表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Re:Resort  作者: 雅あつ
2/25

1.あのビル

「ただいま」


 いったん体の向きを変え、今閉めたばかりの扉を見ながら後ずさる様にして靴を脱ぐ。


「こうすれば、あとで揃える手間が省けるでしょう?」


 妻が笑顔でそう言ったのは、まだ結婚生活を始めて間もない頃だった。

 そろそろ二十周年かもしれないと、ふと考える。

 あるいは来年あたりかもしれない。


「おかえりなさい」


 廊下へ踏み出すと奥のダイニングから妻の低い声が聞こえた。

 スリッパの音に反応している様で、毎日ほぼ同じタイミングになる。

 廊下の横にある部屋からは電子音が聞こえていた。

 ダイニングに辿りつくと、手前の椅子にカバンを置いた。


「ハガキ届いていたわよ、あなた宛てに」


 キッチンで洗い物をしている妻が、振り向きもせずにそう言った。

 テーブルに置かれているのは「比嘉武幸様」と印字された官製ハガキだ。


「食べるの?」

「ああ、うん」


 ラップの掛かった皿がテーブルから取り上げられ、電子レンジへと運ばれた。

 横目で見送りながら椅子に腰かける。

 ハガキを手に取って裏返すと、それは訃報だった。


「どなた?」


 教授――。


「ねえ?」


 瀬川教授が亡くなったことを伝える親族からの知らせ。

「九十六歳」という表記は、年賀状でお茶を濁していた僕にとって、罪悪感を思い起こさせるのに十分過ぎる文字列だ。


「ねえ、あなた聞いてる?」

「……ああ、ごめん。大学時代の、ゼミの教授だよ」

「行くの? え、いつなの?」


 洗い終えた食器を片付けながら返事を急かす。

 既に目を通しているくせにそう聞いてくるのには理由があった。


「告別式は明後日……みたいだな」


 食器棚の中からしていた、食器のぶつかりあう音が止む。


「どうするの? 実家に帰るのは明日からなのよ。あなたの実家に」


 初めてこちらを向いた眼は、すぐに僕の肩越しに後ろへと流れていった。

 妻の目線を追って振り返ると、背後のリビングにあるソファ脇には準備万端整ったスーツケースが二つ、整然と置かれているのが見える。


「……だいたい明後日って言ったらあなた、向こうの家でも法事が……」


 レンジの「チン」音に反応した妻がすぐ回収しに行ったので、その隙にキッチンへ入った。

 目当ては冷蔵庫の缶ビール、買い置きのオリオンビールだ。

 喉が渇いていた。 

 今日は一日を通して完璧な曇り空だった。

 それに反して、最高気温は軽く三十度を超えてしまった。

 だがこの「渇き」の原因は、たぶんそこではない。


「きっとお世話になった方なんでしょうね。顔を見ればわかるの。あなた何でもすぐ顔に出るから」


 ラップを外しながらそう続けて来る。


「そうなんでしょう?」


 缶のプルタブを引き開けながらテーブルへと退散した。椅子に身体を預け、ふた口ほど煽る。


「ああ……まあね」

「あの子、久しぶりの沖縄だってすごく楽しみにしているのよ。釣りにでも連れて行って、たまには父親らしいところを見せてあげたらいいのに」


 湯気の立つゴーヤーチャンプルーがテーブルに戻された。

 息子の海斗は地元の公立高校に通う二年生だ。


「そういえば、あいつは?」

「さあ。部屋でゲームでもしてるんじゃない?」


 玄関で漏れ聞こえていた電子音を思い出した。

 釣りならきっとゲームの世界でもやるだろう。

 生きた魚を触りたがるとは思えない。


「ねえ覚えてる? あれでも来年受験生なのよ、海斗。あなたからもそろそろ何か言ってくれると助かるんだけど」

「ああ、うん……」

「ああうん」

「…………」


 逸れた話はさておき、再び例のハガキを手に取った。もちろん被っている日にちは動かない。


「あっ……」


 ポケットのスマートフォンが震え出した。

 妻にもそれとわかる様に反応して見せたあと、取り出して画面を見る。


「……ああ。大学時代の、ゼミの友達からだ」


 別に報告は求めてないわよ、とでもいうような妻の顔を見上げながら、耳にあてた。


「よう、久しぶり。元気にしてるか? タケ」


 嘘ではない。聞こえてきたのは当時のゼミ仲間、長谷川淳の声だった。

 相変わらず口調は若々しいが、これでももう五十代になる「オジサン」だ。


「ああ、まあね。教授のこと……だよな?」

「そうだよ。いや、今日帰国してみたらいきなりこのハガキだろ? このところずっとご無沙汰してたからな……」


 別に海外へ行っていたことを鼻にかけているわけではない。

 そう感じてしまうこちら側に問題があるのだ。

 日本を留守にすることは、彼にとって特別なことでも何でもない。


「わかるよ」


 妻が背後を通って廊下へと出て行った。

 程なく、明日の準備の進捗状況を問いただす、彼女の声が聞こえて来た。

 相手はもちろん海斗だ。


「タケおまえ、どうする? 行くだろ、当然」

「えっ。ああ、それなんだけど……」

「行かない選択肢なんて無いわな。けっこう世話になったんだから、俺たち」


 思わず廊下を振り仰ぐと、ゲームに没頭する息子をたしなめる妻の声がした。

 今どきの言い方を借りるなら「いじる」とでも言うべきか。

 妻の「リーダーシップ」は概ね僕と息子の助けとなる。

「悪意のない鞭」の様に思えることもしばしばだが、そのことについて父と子で会話したことはない。


「……だからまあ、おまえから連絡しといてくれよな」

「え、何を?」

「はあ? おいちょっと、タケ」

「あ、いや……誰に、連絡しろって?」

「シンディ。他に誰がいるんだよ、いちいち言わせるなって」

「そう、だよな。ははは……」


 一瞬の沈黙。


「あれ? おまえまさか、まだ……」 

「そんなわけないだろっ!」

「は?」


 ――いや、何をむきになっているんだ、僕は。


「あ……というか、今さら何言ってるんだよ、みたいな……」

「おいおい、大丈夫かぁ? 勘弁してくれよなー、まったくもう」


 鼻で笑う、懐かしくも鬱陶しいこの感じ――。


「いや知らないんだ。その、連絡先とかさ。だってあの頃まだ携帯なんて無かったし」

「えっ、おまえ知らないの?」

「ああ」


 悪いか。


「ふうん。じゃあ教えてやるよ、俺知ってるから」

「え?」

「俺を誰だと思ってんだよ。同じ大学の同窓生だぞ。その程度の人脈つなげるなんて余裕余裕」

「だったら、長谷川から連絡してくれれば……」

「タケ。彼女にはおまえが連絡つけろ。そんなのチャチャッと片づけてみせろって」

「いや、でもさ……」

「逆に失礼だろ。奥さんと、息子さんに」

「…………」


 こうやって、時おり正論めいたセリフを吐く。

 そういうやつなのだ、この男は。


「ちなみに彼女、あれからずっとあっちだぞ。連絡取り合ってるゼミ仲間はいないらしい」


 そうなんだ――。


「教えてやれ。知らないままだなんて、不憫すぎて涙がでる」

「いや、だからさ。それなら長谷川が……」

「聞こえません」

「ちょっと、おい……」

「まだかかりそう?」


 ――え? 受話器の外から声が。


「うわあっ」


 戻って来た妻が、すぐ後ろに立っていた。


「なによ」

「だっ、急に後ろに立つから。びっくり、するだろ……」

「ふうん、変なの」


 そのまま彼女はソファの方へと歩いて行き、スーツケースを開け始めた。

 中身のチェックでもするつもりなのだろう。


「ああ、奥さんか。何だって?」


 すぐに受話器を押さえたつもりが、普通に聞かれている。


「……いや、別に」 

「そっか。じゃ、番号教えとくぞ」

「えっ、番号?」

「ええと、ねえ……」

「ちょ、ちょっと待って、ちょっ……」


 ペンを持つジェスチャーをするが早いか、求める物がテーブルに置かれた。

 ありがとう。


「……うん……うん、ちなみにメールアドレスとかSNSは……」

「それは知らん。年賀状にあるのは電話番号だけだからな。別に掛けたこともないし」

「はあ?」


 なにが人脈だよ。


「おまえ、出すのやめたんだな。何でだ?」

「えっ……」


 要するに「シンディに」ってことを言っているわけか。

 いや、確か――そうだ、僕の方が返事を返さなくなって、いつしか向こうからも来なくなって――。


「まあいいや。とにかく頼んだぞ。またな、タケ」


 電話はあっさりと切られた。

 なんとなく、そのまま画面を見つめてしまった。


「それで誰だったの? ゼミ友、だったかしら?」


 スーツケースを再びしっかりと閉じながら、妻がそう聞いて来た。


「長谷川って、男友達だけど」

「ああ、チャラ男さん」

「え? そんなこと、前に言ったっけ?」

「ええ、結婚式の二次会の時にね。あなたがそう言って紹介してくれたのよ」


 泥酔していたのは間違いない。

 他にも変なことを言っていなかっただろうな――。

 それにしてもあまり関心無い様でいて、よく覚えているものだ。

 当時紹介してもらった彼女の友人を、僕はあまり覚えていないのに。


「そ、それはそうと……あの、申し訳ないんだけどさ、やっぱり君と海斗で先に行っといてくれないかな? 葬儀が終わったら、僕もすぐに向かうからさ……」

「はいはい」


 えっ。怒らないの?


「そう言われるような気がしてたわよ」


 すぐ顔に出る夫は、結果的に言葉数が少なくて済む。

 その善し悪しは別としてだが。


「すまない。ホント、ごめん……」


 もちろん、謝罪の言葉だけは別格だ。


「あ、それと」


 まだ、何か?


「あの件はどうなったのかって、また私に聞いてくると思うけど、何て答えればいい?」

「あの件?」

「もう、転職の件に決まってるでしょ。こっちの学校へ移る様に、あんたからも言ってくれんかねーっていう、あれよ」

「ああ……それ」


 学校と言っても海斗ではなく僕のことだ。

 これでも長年、中学校の教員をしている。


「最近は普通に電話して来るのよ、私に。あなたが煮え切らないから」

「いや、だからそれは……」


 そもそも言い出したのは、沖縄で教職に就いている遠縁の親類だが、どういうわけか僕の両親も乗り気になっている。

 こっちにその気がないことはもう何度も言っているのに。


「迷いがあるんじゃないの? そういうのが伝わっちゃうから、あちらもまだ可能性があるかもしれないと思って……というか、私が賛成すると思われている理由がわからないのよねえ……」


 ぶつぶつ言いながら廊下へ向かう妻。

 寝室とは方向が違うので、まだ寝るわけでは――。


「明日からのこと、私から話しておいた方がいいんでしょ? うちのゲーム大臣に」

「……ああ、うん」

「もう……。それ、食べ終わったらサッと水で流してシンクに置いといて。洗わなくてもいいから」

「あ、はい」

「あと、カーテン閉めといてくれる?」


「わかった」と答える頃には「ねえ海斗」と呼びかける妻の声は廊下の向こうに遠ざかっていた。

 とりあえず「言いつけ」通り、カーテンを引こうとつかんだ手がなんとなく止まった。

 そういえばここから見えたんだよな、あのビル――。

 池袋まで目と鼻の先、というわけにはいかないまでも、夜だと屋上の赤い点滅がここからでも良く見える。

 最近はほとんど気にも留めなくなってしまったが、僕が大学生の頃まではまだ、れっきとした「日本でいちばん高いビル」だった。

 ちょうど、その頃のことだったんだよな――。


「この東京のどこにいても見えるビルって嫌だな……」


 当時付き合っていた彼女の姿を、思い出させられる。


お読みいただき、ありがとうございます

ここから本編です


「2.傘なんて必要ない」 へ続きます

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ