18.嫌ですねえ、本当に
「特に終盤は酷いものでした。それはもう……」
教授はいったんグラスに手を伸ばすと、目を伏せる様にしながらお茶で喉を潤した。
「戦いのさなか、この通り足に怪我を負ってしまった私は、野戦病院に入れられましてね」
脳裏に映し出された光景を見るかの様に、今度は眼差しを宙に向けた。
「いや、あれは病院などと呼べる代物ではなかった……。私が放り込まれたのは、真っ暗な洞窟の中でした。闇に目が慣れて見えて来たのは、そこいらじゅうの地べたに寝かされた負傷兵たちと、その間を甲斐甲斐しく動き回る看護要員……まだ年端もいかない少女たちの姿でした。とは言え、物資など手元に殆ど残っていない状況です。わずかばかりの水やら布切れやら、そんな物をどうにかやり繰りして凌いでいるようでした……」
シンディが小さく息を吐く音が聞こえた。
「そんな状態が何日も続く中、私はある一人の女子学生と、頻繁に言葉を交わす様になりましてね。もちろん負傷兵の為に働く看護係の一人で、元々は師範学校に通っていた、教員志望の学生さんでした。数えで十八だと言っていましたかね。話したきっかけは、彼女が大事そうに持っていた薄い冊子でした」
「サッシ?」
シンディだ。
「……ああ、要は紙を数枚綴じただけの、薄っぺらい本の様なもの、でしょうか。中身を尋ねると、少し照れ臭そうに『最後の授業』だと教えてくれました。お二人は知っていますかねえ……アルフォンス・ドーデというフランスの作家が書いた、短編小説ですが」
聞いたことがある。確かまだ幼い頃に――。
「読んだことがある様な気がします。僕がまだ小学校の頃だったかな……」
「でしょうね。今ではもう載っていませんが、最近まで国語の教科書にも採用されていましたから。その彼女が持っていたのも、そんなところから切り取った物の様でした」
「それは……どういうストーリーなんですか?」
再びシンディが尋ねた。当然だろう、僕だってうろ覚えだ。
「舞台は戦時下の国境地域、小さな村に暮らす教師と児童たちの物語です。対峙する国家間の戦争の結果によって、教育のみならず話す言葉までもが左右されてしまい、大いに戸惑う大人たち、そしてその影響を受ける子どもたちの様子が子どもからの目線で描かれています」
思い出した。
確かフランスが外国に戦争で負けて、フランス領だった地域が戦勝国に併合されることになり、主人公の少年が苦手だったフランス語の授業はその日が最後となるけど、その日の教師や周りの大人たちの様子を見て、今まで授業に不熱心だった自分を恥じていた時、教師が「国が破れても自分たちの言語があれば、滅びることにはならない」的なこと言って、終業ベルが鳴るとともに「フランス万歳」って黒板に書いたというような話だったと思う。
当時まだ知って間もなかった琉球王国の歴史や、ウチナーグチ――沖縄言葉との類似点を、意識しながら読んでいた記憶がある。
「まあ作品の政治的な思惑や作者の志向はともかく、彼女は戦争が終わったら学校の先生になって、その汚れた冊子の物語を子どもたちに教えるんだ、言葉の大切さや尊さを伝えるんだと、それはもう、泥で真黒な顔の中でも目をキラキラ輝かせて言っていました」
横の彼女が膝に揃えた手をキュっと握りしめ、少し身を乗り出した。
顔を盗み見ると、微かに笑みが浮かんでいる。
先生になりたいという少女の夢を、応援し始めているのは間違いない。
いや、だったら僕はどうなんだろう?
その少女は、教職を志した同郷の先輩ということになりはしないか――。
「彼女の力になりたいと思いました。出来ることは何でもして応援したいという気持ちになったのを、今でも良く覚えています。でも正直、生きて帰る事は叶わないのではないかという絶望感も、心を蝕み始めていた。だからこそ彼女の夢は、私にとっても一筋の光だったんでしょうねえ。あんな明日をも知れぬ、カビと血の臭いしかしない様な、真っ暗な洞窟の中では……」
思わず横に目をやると、彼女は唇をかみしめていた。
これからどうなるのだろうかと固唾を飲んでいる。
僕も同じ気持ちだった。
「そのうちに沖縄での戦いも最終的な局面となって、病院は解散。私たち傷病兵でも動ける者は、他の兵隊や一般市民たちと一緒に島の端っこに追い詰められて、いくつもの洞窟に分かれて逃げ込みました」
横でシンディが声を上げた。
「病院の……その、動けない人たちは?」
教授は苦しげに目を閉じ、ゆらゆらと首を横に振った。
僕が以前読んだ本にも、それに対する答えは明確に記されていた。
「その当時、私たちは軍人であれ一般人であれ、降伏する、捕虜になるということは断じて許されませんでした。動けない者は……皆、その場で自決しました。私のいた壕だけでも、何十人も……」
彼女が初めてこちらを振り向き、僕の目を見た。
「ジケツって?」
「……あ、その……スーサイド……」
「ノォオー!」
殆ど悲鳴に近かった。
続けて「クレイジー……」と呟いた彼女の声も聞こえた。
僕も、教授も、言うべき言葉が見つからなかった。
蝉の音は相も変わらず聞こえ続けている。
戦争末期の、六月の沖縄を思った。
両頬を手で覆ったまま俯いていたシンディが顔を上げ、ようやく口を開いた。
「……それで、どうなったんですか……。あの女子学生とかは?」
「……ああ、そうですね。私は他の負傷兵らと共に……たまたま、その教員志望の彼女と同じ壕……海に面した洞窟に、身を隠していました……」
残念ながらまだ、その少女が夢をかなえて教師になった話――というわけにはいかないらしい。
隣からも、溜め息に近い吐息が聞こえた。
教授が黙ると、間を埋めるのは蝉しぐれだけになる。
今は不安を煽る音でしかない。
「ある日、隣の壕にいる小さな子どもが……撃たれて、大怪我をしたという話が、私たちの壕に伝わって来ました……」
明らかに話の節々に間が多くなり始めていた。
それだけでも苦悩が伝わって来る。
「……彼女が、大事に取っておいた包帯……唯一洗ってある、真っ白で清潔な最後の一巻きを、隣の壕へ届けると言い出しました。危険だからやめておけと言っても、この壕では自分が一番若くて元気だからと、言い張るんですよ。彼女だって、もう何日もまともに食べていないのに……」
目の前の宙を真っすぐに見据えて話している。
この瞬間、教授の意識は当時の沖縄に帰っているのでは――そんな風にも思えて来る。
「確かに隣の壕までは、十メートルほどしかありません。だがゴツゴツした岩の斜面で足場は悪いし、米軍のボートは海上からさかんに機銃掃射をして来る。やはり無理だと言って皆で止めるのですが、ちょっと行ってすぐ戻るだけだからと言って聞かない。私なら大丈夫だと、笑顔まで見せて……」
教授は大きく息を吸った。
今日はもうその位で、と言うべきなのかもしれない。
でも――。
「……その壕で階級が一番上だった私が、入り口から外の様子を見て、大丈夫そうなら『走れ』と合図を出すことになりました。でもね……私には、どうしても……」
自分なら、どうする――。
「彼女の手を、強く握りました。頼むから今はやめておけと、そう言いました。すると彼女は……合図を下さいと言って、笑った……」
語尾が少しだけ苦しげに揺らいだ。
「まだ薄暗い、夜明け前です。米軍のボートが離れたタイミングを見て、彼女に合図を出しました。何とかなりそうだと思った。私は、掴んでいた手を離してしまったんですよ。彼女は包帯を大事そうに抱えて、駆け出しました。でも丁度その時、遠くの方で何かが爆発する様な音が聞こえました。気を取られたのか、彼女は岩に躓き、転んだんです……」
隣のシンディが、手で口を押さえたのがわかった。
「その時、持っていた白い包帯が宙に舞って、でも端をしっかり握ったままだったのがいけなかったんでしょうかねえ」
蝉の声が、不思議とまったく聞こえない。
「届けようとしていた隣の壕から、『降伏するのか、裏切り者』という叫び声と……銃声がして……」
シンディの瞳からは涙が頬を伝ってこぼれてきた。
口を覆っていない方の手は、いつの間にか僕の手に繋がれており、嗚咽を堪えるたびにギュッと力が入った。
教授はと言えば、潤んだ目を細めながら、ゆっくりと深く呼吸をしていた。
「……嫌ですねえ……本当に……」
唇を震わせながら、小さく絞り出した。
「……戦争は」
そう呟きながら、髪を撫でつける様にして頭に手を置いて、口を閉じた。
しばらくの静寂から、徐々に蝉の鳴き声が耳に入って来た。
「……ちょうど終戦の日だったもので、つい、こんな話をしてしまいました。教育者を志す君たちにも、伝えておくべきではないかと思いまして……長々と、すみませんでしたね」
「いえ、そんなことは……」
伯父さんの様に、戦争の話をしたがらない人が多いのも頷ける。
教授が「つい」と言ったのはもちろん言葉の綾で、語ることはそれなりに覚悟を伴う行為なのだろう。
目の前で消沈している姿を見れば明らかだ。
「戦争はやはり、国や人が犯す過ちです。沖縄の戦いも沢山の過ちで溢れていました……」
それでも、教授は話を続けようとした。
隣からはまだ、時おり「ヒクヒク」という息遣いが聞こえている。
過ちのせいで奪われた命。
その命に紐づいていた夢も、共に消えてしまった。
その少女は、いったいどれほど無念だったか――。
「もちろん……人は往々にして過ちを犯します。残念ですが、人である所以と言ってもいいでしょう。だからこそ、犯した過ちと向き合い、悔い改めたのならそれを許し、受け入れるべきなのだと……今なら、そう考えることも出来ますがね……」
そこで右膝に手を置き、ギュッと力を込めた。
「流された夥しい量の血、失われた大勢の尊い命、理不尽に閉ざされることとなった、無念の魂……それらを目の当たりにした直後では、決して、そんな考えを受け入れることは出来なかった。到底、許せません……もちろん、自分自身の犯した過ちも、含めて……」
不快にすら感じる蝉の声。
「……ですが、沖縄は……沖縄の人々は、今も当時の過ちを許さずに、怒りをその地に据えたまま暮らし続けているでしょうか? ハワイは、どうです?」
シンディも顔を上げ、充血した目で教授を見た。
二人の脳裏に浮かんでいるのは、言うまでもなく「パールハーバー」、そしてその後の「日系移民たちへの差別」だ。
「そんなことだけでは、ありませんよね。時を経て受け入れ、または受け入れられないとしても、それを乗り越えて、他ならぬハワイの為、沖縄の為に、前を向く。必要なのは……時間です」
シンディが鼻をすすり上げ、心持ち姿勢を正した。
僕の手は、まだしっかりと彼女に握られたままだ。
「……もちろん、許したふりをして怒りを収めるのは、よくありません。それは目を逸らしただけに他ならない。なぜ事が起こったのか、なぜ自分は許すことが出来ないのか……時間を掛けて考えることは、決して無駄ではありません。そしていつか受け入れる準備が出来たと、自分自身で感じられた時に初めて、許せばいいのです。君たちはまだ若い、別に焦る必要などありません」
ふとその視線が、繋がれた僕らの手に向けられているのに気づいた。
今更とは思うが、シンディが「サッ」と引っ込めて自分の膝の上に戻した。
「ただ、個人的には……」
そう続けながら、教授はいったんグラスを口に運び、再びテーブルに置いた。
「後悔は、少ない方がいいでしょう。伝えたいことを伝え切れていなかったり、離すべきではなかった手を、離してしまったり……。その相手がまだそこに居るということは、何物にも代えがたいことです。そうは、思いませんか?」
言ってから、僕たち二人の顔を交互に見た。
「はい」
シンディが即答したので、思わず彼女の顔を見てしまった。
「……なに?」
「あ、いや……」
教授は笑みを浮かべると、視線を窓の外に向けた。
「空の上から……今の私たちのことを、見下ろしているんでしょうかねえ……」
あの少女のこと――いや、共に戦禍に巻き込まれたすべての人々のこと、だろうか?
それを尋ねる代わりに、僕たちも窓の方に目を向けた。
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