1.あのビル
「ただいま」
いったん体の向きを変え、今閉めたばかりの扉を見ながら後ずさる様にして靴を脱ぐ。
「こうすれば、あとで揃える手間が省けるでしょう?」
妻が笑顔でそう言ったのは、まだ結婚生活を始めて間もない頃だった。
そろそろ二十周年かもしれないと、ふと考える。
あるいは来年あたりかもしれない。
「おかえりなさい」
廊下へ踏み出すと奥のダイニングから妻の低い声が聞こえた。
スリッパの音に反応している様で、毎日ほぼ同じタイミングになる。
廊下の横にある部屋からは電子音が聞こえていた。
ダイニングに辿りつくと、手前の椅子にカバンを置いた。
「ハガキ届いていたわよ、あなた宛てに」
キッチンで洗い物をしている妻が、振り向きもせずにそう言った。
テーブルに置かれているのは「比嘉武幸様」と印字された官製ハガキだ。
「食べるの?」
「ああ、うん」
ラップの掛かった皿がテーブルから取り上げられ、電子レンジへと運ばれた。
横目で見送りながら椅子に腰かける。
ハガキを手に取って裏返すと、それは訃報だった。
「どなた?」
教授――。
「ねえ?」
瀬川教授が亡くなったことを伝える親族からの知らせ。
「九十六歳」という表記は、年賀状でお茶を濁していた僕にとって、罪悪感を思い起こさせるのに十分過ぎる文字列だ。
「ねえ、あなた聞いてる?」
「……ああ、ごめん。大学時代の、ゼミの教授だよ」
「行くの? え、いつなの?」
洗い終えた食器を片付けながら返事を急かす。
既に目を通しているくせにそう聞いてくるのには理由があった。
「告別式は明後日……みたいだな」
食器棚の中からしていた、食器のぶつかりあう音が止む。
「どうするの? 実家に帰るのは明日からなのよ。あなたの実家に」
初めてこちらを向いた眼は、すぐに僕の肩越しに後ろへと流れていった。
妻の目線を追って振り返ると、背後のリビングにあるソファ脇には準備万端整ったスーツケースが二つ、整然と置かれているのが見える。
「……だいたい明後日って言ったらあなた、向こうの家でも法事が……」
レンジの「チン」音に反応した妻がすぐ回収しに行ったので、その隙にキッチンへ入った。
目当ては冷蔵庫の缶ビール、買い置きのオリオンビールだ。
喉が渇いていた。
今日は一日を通して完璧な曇り空だった。
それに反して、最高気温は軽く三十度を超えてしまった。
だがこの「渇き」の原因は、たぶんそこではない。
「きっとお世話になった方なんでしょうね。顔を見ればわかるの。あなた何でもすぐ顔に出るから」
ラップを外しながらそう続けて来る。
「そうなんでしょう?」
缶のプルタブを引き開けながらテーブルへと退散した。椅子に身体を預け、ふた口ほど煽る。
「ああ……まあね」
「あの子、久しぶりの沖縄だってすごく楽しみにしているのよ。釣りにでも連れて行って、たまには父親らしいところを見せてあげたらいいのに」
湯気の立つゴーヤーチャンプルーがテーブルに戻された。
息子の海斗は地元の公立高校に通う二年生だ。
「そういえば、あいつは?」
「さあ。部屋でゲームでもしてるんじゃない?」
玄関で漏れ聞こえていた電子音を思い出した。
釣りならきっとゲームの世界でもやるだろう。
生きた魚を触りたがるとは思えない。
「ねえ覚えてる? あれでも来年受験生なのよ、海斗。あなたからもそろそろ何か言ってくれると助かるんだけど」
「ああ、うん……」
「ああうん」
「…………」
逸れた話はさておき、再び例のハガキを手に取った。もちろん被っている日にちは動かない。
「あっ……」
ポケットのスマートフォンが震え出した。
妻にもそれとわかる様に反応して見せたあと、取り出して画面を見る。
「……ああ。大学時代の、ゼミの友達からだ」
別に報告は求めてないわよ、とでもいうような妻の顔を見上げながら、耳にあてた。
「よう、久しぶり。元気にしてるか? タケ」
嘘ではない。聞こえてきたのは当時のゼミ仲間、長谷川淳の声だった。
相変わらず口調は若々しいが、これでももう五十代になる「オジサン」だ。
「ああ、まあね。教授のこと……だよな?」
「そうだよ。いや、今日帰国してみたらいきなりこのハガキだろ? このところずっとご無沙汰してたからな……」
別に海外へ行っていたことを鼻にかけているわけではない。
そう感じてしまうこちら側に問題があるのだ。
日本を留守にすることは、彼にとって特別なことでも何でもない。
「わかるよ」
妻が背後を通って廊下へと出て行った。
程なく、明日の準備の進捗状況を問いただす、彼女の声が聞こえて来た。
相手はもちろん海斗だ。
「タケおまえ、どうする? 行くだろ、当然」
「えっ。ああ、それなんだけど……」
「行かない選択肢なんて無いわな。けっこう世話になったんだから、俺たち」
思わず廊下を振り仰ぐと、ゲームに没頭する息子をたしなめる妻の声がした。
今どきの言い方を借りるなら「いじる」とでも言うべきか。
妻の「リーダーシップ」は概ね僕と息子の助けとなる。
「悪意のない鞭」の様に思えることもしばしばだが、そのことについて父と子で会話したことはない。
「……だからまあ、おまえから連絡しといてくれよな」
「え、何を?」
「はあ? おいちょっと、タケ」
「あ、いや……誰に、連絡しろって?」
「シンディ。他に誰がいるんだよ、いちいち言わせるなって」
「そう、だよな。ははは……」
一瞬の沈黙。
「あれ? おまえまさか、まだ……」
「そんなわけないだろっ!」
「は?」
――いや、何をむきになっているんだ、僕は。
「あ……というか、今さら何言ってるんだよ、みたいな……」
「おいおい、大丈夫かぁ? 勘弁してくれよなー、まったくもう」
鼻で笑う、懐かしくも鬱陶しいこの感じ――。
「いや知らないんだ。その、連絡先とかさ。だってあの頃まだ携帯なんて無かったし」
「えっ、おまえ知らないの?」
「ああ」
悪いか。
「ふうん。じゃあ教えてやるよ、俺知ってるから」
「え?」
「俺を誰だと思ってんだよ。同じ大学の同窓生だぞ。その程度の人脈つなげるなんて余裕余裕」
「だったら、長谷川から連絡してくれれば……」
「タケ。彼女にはおまえが連絡つけろ。そんなのチャチャッと片づけてみせろって」
「いや、でもさ……」
「逆に失礼だろ。奥さんと、息子さんに」
「…………」
こうやって、時おり正論めいたセリフを吐く。
そういうやつなのだ、この男は。
「ちなみに彼女、あれからずっとあっちだぞ。連絡取り合ってるゼミ仲間はいないらしい」
そうなんだ――。
「教えてやれ。知らないままだなんて、不憫すぎて涙がでる」
「いや、だからさ。それなら長谷川が……」
「聞こえません」
「ちょっと、おい……」
「まだかかりそう?」
――え? 受話器の外から声が。
「うわあっ」
戻って来た妻が、すぐ後ろに立っていた。
「なによ」
「だっ、急に後ろに立つから。びっくり、するだろ……」
「ふうん、変なの」
そのまま彼女はソファの方へと歩いて行き、スーツケースを開け始めた。
中身のチェックでもするつもりなのだろう。
「ああ、奥さんか。何だって?」
すぐに受話器を押さえたつもりが、普通に聞かれている。
「……いや、別に」
「そっか。じゃ、番号教えとくぞ」
「えっ、番号?」
「ええと、ねえ……」
「ちょ、ちょっと待って、ちょっ……」
ペンを持つジェスチャーをするが早いか、求める物がテーブルに置かれた。
ありがとう。
「……うん……うん、ちなみにメールアドレスとかSNSは……」
「それは知らん。年賀状にあるのは電話番号だけだからな。別に掛けたこともないし」
「はあ?」
なにが人脈だよ。
「おまえ、出すのやめたんだな。何でだ?」
「えっ……」
要するに「シンディに」ってことを言っているわけか。
いや、確か――そうだ、僕の方が返事を返さなくなって、いつしか向こうからも来なくなって――。
「まあいいや。とにかく頼んだぞ。またな、タケ」
電話はあっさりと切られた。
なんとなく、そのまま画面を見つめてしまった。
「それで誰だったの? ゼミ友、だったかしら?」
スーツケースを再びしっかりと閉じながら、妻がそう聞いて来た。
「長谷川って、男友達だけど」
「ああ、チャラ男さん」
「え? そんなこと、前に言ったっけ?」
「ええ、結婚式の二次会の時にね。あなたがそう言って紹介してくれたのよ」
泥酔していたのは間違いない。
他にも変なことを言っていなかっただろうな――。
それにしてもあまり関心無い様でいて、よく覚えているものだ。
当時紹介してもらった彼女の友人を、僕はあまり覚えていないのに。
「そ、それはそうと……あの、申し訳ないんだけどさ、やっぱり君と海斗で先に行っといてくれないかな? 葬儀が終わったら、僕もすぐに向かうからさ……」
「はいはい」
えっ。怒らないの?
「そう言われるような気がしてたわよ」
すぐ顔に出る夫は、結果的に言葉数が少なくて済む。
その善し悪しは別としてだが。
「すまない。ホント、ごめん……」
もちろん、謝罪の言葉だけは別格だ。
「あ、それと」
まだ、何か?
「あの件はどうなったのかって、また私に聞いてくると思うけど、何て答えればいい?」
「あの件?」
「もう、転職の件に決まってるでしょ。こっちの学校へ移る様に、あんたからも言ってくれんかねーっていう、あれよ」
「ああ……それ」
学校と言っても海斗ではなく僕のことだ。
これでも長年、中学校の教員をしている。
「最近は普通に電話して来るのよ、私に。あなたが煮え切らないから」
「いや、だからそれは……」
そもそも言い出したのは、沖縄で教職に就いている遠縁の親類だが、どういうわけか僕の両親も乗り気になっている。
こっちにその気がないことはもう何度も言っているのに。
「迷いがあるんじゃないの? そういうのが伝わっちゃうから、あちらもまだ可能性があるかもしれないと思って……というか、私が賛成すると思われている理由がわからないのよねえ……」
ぶつぶつ言いながら廊下へ向かう妻。
寝室とは方向が違うので、まだ寝るわけでは――。
「明日からのこと、私から話しておいた方がいいんでしょ? うちのゲーム大臣に」
「……ああ、うん」
「もう……。それ、食べ終わったらサッと水で流してシンクに置いといて。洗わなくてもいいから」
「あ、はい」
「あと、カーテン閉めといてくれる?」
「わかった」と答える頃には「ねえ海斗」と呼びかける妻の声は廊下の向こうに遠ざかっていた。
とりあえず「言いつけ」通り、カーテンを引こうとつかんだ手がなんとなく止まった。
そういえばここから見えたんだよな、あのビル――。
池袋まで目と鼻の先、というわけにはいかないまでも、夜だと屋上の赤い点滅がここからでも良く見える。
最近はほとんど気にも留めなくなってしまったが、僕が大学生の頃まではまだ、れっきとした「日本でいちばん高いビル」だった。
ちょうど、その頃のことだったんだよな――。
「この東京のどこにいても見えるビルって嫌だな……」
当時付き合っていた彼女の姿を、思い出させられる。
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「2.傘なんて必要ない」 へ続きます