20.呼び出しアナウンス
◇
 
バスタオルで頭を「バサバサ」と拭きながらダイニングに戻り、そのまま冷蔵庫の扉を開けた。
前に妻から「海斗が真似するからやめて」と咎められたことのある「暴挙」だ。
中から取り出した缶ビールを開けながら椅子に近づいたものの、何気なく立ったまま飲み始めた。
こういうのも妻はいい顔をしない。
ん?
テーブルに置いてあったスマートフォン、着信を知らせるライトが点滅していた。
海斗に設定して貰った色からすると、電話でもSNSでもないらしい。
きっと迷惑メールだろう――そう決めつけながらおざなりにつかみ上げると、そのまま腰窓へと歩み寄った。
いったんビールを窓枠に置いてからサッシを押し開ける。
夜風が気持ちいい。
一応スマホの画面を確認してみる。珍しいことに、届いていたのはショートメールだった。
それは電話番号を知ってさえいれば送信出来てしまう、簡易的なメールサービスで――。
あ。
「ご連絡、感謝します。ノリコ」
短い溜め息のあと、外の夜景に目を向けた。
赤く点滅する、サンシャイン60の航空障害灯が遠くに見えている。
「頑固だよな……まったく」
同意を求める様にオリオンの缶を見つめたあと、また一口煽った。
◇
「手伝いますね」
陳列棚の前で商品の補充をしていると、バイトのメガネちゃん――もとい、元メガネちゃんが横へ来て手伝い始めた。
「お、ありがと」
店長による「メガネちゃんコンタクトにしちゃったの?」という不躾な質問に対し、彼女が「はい」と答えたのはつい先週のこと。
当然、そのあだ名は取り下げられた。
「あれ、けっこう焼けた?」
「ええ。昨日クラスの友達と豊島園のプールに行って来たんです。焼け過ぎて痛いですよ」
頬っぺたとか腕とか、今が「赤さ」のピークだ。
「そっか。でもいいよねー、やっぱり夏はプールだよなあ」
「…………」
無言で僕の顔をじっと見ている。
「……えっ、 何かついてる?」
「いいえ。ご機嫌だなーと思って。ていうか、ちょっとビックリです」
「何が?」
「だってかなり珍しいですよ、比嘉さんがこんな風に話し掛けて来るなんて」
「あ、ごめんウザかった?」
「そうじゃなくて。あんまり他人に興味がない人なのかなーって、思っていたもので」
「いや、別にそんなことは……」
うわ、そう来たか。
「ほら、私がコンタクトに変えた時だって、特に何も言わなかったじゃないですかー。こんなにわかりやすい変化なのに」
うっ――。
「ははは、そうだったかなー……」
「最近、何かイイコトでもありました? 店長がぼやいてましたよ。彼、近頃シフト変更が増えたんだよねーって」
「……いや、それはまあ、色々と……あ、店長と言えばさ、今度はどうして『まるちゃん』なんて呼ばれてるの? 君」
もしあのアニメのキャラクターのことを言っているのであれば、「おかっぱ」っぽい髪型と童顔のせいかもしれない。
「ああ。なんか性格が似てるらしいですよ、あの『まるちゃん』に」
言いながら肩をキュっと上げている。
いや、まさかそっちで括るとは――。
「困ったもんだねえ、店長にも」
「別にいいんじゃないですか? きっと名付けずにはいられないんでしょ、店長あだ名大臣ですから。ま、一応悪気はないみたいだし」
「まあねえ……」
達観している。
僕なんかよりもよほど彼女の方が「新人類」だ。
「で、結局どうなんですか? 比嘉さん。やっぱり何かイイコトあったんですよね? ごまかさないでくださいよー、もう」
「ええ? へへへ。いや、まいったなあ……」
表情が緩むのが自分でもわかる。
伸びていないだろうかと、思わず鼻の下を触った。
「今度の日曜日だって、シッカリお休み取ってるみたいじゃないですかー。もしかしてカノジョさんとデートとか?」
「うーん……まあ、そんな感じ? ははは」
「へえー、やっぱり! いるんですね、付き合ってるひと!」
「まあ、うん……」
「比嘉さんも、スミに置けないですねっ」
なぜだかふと、コミュニケーションという言葉が浮かんだ。
ひょっとして「恋愛話」というのは、誰しもある程度の会話を続けることの出来る、便利な共通項なのかもしれない。
「ほら君たち、口だけじゃなくてちゃんと手も動かしてよー。夫婦漫才のナントカ花子じゃないんだからー」
噂のあだ名大臣だ。
「はーい、すいませーん」
そう応えたのは僕。
まるちゃんは手で口を押えて笑いを押し殺していた。
八月も残り少なくなって来た快晴の日曜日。
僕らがデートの場所に選んだのは、葛西臨海公園という昨年オープンしたばかりの広大な施設だった。
目と鼻の先にあるディズニーランドも候補に挙がったが、文字通り海を間近に感じられるこの臨海施設に行ってみようというのが、今回一致した二人の思いだった。
ちなみに、今はまだシンディと合流していない。
現地で落ち合おうと言い出したのは僕の方で、下見という程のことでもないが、早めに来て周辺を少し歩いてみたいと思ったのがその理由だ。
腕時計を見た。
待ち合わせ時刻までにはまだ時間がある。
駅の階段を降りて地上に降り立つと、臨海公園の敷地はすぐに始まった。
園内を貫く綺麗なブロック敷きの遊歩道を進んで行くと、途中で「臨海水族園」と書かれた案内板が現れた。
ちなみにそこへ行くには左折、このまま直進すると海岸へ行きつくらしい。
とりあえず、彼女には「水族館前で待ち合わせよう」と告げてある。
左に折れて進むと、陽光を浴びてキラキラと輝く硝子ドームが見えて来た。
肝心の水族館については、その丸いシンボルの下にあるエスカレーターを降りた先にあるらしい。
ドームの手前に、施設の入り口と思しきゲート状の白い建物があった。
奥には券売機や受付窓口らしきコーナーも見えるが、新しいスポットということもあるせいか、とにかく中は人が多い。
行列も出来ている様だが、無論チケットを求める人々の列だろう。
もっと早くに来て購入しておくべきだった――そう思ったが、時すでに遅し。
待ち合わせ時刻が迫っているので、もはや彼女と合流してから並ぶしかなかった。
周囲にはタバコを吸っている中年男性の姿が多い。
大方並ぶのを奥さんにでも任せ、自分だけ人混みから避難して来た大黒柱なのだろう。
中へは入らず、建物のすぐ脇に立って待つことにした。
近くの壁に、海洋生物のデザインがあしらわれた鏡の様なパネルがあった。
黒いシャツを着た僕の姿が映っている。
如何にも買ったばかりの「おニュー」なのが見え見えだが、実際にそうなのだから仕方がない。
手で髪をすいてみる。
いったい僕は何をやっているのだろう。
どちらかといえば、公衆トイレの洗面台にある鏡の前で、いつまでもヘアスタイルをいじくり回している男子を見て「うんざり」するタイプだったのに。
長谷川の言う通り、少なからず自分は変わったのかもしれない。
まあ、その善し悪しは別としてだが――。
「……お越しくださいませ。繰り返し、お客様のお呼び出しを申し上げます……」
あれ?
今、僕の名前が呼ばれはしなかったか――。
駅やデパートなど、公共の場所で流れる「呼び出し」のアナウンスは日常茶飯事で、当事者になった経験のない僕にとっては「BGM」と変わらない。
気付くのが遅れたとすればそのせいだろう。
「……区よりお越しの、比嘉武幸様。お連れ様よりお電話が入っております。いらっしゃいましたら……」
シンディだ。
えっ、どうしたのだろう――。
「すいません、ちょっ……あ、通ります……」
人混みをかき分けて進み、入場ゲートの女性係員に近付いて行って声を掛けた。
「あの、今放送で呼び出された者ですけど、事務所っていうのはどこに……」
たぶん「遅れる」という連絡だとは思うが、待つのは別に構わない。
まだ見に行っていなかった海岸の方にでも足を延ばせば、時間などあっと言う間に過ぎてしまうのだから。
案内された通り窓口の横にある扉をノックして入室し、渡された受話器を耳にあてた。
「もしもし?」
「タケっ?」
「もう、びっくりするじゃん。今どこ?」
「ごめん! 私、今日行けなくなっちゃった……今ね、成田なの」
「えっ、成田って……」
空港に到着する人を迎えに行った、もしくは、成田に住む知人に会いに行った、とか?
「……急にね、ハワイへ行かなきゃいけなくなって……タケの部屋に電話したけど、もう出た後みたいだったから……あー、もう飛行機の時間が……」
え――。
「私、今日すっごく楽しみに……うわ、テレホンカードの度数がもう残り少ないよ……」
公衆電話専用プリペイドカードのポイント数のことだ。
僕が電話口に来るまでの間もどんどん減っていたのだろう。
いや、そんなことより――。
「あの、あっちで何かあったの?」
「それがね……あっ、切れちゃう! とにかく、一週間ぐらいで帰って来られると思うから、そしたら絶対に今日の埋め合わせをするからさ……」
彼女がすごい早口で答える。
「あっ、ねえシンディ」
「ちゃんとおみやげも買って来るし、それから……」
――切れた。
無情な「ツーツー」音が「早く切ってはどうだ」と急かして来る。
「……うん、じゃあそういうことで」
一応そう言ってから、事務所の人に受話器を返した。
まったく、わけがわからない。
水族館へ向かう人波に逆行して歩くことになった。
来た時と違い、遊歩道のブロックさえも色あせて見える。
案内板があった分岐点まで戻って来ると、何となく海の方角を振り返った。
真っ直ぐに延びて行く道は緩やかな上り坂になっており、にじむ陽炎の向こうに水平線がちょっとだけ見切れている。
溜め息が漏れた。
少し前に、その溜め息ばかりついて過ごしていた日々のことが思い起こされた。
いやいや、別にあの時と同じではない。
状況がぜんぜん違う。
衝突したわけでも、感情の行き違いがあったわけでもないのだ。
彼女は何らかの事情で、いったんハワイへ帰省した。
でも一週間後にはお土産を持って帰って来ると、本人がそう言っている。
とにかく信じて待とう。
それがシンディの「彼氏」である僕にとって、今出来ることの全てだ。
踵を返し、駅に向かって重い足を踏み出した。
「手伝いますねー」
出勤早々、まるちゃんがやって来た。
「比嘉さーん、どうでした? カノジョさんとのデー……」
「…………」
「わかりやすっ」
眉をピクリと上げながら「まるで別人ですね」と彼女は続けた。
そう。数日前はやけに饒舌だったクセに、今は覇気のない無口な男。
確かにわかりやすい「ひとり明暗」だ。
何とでも言えばいいさ。
性質なんてそう簡単には変わらない。
僕は元々こんな感じだ。
「で、何があったんですか?」
「……ああ、うん」
「ああうん」
「…………」
情けないことに、出るのはやっぱり溜め息ばかり。
今日は仕事にも全く身が入らない。
商品の補充だって、後輩の彼女の方が手は早い。
「……いや、結局行かなかったんだよね」
「え?」
「正確にはまあ……中止かな」
「中止って……え、理由は何なんですか?」
けっこう食い下がって来るタイプだ。
「ホントに知りたいの? そんなこと」
「知りたいです。大学生のデートとか恋愛とか、女子高生的にはかなり興味ありますもん」
「……だから……何ていうか……その、彼女がね、急にハワイへ行くことになってさ。それで」
「うわ、さっすが大学生。ドタキャンの理由もグローバル!」
「え? ドタ……なんだって?」
「ドタキャンですよ。土壇場でキャンセルすること。好きな人にされたらショックでしょうねー、経験ないですけど」
「ちょっと君たちー」
店長だ。
「ホントにぎやかだよねー。それじゃまるで……」
「店長。まるこ、頑張りますから」
胸の前で「ギュッ」と両手の拳を握りしめ、目をパチクリさせている。
「……あ、ああそうだね。ちゃんと、手を動かす様にね」
「はーい」
店長に見えない様に舌をペロっと出し、ニッコリと笑った。
うん、成長著しい。
続けてお読みいただき、ありがとうございます
スマホや携帯電話がない時代は、待ち合わせの変更も大変ですね
「21.元気のミナモト」 へ続きます




