17.8月15日
やっと教務課を後にしたのはもう正午に近い時刻だった。
研究室へ伺うのに昼時は失礼だと思ったので、本当は午前中のうちにお邪魔して長居せずに帰ろうと考えていた。
だが提出書類の中の不備を指摘されて大いに手間取り、その結果がこの始末だった。
程なく、一度も入ったことの無い部屋の前に立った。
「瀬川研究室」と書かれたプレートを見上げると、ちょっとした緊張感が込み上げて来る。ノックをしようと軽く拳を握ったその時、構内に鐘の音が響き渡り手を止める。
正午になった。
気を取り直し、そのまま扉をノックした。
遅くなる程「失礼」が増す様に思えたので、やはり「早めの訪問、早めの退室」を優先することにした。
だが少し待っても応答する気配が無い。
ドアノブに手を掛け、そっと回すと抵抗なく開いた。
「失礼しまーす……」
ゆっくりと扉を押し開けつつ、極力「控えめに」足を踏み入れた。
教授の姿は、広い部屋の一番奥にあった。
開け放たれた正面の大きな窓と、その手前にある本が山脈の様に積まれたデスクとの間に、背中をこちら側に向けて立っていた。
「逆光」気味ではあったけれど、外に向かって少し頭を垂れているのはわかった。
ああ、なるほど――今日は8月15日だ。
終わるまで黙って待つことにした。
窓から見えるのは、夏の日差しに目映く茂る緑の木々。
蝉の声は遠くの泡の様に鳴り止まず、まるで大気の成分みたいに耳の奥へと浸透して来る。やがて教授はそのまま外へ向けて一礼し、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……ああ、すみませんでしたね」
「いえこちらこそ。何か、間が悪くてすいません……」
「いやいや。まあ座って下さい、お茶でも淹れましょう」
「あっ、僕やります」
もちろん、教授には先に座って頂いた。
どこかの応接間に置かれていてもおかしくない、骨董品の様な渋い感じのソファセットだ。
「すまないですねえ。呼ばれた人にやらせてしまって」
「いえ、気になさらないでください」
許可を得て、大学側が一部の教授たちの研究室に備え付けた小さな冷蔵庫を開け、ポットの麦茶をグラスに注ぐ。
いつも家でやっていることだ。
「……ところで比嘉君は、今日、8月15日が何の日だか知っていますよね」
背中越しにそう投げ掛けられた。
特に質問というわけでもなさそうだ。
日本人にとって、この日には特別な意味がある。
「はい、終戦の日ですよね。教授はいつも……その、黙祷を?」
逆にそう尋ねながらテーブルに歩み寄ると、グラスを置いてから向いのソファに腰を下ろした。
こちらは二人掛けなので、教授に近い方の端に座った。
少し間が空いたので顔を上げて教授を見ると、その目線は再び外に向けられていた。
やがてこちらに顔を戻しながら、噛み締めるように話し始めた。
「戦時中は、私もまだ君と同じ年頃の学生でした。学徒出陣というのはわかりますか?」
「あ、はい」
するとグラスに手を伸ばし「ありがとう」と呟いてから口をつけた。
「当時大学で法律を学んでいた私も、出征することになりましてね。配属された先が、沖縄でした」
言いながらグラスを置いた。
「えっ……」
「ですから黙祷は、六月にもしています」
沖縄にとって終戦の日は6月23日だ。
正式には「慰霊の日」という。
「この足も、その時に負った怪我の名残でしてね……」
言いながら右膝の辺りを軽く叩いた。
すると、同じタイミングで扉をノックする音が響いた。
「はい? どなたですかな?」
「荒木です。お借りしていた資料の返却にまいりました」
えっ。
「……ああ。はいはい、そうでしたねえ。どうぞ、入ってください」
扉が開き、軽快な靴音が近づいて来た。
ど、どうしよう――。
「忘れていらしたんですか? 教授。この前お電話で……あっ、すみませんお客さま……で……」
僕の首は、酷くさび付いた金属みたいにピクリとも動かなかった。
目線をテーブルのグラスから離すことが出来ない。
「タっ……比嘉クン……」
その声に「解除」でもされたかの様に、ようやく彼女の方へ顔を向けることが出来た。
「ああ……こ、こんにちは」
久しぶりに再会したシンディが、驚いた表情のまま立ち尽くしていた。
あ――。
髪がだいぶ短くなっていた。
やっと首が隠れる程度、ショートカットに近い長さだ。
ワンピースはジーンズの生地で、腰にはサンダルと同じ茶色のベルトが巻かれている。
「いや、すまないですねえ荒木君。たまたま彼と出くわしたものですから、年寄りの昔話につき合って貰っていたんですよ」
「そう、でしたか。……じゃあ、私はこれをお返しして……」
足早に教授の傍らまできた彼女が、手にした資料を教授に渡そうとする。
シンディを見上げた教授が、静かに口を開いた。
「荒木君は、今日が何の日だか知っていますか?」
「えっ? さ、さあ……」
差し出していた資料の束が、徐々に下がって行く。
「比嘉君、荒木君にもお茶をお願いできますか?」
教授はシンディに微笑んでから、僕の方を向きながら優しい口調で言ってきた。
「いえ、私はもうこれで……」
「はい、すぐに持って来ます」
僕は素早く立ち上がった。
「……すみません、あまり詳しくなくて。今日だったんですね、第二次世界大戦の終戦記念日って」
結局僕と彼女は教授と向かい合う格好で、並んでソファに座ることとなった。
二人の間に空いた不自然なスペースについては、そのまま気付かないふりをした。
「いえいえ。さすがに日付までは、ピンと来なくても仕方がないでしょう。あちら国の出身なら尚の事、ぜんぜん気にすることはありません」
そもそも日本と違い、アメリカにとってはそれが最後の戦争というわけではない。
それに太平洋戦争に関しても、終結を八月十五日とする「概念」自体が無いのだ。
沖縄出身の僕だって、正直ピンと来ないところはある。
「ええと……その、さっき伺ったんだけどさ……」
顔を見て――というわけにはいかなかったが、横の彼女に向けて補足を試みた。
何となく耳だけは傾けてくれているという「雰囲気」はあった。
「……教授は戦時中、沖縄で戦っていらしたそうなんだ。僕らと同年代の頃の話だよ。足も、その時に負傷されたそうで……」
「そうなんですか?」
当然だが、彼女は僕ではなく直接教授に尋ねた。
ちょっと落胆している自分が情けない。
「はい。まあ身体の痛みの方は、年月の経過と共に薄れて行きましたがね。でも戦争というのは、それだけではありませんから……」
教授はいったんグラスに手を添えたが、飲むのをやめてそのまま続けた。
「君たちは、ひめゆり部隊の話を聞いたことがありますか?」
僕の「はい」と彼女の「いいえ」は、ほぼ同時だった。
一瞬、ちらりと目が合った。
「当時沖縄では、今で言うところの女子中高生……要するに十代の生徒たちが、戦地における臨時の看護要員として徴集されましてね」
「十代、ですか?」
シンディが反応した。
僕もまさに十代の頃そう聞かされて驚いた覚えがある。
「ええ、下は十五歳からでした」
「そんな……まだ子どもなのに」
「男子生徒に至っては、もはや兵隊の一員として実戦の只中へ投げ込まれましたからね」
そういう話を、沖縄の伯父さんから聞いたことがあった。
「父方の伯父も言っていました。十五で戦場に駆り出されたんだって……」
多くを語ろうとはしないので、詳細まではわからない。
早くに大人たちに混じって働いたせいで、結婚も早かったさ――などと笑いを交え、早々に話を終わらせるのが常だった。
あの穏和な伯父さんが戦っている姿など、想像出来ないし、したいとも思わない。
「……十五歳の、ソルジャー……」
横のシンディがそう呟いた。
まだ口をつけてもいないグラスをじっと見つめている。
「伯父さん、今はどうされていますか?」
少し目を細めながら、教授が尋ねて来た。
「はい、今は地元でタクシーの運転手をしていまして、毎日元気に働いています。戦争のことは……正直ぜんぜん話してくれません。僕も、あえて聞きませんけど」
「……そうですか。きっと思い出すことさえも辛い、大変な思いをされたんでしょうね。当時あの場所にいた者たちは、みんなそうだと思います……」
黙って聞いているしかないと思った。
その場に居た本人が「思い出すことさえ辛い」と語る状況など、安易に想像を働かせる気にはなれない。
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