。ドタキャンだなんて酷い父親よねえ、海斗」
そう言いながら歩き始めた母の後を、「くるり」とターンを決めた息子が付いて行く。
だが程なく妻は海斗を振り返り、軽く頭を小突いた。
「歩きスマホ」を咎めているのだろう。
まあ、それについては同感だ。
「こら、スマホ大臣。アンタ今度それやったらクビにするからね」
いつもの叱責が聞こえてきそうだった。
二人はそのままゲートの通過を待つ列に加わった。
しかしこうして見ると、海斗もずいぶんと背が伸びた。
一七〇センチに到達したらしいので、母を抜いて父に追いついたわけだ。
小さい頃から髪が耳に被るのを嫌い、今でも短めに切り揃えている。
父としては、文字通り密かな親近感を覚えている。
「向こうに着いたら連絡をくれ」
SNSで海斗にメッセージを送った。
「わかった。はやく来てよね」
即座に返信が入る。
さすがスマホ大臣だ。
やがて妻はそのままゲートを通過したが、海斗はその前にいったん振り返り、こちらに手を振ってから入って行った。
父が見届けたかったのは、案外これだったのかもしれない。
妻のペースに煽られたものの、考えたら教授の葬儀は明日の午後。
焦っても仕方がない。
ロビーの案内板にあった「展望デッキ」という表示に目が留まり、エレベーターで五階に上がった。
自動ドアを抜けると長大なタイル敷きのデッキと、空港全体を見下ろす空が広がっていた。
残念ながら今日は雲に覆われた真っ白な空。
飛び立つ白い機体との鮮やかなコントラストは拝めそうにない。
ワイヤーフェンスに近づき、二人の乗る便を求めて見渡してみる。
それらしい機体はいくつかあったが、如何せん確証がない。
いや、あたりをつけて何便かを見送れば、必ずその中に該当する便があるはずだ。
風が気持ちいい。
愛煙家ならここでタバコを取り出す場面かもしれない。
だがもうそういう時代ではないし、そもそも僕には喫煙の経験がない。
ちなみにヘビースモーカーと言えば、今も僕の中では長谷川淳の代名詞だ。
「タケ。彼女だけは、おまえが連絡つけろ」
電話でのやり取りを思い出し、軽く溜め息をついた。
ポケットから彼女の電話番号が書かれたメモと例のハガキを取り出して、スマートフォンにその番号を入力する。
だが何度目かのコールの後、英語で既存の応答メッセージが流れた。
要は「留守番電話」だ。
――ま、こういうこともあるさ。
とは言え、聴きとれたのは「リーヴ」と「メッセージ」くらいのもの。
すぐに「ピー」という機械的な煽りに締め出され、無音のプレッシャーが始まった。
「……ハ、ハロオ、いや……」
必要ないだろ。
というか、出来ないし。
「あの……久しぶりです。シ、シンディ? 比嘉です。ええと、覚えてますか?」
カタい。
いやそれより、早く用件を言わないと――。
「……実は先日、瀬川教授がお亡くなりに、なりまして……いや、まだ知らないと思ったので、一応知らせておこうかなと。……で、葬儀の日時と場所ですが……ああ、これか」
必要事項を読み終えたあと、画面を凝視しながらしっかりと電話を切った。
そして極度の緊張を終わらせるために、大きく息を吐く。
いきなり耳に戻って来たのは、大気を根こそぎ掘り起こしてしまいそうな轟音。
すぐにここが空港であることを思い出した。
「お……」
滑走路を離れた白い機体が、あたかも背景に馴染むことを拒むかの様に、光沢のある重厚な身体を曇り空に押し上げて行く。
あれに二人は乗っている――不思議と確信めいたものがあった。
ふと考えたのは、ついさっきまで触れられるほど近くに居た家族が、今は遥か上空にあって、わずか一時間後には千キロに近い「取り返しのつかない」距離を隔ててしまうということ。
いや、まあそれは極論だろう。
文明の力を用いても会うことの叶わない場所へ行ってしまった――それは瀬川教授の方だ。
妻と海斗には明後日になればまた会うことが出来る。
触れることだって出来る。
もちろん、向こうが嫌がらなければの話だが。
シンディはどうだろう。
長谷川の言った「チャッチャと片づけろ」とはどういうことなのか?
彼に聞く気は毛頭ないが、物理的なことを意味しているのでは、きっとない。
だとすれば心の問題、すべては僕の心の中にこそあるのだろう。
実家の沖縄で待つ二人を、迎えに行く前に解決しなくてはいけない、先送りにしていた課題――。
僕は再び、スマートフォンの黒い画面を見つめた。彼女への電話も、問題解決のために必要なピースの一つなのかもしれない。
◇
「乾ぱーい!」
飲み会の開始を宣言する「乾杯」コールの四重奏。
そこへ重なる、ガラス容器のぶつかり合う音――。
僕が苦手としているセレモニーのひとつだ。
ところでこの「四重奏」の配置についてだが、男女が互いにクロスする形で座っている。
促したのはもちろん長谷川で、僕は残った席に座ったに過ぎない。
丸い紙のコースターに印刷されたロゴによれば、店名は「CROSS ROAD」、――交差点か。
毎日通る交差点に欧米風の店があるのは知っていたが、まさか自分が入る日が来るとは、思っていなかった。
「でも今日はありがとね、智恵ちゃん。来てくれてさ」
長谷川が、横に座る「智恵ちゃん」に向けてそう言った。
誕生日パーティーを開いた主賓のセリフに、聞こえなくもない。
「いえ、こちらこそ。あの、初めまして、小泉智恵と申し……あ、さっき言いましたよね」
彼女は照れくさそうにクスリと笑った。
長谷川が「ドンマイ」などと声を上げている。
言うまでもなく、荒木さんの友達というのは彼女のことだ。
背中まで届く髪には「ソバージュ」とかいう流行りのパーマが掛かっているけれど、その艶やかさがかえって「清楚さ」を印象付けるから不思議だ。
肩が露わになった紺色のシャツは、独特な柄でブランド名がわかるスカーフを首に巻いていたとしても、店の空調的にはちょっと肌寒いかもしれない。
まあ余計なお世話だろうけど。
「今日は仲間に入れて頂いて感謝しています。ホントにありがと。だよね? ノリコ」
二人は池袋にある翻訳会社で働く同い年のバイト仲間で、昼間に荒木さんから聞いたところによれば
「たまたまバイリンガルだからやってる私と違って、頭がいいんだよ、彼女」とのこと。
教えてもらった大学名は、確かに僕らのそれよりも偏差値が相当に上だった。
「うん。というかさ、私って、グレートだよねえ。こうやって完璧に応えてるなんて。可愛い友達を紹介して欲しいっていう長谷川氏のリクエストに……うん、うん」
きれいに巻き舌気味なRの発音をして答えた荒木さんが、腕を組んで大げさに頷くパフォーマンスを披露している。
ひょっとするとこれは、調子に乗りかねない長谷川へのけん制なのかもしれない。
「いやノリコちゃん、その通りなのよ。でもまさかマジで女優クラスを連れて来るとはねぇ……もう、さすが! ね? 智恵ちゃん」
「そ、そんなこと……」
戸惑う小泉さんを、満面の笑みで見つめる長谷川。
荒木さんは「どういたしまして」と天井のプロペラに向かって言っている。
「……あ、あのそういえば、三人が知り合ったのって、同じゼミに入ったことがきっかけだったんでしょ?」
小泉さんが軌道修正をした。
たぶん彼女はこの会に秩序をもたらす唯一の存在なのだ。
「その通り。だからまだ三ヶ月も経ってないフレッシュな関係なんだよねー。まあノリコちゃんとは、ランチしたことぐらいはあるけど、飲むのは初だし」
ランチには行くんだ。
それって、二人きりでってことなんだろうな――やっぱり。
「なるほど。え、比嘉さんは?」
「…………」
「比嘉ちゃん?」
「……えっ? ああ……そうだね、うん」
しまった、完全に聞きそびれた――。
「アハハ、そうだねって。比嘉氏、ちょっともう」
いや、なに? え?
「……フフ。ああ、彼とはね、今日が初めて。ちゃんと話したのは。だよね? 比嘉氏」
「あ……うん、そうそう。今日も何ていうか、ピンチヒッターみたいなものだからさ……」
「そんなことないって! 比嘉ちゃんこそ、俺がいちばん話してみたかったメンバーなんだよ。決まってるじゃん、四番だよ、四番」
「ははは……」
こ、この男だけは――。
「同感。私もすごく嬉しいもん。比嘉氏とこうやって話せたことが。だからやっぱり、来てくれてサンキュ、比嘉氏」
「こ、こちらこそ……」
荒木さん――。
「あ、ちなみに三人が出逢った、その『ゼミ』の内容とか聞いてもいい?」
「ああ、段階別教育論だよ。ま、簡単に言うと児童心理とか思春期とかさ、そういう……」
小泉さんの質問を受け、即座に長谷川が説明を始めた。
悔しいが、人前で話すことに対して物怖じしない彼は説明が上手い。
彼女もさすがという感じで、的確な質問を返しながら理解を深めている様に見える。
何だかこの二人を見ていると、高校の頃に、実家で毎週の様に観ていた「トレンディドラマ」を思い出してしまう。
お洒落な服を着て、お洒落な店で飲んでいるお洒落で都会的なカップル――。
「……それ、将来子育てする時なんかも、絶対知っておいた方がいい知識かもしれなーい」
小泉さんに至っては、容姿も髪型も服装も、まさに長谷川がさっき例えた「トレンディな女優」そのもの。
それに比べて僕なんて、ほとんどいつも、チェックのシャツにジーパン姿だ。
正直言って高校の時から何も変わっていない。
彼女の様な主人公達から見たら、所詮僕なんて一緒に飲む相手ではない、脇役の「友人A」なのかもしれない。
荒木さんはどうなんだろう?
やっぱり彼女も本心では、僕なんかと一緒に居ても――。
「えっ」
頬杖をついた荒木さんが、ニヤニヤしながら僕を見つめていた。
「チエ、綺麗だもんねぇ……うん、うん」
ええっ?
「ち、違うよ。違う違う」
「フッフッフ」
「違うって!」
引き続きお読みいただき、ありがとうございます
「4.なんだ聞こえているじゃん」 へ続きます