21.元気のミナモト
帰宅して玄関の扉を開けると、電気のスイッチに手を伸ばすより先に、電話機の光に視線が向かう。
外出した日は、ほとんどそれが習慣となってしまった。
もちろんランプが点滅していなければ、その時点でメッセージが残されていないことはわかってしまう。
部屋の灯りをつけたあと、流れで留守電の解除ボタンを押す。
「ゼロ件デス」
抑揚の無い機械の声と、ピーという冷たい電子音。
これもいつものこと。
「…………」
日々、この音によって蓄積されて行く失望感。
何でだよ? どうしてただの一度も連絡をくれないんだよ―― 睨み付ける様に、罪の無い電話機を見据える。
もちろん何も答えてはくれない。
そんな機能は付いていない。
こちらからも何度か電話をしてみたものの、留守電にメッセージを残す意味があるとも思えず、決まってそのまま受話器を置いた。
そんなことをしているうちに、気付いたら「ニシ」の改札に向かっている様なことが何度かあった。
そしてついにはそのまま電車に乗り、彼女のマンションの下まで来てしまった。
見上げると、彼女の部屋の窓にカーテンが引かれているのが見えた。
エントランスにも目をやるが、その先には「自己嫌悪」しか待っていないことが明らかなので、ゆるりと背を向けた。
例のバス停のベンチが見えた。
年配の女性が腰をおろしてバスを待っていた。
溜め息をつき、やるせない気持ちのまま歩き始めた。
蝉の声は相も変わらず騒がしいし、大学構内の木々も強い日差しを受けて青々と生い茂っている。
だがそんなことなどお構い無しに、夏休みは予定通りに終わりを告げた。
既に九月も半ばを過ぎ、一方では残暑に混じる秋の気配を無視するのが難しくなって来た。
彼女の言っていた「一週間」が過ぎ去って久しいある日の午後。
講義が終わって外に出た僕の前を、仲良く腕を組んだカップルが通り掛かった。
談笑しながら楽しそうにキャンパス内を歩いて行く。
目で追っていた自分に気付き、息を吐きながら顔を伏せた。
敵も居ないのに、勝手に惨敗した気分になって来る。
今日から瀬川ゼミも始まった。
「……それと、荒木君もご実家の事情で欠席になります。……では始めるとしましょうか」
長谷川の休学が発表されたあと、ついでの様にシンディの不在理由が説明された。
当然だろう。
長期の「休学」と同等に扱われては堪らない。
彼女がいつも座っている椅子に視線を向けると、一瞬だけ教授と目が合った。
そこは暗黙のうちに「空席」となっている。
ゼミのあと教授に呼び止められ、「何か聞いていますか」と尋ねられた。
「聞きたいのはこっちの方です」という意味のことを、もう少し柔らかい口調で答えた。教授も詳しいことは聞いていないらしい。
「元気ないですね」
たまたま客足が落ち着いていた平日の夕方。
まるちゃんが、レジカウンターの「オブジェ」と化していた僕にそう言って来た。
「……って、店長が心配してましたけど」
無論、彼女も同感に違いない。
「その後、何か進展はありました?」
そう聞かれて、無言で首を横に振った。
「そうですか……」
淀んだ空気。
無関係の後輩を巻き込むなんて、本当に最低の先輩だ。
事務所から「プルル……」という電子音が響いた。
「あ、電話だ。出て来ますね」
小走りに事務所へ向かった。
僕が言うのも何だが、離れる口実が出来て助かっただろう。
「比嘉さーん」
彼女はすぐに戻って来た。
表情が妙に明るい。
「電話、比嘉さん宛ですよ。たぶんその、比嘉さんの元気のミナモトというか、ええと……有名な写真家さん? みたいな名前の人からです、女の」
開けそこなったドアに肘をぶつけつつ、慌てて奥へと走った。
我ながら、かなりダサい。
「もっ、もしもし?」
「タケ?」
「シンディっ?」
「ただいまー!」
彼女の声。
紛れもなくシンディの声だ。
「帰って来たの? えっ、いつ? 今日ってこと? なに、今どこなの?」
「ハハハ、ちょっと質問多すぎ。……うん、今着いたとこ、成田にね。早くタケの声が聞きたくて、思わずバイト先に電話しちゃった。マズかったかな?」
「そんなことより、どうして一度も連絡くれなかったんだよ? ぜんぜん一週間どころじゃなかったじゃん。こんなのいくらなんでも……」
「あれ、そんなに寂しかったぁ?」
「茶化すなっ」
「ああ、ごめん……」
鼻の奥が「ツン」となった。
さすがにそれを悟られたくはなかったが、彼女と離れるのが僕にとってどれほど辛いことなのかを、改めて思い知らされた気がした。
人の気も知らないで、笑いを含んだ声が受話器から響く。
「……でね、つきましてはこのあいだのデートの埋め合わせをしたいんだけど……バイトの休みは、いつ?」
「ああ、それなら……」
正直、早退してでもすぐ会いに行きたかった。
明日のシフトを「ドタキャン」したっていいし、何ならバイトを辞めたって構わない。
いや、でもここは――。
「……うん、三日後の土曜が休みだったかな。その翌日はまたシフト入ってるけどさ……」
こんな時にまだ強がろうとしている自分にも驚かされるが、これを散々いいように待たされたことに反抗してのプライドと呼んでいいのかどうかも、わからない。
「三日後ね……うん、まあちょうどいいのかな。済ませたい用事もあるし……オーケイ、じゃあ決まりね」
ようやく、彼女に会える――。
だが、気になるのは彼女がこんなに長いこと連絡をくれなかった理由だ。
「……ところで、向こうで何があったの?」
「え? うん……まあ、会った時に話すよ。電話じゃアレだし、何か、今日は疲れちゃったし。時差ボケかな? ハハハ」
言われてみれば、声に確かな疲れの色が感じられる。
「そっか……」
「でも、久しぶりに元気そうな声を聞けてよかったよ」
「うん、僕も」
「じゃあ、土曜日にね。この間と同じ水族館前でいいよね? 九時半だっけ」
即座に「うん」と答えた。単純に、それが臨海水族園の開園時間なのだ。
「じゃあ三日後」
「うん、気を付けて帰ってね」
「ありがと」
受話器を置いた後、ふと、夜にでもまたかけ直して「やっぱり明日も会おうか」と提案することを考えたが、どうにか思い止まった。
戻ったばかりで、本当に彼女は疲れている。
それに、別に慌てることもないと思った。
だってこれからまたいくらでも会えるわけだし。シンディはもう、帰って来たのだから。
「タケ!」
待ちに待った三日後の土曜日。
水族館のゲートに近づいて行くと、先に着いていた彼女が駆け寄って来た。
白いワンピースにレモン色のカーディガンを羽織っている。
「シンディ……」
会いたくて、それでもずっと会うことの叶わなかったシンディが、今僕の目の前に立っている。
魔法か何かの力でふっと現れた様な、不思議な錯覚に陥った。
「はい、これ」
渡されたのは「臨海水族園」のチケットだった。
お陰で現実に戻ることが出来た。
かなり早めに来て買っておいてくれたのだろう。
財布を出そうとすると、両手で制された。
「えっ、でも……」
「いいのいいの。お詫びというか、まあ色々あるし」
程なく開園時間となり、列を作っていた人々がゲートを通過し始めた。
「オーケイ、レッツゴー! 今日は思いっきり楽しんじゃおうね、タケ!」
彼女は僕の手を「ギュッ」と握って引き寄せ、ゲートに向かって力強く踏み出した。
水族館内では、見応えのあるサメやエイ、癒しのウミガメ、深海魚を始めとした珍しい海洋生物など、好奇心の赴くままに僕らは鑑賞と会話を楽しんだ。
「何か懐かしいよね……」
どちらからともなく口をついて出るこのフレーズは、海の近くで育ったことに由来する共通の感覚から来ているに違いない。話す程に、より親近感が強まって行く気がした。
「ウワーォ! 凄い、これって全部マグロなんだよね!」
「うん、凄い……」
圧倒されたのは、見上げる様な「ドーナツ型」の巨大水槽だった。
いや、説明文にはそう書いてある。
「2,200トンだって、この水槽!」
群れを成してグルグルと回遊するマグロが小さく感じられる程に、幅も高さも規格外だ。
「っていうか、ホントにマグロなんだね……」
言いたいことは何となく解る。
この魚はある意味「王者」なのだ。
「ねえ、こうかなー。こんな感じでしょ? ほらほら」
建物の外にいるペンギンたちの前では、そのコミカルな仕草を全力で真似る彼女の姿があった。
「ははは、上手い上手い!」
「笑ってないでタケもやってよー」
「えーっ」
驚いたのは、近くにいた子どもたちが一緒になってやり始めたこと。
しかも楽しそうに僕の後をついて来る。
そもそもペンギンといえば、子どもの人気は絶大だ。
やがてシンディが始めた「鳴き真似」に至っては子どもや親たちからも好評で、ちょっとした「誰がイチバン上手いか大会」にまで発展した。
「楽しかったねー」
ちなみに今は彼女と二人、公園内のレストランで、食後に流行りの「ティラミス」を堪能している。
「……でも、やっぱりシンディはすごいよ。子どもたちが、あっという間に心を開いちゃうっていうかさ……」
「うん。タケにもね」
「え? ははは、僕はぜんぜんダメでしょ」
まったく、何を言い出すかと思えば。
「そんなことないよ。子どもは平気で嘘をつく大人が嫌いなの。君はそうじゃないもん。タケを観る子どもたちの顔を見ればわかるよ、子どもは正直だから」
え――。
「あー、美味しかった。ねえタケ、あっち、海へ行ってみようよ」
シンディがレストランの窓越しに、公園の奥のほうを指さした。
公園の海に面したところに砂浜がある。
そうだった――海を間近に感じられるから、ここに来ようと思ったんだった。
「ああ、うん」
「日本に来てから、近くで海って見たことなかったかも」
そういえば僕も、東京に出て来てから海辺に行くことは、全くなかったことに気づいた。
波音を想像するとちょっと胸が高鳴る。
僕たち二人は、葛西臨海公園にある「人口的に造られた」砂浜に並んで立っていた。
まあ、そうだよな。
東京だもんな。
くすんだ色の小さな波が規則正しく、寄せては返していく。
説明板によると、この砂浜は埋め立て地を公園に造成する際に、人工的に造られた砂浜なんだそうだ。
もちろん遊泳は禁止とのことだった。
波打ち際では、小さな子どもがいる家族連れや若い人たちのグループなどが、楽しそうにはしゃいでいる。
どっちがすごいとか、これがよくないとかってことではないけど、当然のように、故郷の海とは様相が全く違っていた。
間違いなくシンディが見て育ってきた海とも違うはずだ。
行ったことはないけど、ハワイへは。
僕たち二人は、目の前にある景色については何も口にはしない。
砂浜で楽しんでいる人たちを眺めていた彼女は、僕の方を見て微笑んだ。
「ねえ、タケ。お願いがあるんだけど」
「え、なに?」
都会の中に作られた自然を背景にして、彼女が突然言ってきた。
「私、遊園地に行きたい」
えっ。
「あーもう、まいったな……」
今出て来たばかりのアトラクションを振り返り、逆に「うらめし」そうな目を向けてやった。
心身共にヘトヘトだ。
「怖かったねぇ、タケ」
まさかここ東京のど真ん中、後楽園にある遊園地の一発目に「お化け屋敷」を持って来るとは思わなかった。
ちなみにシンディはといえば、悲鳴を上げたり走ったりしゃがみこんだり、それはもう大騒ぎだった。
引っ張られ続けた僕のシャツの裾は、ワカメの様にフニャフニャだ。
次のジェットコースターでは、サイレンの様に叫び続ける彼女の横で、腹筋に力を込めたまま固まっている僕が居た。
コーヒーカップでは、調子に乗ってハンドルを回す僕と「やめてー」と懇願しながら頭を抱える彼女。
その直後には立場が逆転し、ぐったりする僕とそれを介抱する彼女の図式に変わった。
やがて観覧車に乗り込む頃には、既に夕空が褪せて行く時刻になっていた。
「隣に行ってもいい?」
ゴンドラが頂上に差し掛かる辺りでそう言われた。
向かいに座っていた彼女が僕の隣に移って来て、頭を僕の肩に載せてきた。
「このまま、時間が止まればいいのに……」
そう呟いたあと、彼女の方から唇を重ねて来た。
「乾ぱーい!」
二つの中ジョッキを合わせたのは、池袋にある回転寿司店のボックス席だった。
臨海水族園のマグロとの因果関係については、二人ともついに触れることはなかった。
「美味しいねー!」
レーンに両手を伸ばす彼女。
本日二皿目の中トロと三皿目の赤身を同時にゲットした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます
本編はあと2話くらいで、完結するかな?っていう感じです、多分…
是非、最後までお付き合いをお願いします!
「22.Re:Resort」 へ続きます




