2.傘なんて必要ない
もちろん、僕だって気付いていた。
校門のところで話している男女二人組が、自分と同じゼミの学生だということぐらい、けっこう手前の方から見えて――しまっていた。
行き交う人波の大半は学生だ。
そのほとんどが手にしている傘を見て、今日初めて雨の予報が出ていたことを思い出した。
子供の頃から、傘を差す習慣が殆ど無いのだ。
「あ、ねえ比嘉君?」
声を掛けて来たのは、そう、長谷川という男子学生の方だった。
掲げているのはタバコを持った右手。
左手には高そうな黒い革のバッグ、腕には傘を引っ掛けているが、きっとどれもがブランド品なのだろう。
服装も黒いシャツに黒いジーパン、銀色のネックレスの様な物を付けている。
芸能人でもないのにこういう格好をするやつがいるとは驚きだ。
「あのさー、比嘉君って……」
下の名前までは知らないが、身長が僕より高いことなら見ればわかる。
一八〇センチ近くあるかもしれない。
それともちろん、一緒にいるあのコのことだって――。
「いや、会釈だけってそんな……えっ、行っちゃうの? 嘘でしょ。ちょっと、おーい」
ああ――やっぱりダメか。
「ちょっと、ちょっと、ちょっと、ははは、何で止まらないかなあ」
まわり込まれてしまった。
既にタバコは持っていない。
いったいどこに捨てたのだろう。
「つれないよー、比嘉ちゃーん」
比嘉ちゃん?
真ん中分けの髪をパサっとかきあげながら、ひとの顔をのぞき込んで来る。
馴れ馴れしく腕を触って来るところもまた、気に入らない点のひとつに加えておこう。
「挨拶、したけどね」
「あんなの挨拶だなんて、俺はぜったい認めない」
「…………」
「なーんちゃって! うそうそ、冗談。悪かったよ、なあ、行くなって」
どうして放っておいてくれないのだろうか。
「わかったよ。なに?用件は」
ここまで引き留められては無下に出来ない。
残念ながら「どう思われても構わない」なんて、割り切ることが出来る性分ではない。
「一応聞いとくけどさ、比嘉ちゃん、俺のこと覚えているよねえ?」
「ああ、うん」
「ああうん、じゃなくてさあ」
覚えているさ。
けど、どちらかと言えばこの男よりも、隣に居るあのコの事の方が――。
「……長谷川君だろ」
「ビンゴっ。あ、何なら淳って呼んでもらっても構わないし」
もう行っていいかな。
僕なんか呼び止めたって、別に話すことなんて――。
「じゃあ、私は?」
「えっ」
ピョコン、という感じだった。
目を逸らす間も無く、境界を跨ぐ様に僕の視界へと飛び込んで来た。
あえて見ない様にしていたことに気づいたからなのか――いや、見ない様にというか、まともに目を合わせられないと言った方が正しいのだけれど――。
僕らのゼミは学生が全部で十八名。
部屋もそれほど広くはない。
デスクの並びは「コの字」型で、瀬川教授はもちろん一番奥。
行くのが遅い僕は大抵いつも教授からもっとも遠い、ドアの近くの席になる。
あのコはいつも一番前に座っている。
だから少しぐらい横顔を見ていたって、罰は当たらないだろうと思っていた。
基本的に、みんな教授の方を見ているわけだし。
彼女は時どき肩に掛かる黒い髪を、こちら側に払うことがある。
その時に目が合わない様に気を付けてさえいれば、特に迷惑をかけることもない。
話したことなんてほとんど無かったけれど、それでも別に構わないと――。
「荒木さん」
「うわ。即答してるもんなー」
しまった、それも一理ある。
僕にもうちょっと、考えるフリでもする余裕があれば――。
「正解です、比嘉武幸くん」
「えっ?」
フルネームに驚いて、彼女とモロに目が合ってしまった。
だがここでさらに、とっさに視線を下に逃すというミスを犯した。
白い襟付きシャツの下、短いベージュ色のキュロットスカートっていうのか、健康的な彼女にお似合い服から伸びた細い素足に焦った僕は、慌てて横を見て、不自然なので空を見た。
「コの字」型の軌道だ、泣けてくる。
「でね」
「うんっ?」
続きがある様なので視線を戻すと、彼女も空を見上げていた。
無駄なことにつき合わせてしまった。
「正解の君に、ありますよ。お願いが」
首を傾げる様にしてニッコリとほほ笑んでいる。
いったい何のことだろう?
「でしょ? さっすがノリコちゃん。俺もそのつもりだったんだよねえ、以心伝心!」
長谷川淳と顔を見合わせて笑う彼女。
なんかちょっと嫌な気分になった。
ちなみに典子という名前、僕だって一応は知っている。
いやまあ、ぜったいに呼べないけれど。
「いやーお願いっていうのは、ほかでもないんだけどさ……」
言いながら、彼女と入れ替わる様にして長谷川が前へ出て来た。
心の中で舌打ちをする。
「比嘉ちゃん、今日ゼミのあと空いてる? ああ、夜ってことだけど」
「なに。何かあるの?」
用件を言わずに人の予定を先に聞いてくる人間が、僕は嫌いだ。
「だよねー。やっぱ気になるよねえ? 何があるのか」
肩に手を回してきた。馴れ馴れしいにも程があるし、怪しいにも程がある。
「いや実はさ、前からノリコちゃんに友達紹介して欲しいって頼んでたんだけどね。それならお互いにってことで、今日四人で飲むことになってたわけよ。そしたら、俺の友達の方が急にダメになってさ」
「私は言ったんだよ、構わないって。三人でも」
なるほど。
要するに彼は「合コン」という形式を目指しているのだ。
「ピンチヒッターってこと? いやいいよ、僕は」
「まあまあまあ、そう言わずにさ」
苦手なんだよ、そういうの。
本当に。
「ちょっとダメだよ長谷川氏。あんまりムリ言ったら悪いよ、急だもの」
荒木さん――。
「構わないんだよ? 比嘉氏も。ぜんぜん断ってくれて。いろいろあるでしょ、都合だって。ノー、プロブレム」
彼女、英語の発音きれいだな。
「はは、よく言うよ。比嘉ちゃんに目つけたのノリコちゃんの方が先じゃん。ほら、視線でロックオーン、みたいな? 典子ちゃんのその目線を見て、おっ、いいかもって思ったからー」
えっ。
「ちょっともう! ひと聞き悪いでしょおっ、目をつけただなんて」
長谷川の腕を軽く叩いたりしている。スキンシップだ。
「それはさ、嬉しいよ。私だって。確かに思った、来てくれたらいいな、比嘉氏がって。でも、だからって……」
え、本当に?
「えー、それじゃ一対二? まあ仕方ないか、急に来れなくなったのは俺の……」
「行くよ」
魔が差した、とはこういうことだろうか?
一瞬だけ空気が止まったあと、二人が僕に迫って来た。
「おっ、マジか? オッケー?」
「ホント? 比嘉氏、いいの? ホントに」
「ええっと……いや、その……」
二人して、パッと輝くこの表情。
もう遅い、今さら撤回は不可能だ。
「よし決まり。じゃあ、解散!」
言うが早いか彼は駆け出した。
いや決まりって、えっ、これで終わり?
「いやちょっと、長谷川君っ」
「ああ次の講義、別館だからさあ、俺!」
振り返り様、先走る足を抑える様に小刻みに跳ねている。
ちなみに「別館」とは中庭奥の長い石段を上がった先に建つ、行き着くのに最も骨の折れる校舎のことを指す通称だ。
「じゃあ、あとでなっ、ゼミで!」
見送っていた彼女が、クスッと笑った。
サラサラの黒髪が湿度の高い六月の風に煽られたけれど、それくらい手でサッと払ってしまえば、また元通りに――。
「ん? なに?」
「えっ、いや……」
しまった、完全に見とれていた。
「比嘉氏、次は?」
「何が?」
「アハ、講義だよ。どこ? 校舎」
「あ、ああ……ええと、二号館」
「じゃあ、一緒だね、途中まで。行こ」
歩きながら、彼女は今日来る友達のことを話し始めた。
学校名とか、とってもいい子だよ、とか。
でも情けないことに、緊張でなかなか頭に入って来なかった。
その時、初めて彼女も傘を持っていないことに気づいた。
だがもし降って来たとしても、僕には貸してあげられる傘が無い。
長谷川ならサッと傘を開き、あの「あいあい傘」という技を簡単に実行して見せるのだろう。
「あ……」
彼女が立ち止まり、空を見上げた。
「……少し陽が射して来たね。なんかさっきまでは、今にも降り出しそうな空だったのに」
「うん」
朝から灰色一色だった空に、いつの間にか白っぽい「ひび割れ」が生まれていた。
そこから射してくる白い光の帯が、雲の向こうに青い世界があることを教えてくれている。
彼女がどんな表情をしているのか気になって、目を向けてみた。
空を見上げる彼女のはにかんだ笑顔は、射し込んできた淡い光を受けて、輝いて見えた。
また見とれてしまった。
今日はきっと、傘なんて必要ない。
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「3.C ROSS ROAD」 へ続きます