16.トーキョーが不似合いな二人
「351円のお返しです、ありがとうございましたー」
西日が店内に差し込み始めてからもうだいぶ経つ。
思った以上に暮れなずんでいる様に感じるのは、やはり季節柄ということだろうか。
夏休みに入って、もう一週間以上が過ぎた。
えっ。
髪型、それにあのワンピース。
たった今、雑誌を棚に戻して店の奥へと歩いて行った女の子――あれはシンディだ。
西日で多少見えにくかったけれど、間違いなく彼女だった。
もうすぐ反対側の陳列棚を回ってまた現れるはずだ。
どういうつもりだろう――いや、それより第一声は何て言ったらいい?
胸のドキドキが収まらない。ど、どうしよう――。
あ、来た――えっ。
「…………」
違った――いや、まったくの別人だ。
さっきまでの確信はいったい何だったのだろう?
会計を終えて出て行く後ろ姿を呆然と見送っていると、今度は入り口を出てすぐのところ、窓ガラス越しにこちらへ笑顔を向けている男に目が留まった。
「よお」という口の動きと共に、タバコを持った右手を上げて来る。
長谷川だった。
今度は本人に間違いない。
そしてもちろん、偶然などはあり得ない。
取りあえず、外のゴミ箱用の大きなポリ袋を持って店を出た。
彼はその脇に置かれた灰皿のところに立ち、タバコを吸いながら行儀良く待っていた。
「おー、タケ。お疲れ」
「なんだよ、どうかしたの?」
言いながらゴミ箱の蓋を外し、さほど満杯でもない中身をつかんで取り出した。
「素っ気ないねえ。って、いうか、なんか顔色悪くない?」
「はあ? 気のせいだよ……」
「ふーん、ならいいけど」
新しいポリ袋をセットし、蓋を閉めた。
「で、なに?」
「ああ。いや、それなんだけどさ」
タバコを揉み消して灰皿の中に落とした。
「ちょっと頼み事というか、うん……何というか」
「え?」
「いや今回の件ではさー、タケとその……シンディちゃんにも? だいぶ迷惑かけちゃったじゃん。ちゃんと謝りたいなーと思ってさ、二人に」
「……い、いいよ別に、そんなの」
ゴミ箱はもうひとつあるので、今度はそちらの蓋を開けた。
「謝る相手なら、もっと他にいるでしょ」
「ああ、智恵ね。それならもう行って来た」
「え、そうなの?」
「うん。まあ向こうの親は、一切とり次いでくれなかったけどね。ブン殴られなかっただけまだマシなのか、むしろ殴られた方がよかったのか……どっちだろうな?」
「さあ、それは……」
行ったんだ、会いに。
「……というか、別に、僕に謝る必要なんて全然ないからさ」
ゴミの袋を持ち上げた。
こちらもまだ大して入ってはいない。
「どうして」
「いや、そもそも迷惑掛けられたとは思ってないし、もう謝って貰った様な気もするしさ」
「あれは駄目でしょ。酔っぱらい過ぎてて後半ほとんど覚えてねーもん。それにタケんとこ行った時なんて、まだ飲んでもないのにシンディちゃんにまで、不快な思いをさせて……」
「別れた」
「え?」
「だから、別れました」
「なっ……」
僕の顔を見たまま固まっている。
「……ああ。なんだ、絶賛ケンカ中って事か。それでさっきからちょっと機嫌が悪い……」
「終わったんだって、完全に」
目を見て強めにそう言ったあと、新しい袋をセットして蓋を被せた。
「……はは、ちょっと待ってよ、そんな簡単にさ……」
「ま、そういうことだから」
そう言って踵を返し、店内へ戻ろうと――。
「だから、ちょっと待ってって」
引き留められた。まあ、当然かもしれないけれど。
「なに」
「……いや、ひょっとしてだけどさ、その……原因って、こないだの件と何か関係あったりするの?」
「だったらどうなの」
「えっ、やっぱそうなんだ」
珍しく焦っている。
「別に、長谷川が責任を感じる様なことじゃないって。そりゃ全然関係ないって言ったら嘘になるかもしれないけど、そんなの単なるキッカケに過ぎないしさ」
「どういうことよ?」
「まあ、縁が無かったってことだろうね、彼女とは」
「ええ?」
「何ていうか……彼女のおせっかいなところとか頑固なところとかさ、そういうのがちょっとね。あと、僕にはもっと大人っぽい女性の方が合うのかもしれないなー、みたいな」
彼は聞きながら眉根を寄せ、顎を擦っている。
まあ納得がいかないのも無理はない。
僕自身、自分の言葉にちょっとイラつき始めているくらいだ。
でも――。
「……彼女に言われたんだよ。僕みたいに人に興味も持てない様な人間とは、一緒に居たくないって。だけど、そんなこと急に言われたってさ……でしょ?」
「うーん……」
ついに腕を組み始めた。
「とにかく。合わなかったんだよ、僕たち二人は」
「いや……っていうか、仮にそうだったとしてもだよ」
無論、簡単に引き下がる相手ではない。
「変わってきていたと思うけどなあ、最近のタケは。それこそ、彼女の影響なんじゃないの?」
「は?」
「いやホント、マジで変わったって。じゃなきゃ、この前みたいに雨ん中わざわざウチに来て、朝まで話聞いてくれたりしないだろ」
それは――。
「向こうはともかく、タケにはシンディが必要なんだって。……いや、彼女だって同じことか。要するに、お互いにってことよ」
「えっ、だけど……」
バイト仲間の「メガネちゃん」が外へ出て来るのが見えた。
いや、そう呼んでいるのは店長だけで、本人が納得しているわけではないらしい。
先月入った高校二年生の女の子だ。
「比嘉さん。至急レジ入って欲しいんだけどなー、とのことです。店長が」
「ああ、うん」
それだけ言うと彼女はサッサと戻って行った。
「ごめん、行かなきゃ」
「……だろうな。あ、最後にもうひとつ」
「なに」
「すげー似てるとこあんだよね、オタクら二人」
「はあ?」
「トーキョーがぜんっぜん似合わねーとこ」
「なんだよそれ」
その後しばらくの間は、タバコを吸っている姿が中からも見えていた。
だがふと気付くと、いつの間にかいなくなっていた。
渋谷駅に着いたのはまだ午前十時を過ぎた辺りだった。
だがホームへと降り立った途端、全身を茹だるような熱気が包み込んだ。
平日の駅構内、行き交う人波に流されるまま階段を下りて行く。
この暑さにも関わらず、スーツやジャケットにネクタイをキッチリと締めた「大人」たちの姿が目に付く。
用事がなければ、僕だってまだ部屋で寝ていたかったのに――。
そんな「後ろ向き」な考えがよぎるのも、何となく卒業後の自分の姿を連想して怖気づいてしまったからに違いない。
程なく改札を抜け、いつもの歩道を歩き始めた。
大学に足を踏み入れたのは久しぶり――と言っても、実際には離れてからまだひと月程しか経っていない。
色々なことがあった様な、無かった様な――。
真夏の構内はさすがに閑散としていた。
木立の多いキャンパスから退いた学生たちの縄張りを、溢れる蝉の声が存分に満たしている。
中庭で前方を独特の歩調で横切って行く人影に、ふと気付いた。
「あっ……瀬川教授」
「うん? ほう、比嘉君じゃありませんか」
足を速め、「こんにちは」と声を掛けながら近づいて行った。
「珍しいですねえ、夏休み期間中に。今日は?」
「あ、はい。教育実習の登録に必要な書類を、教務課に提出しないといけなくて」
「なるほど、そうでしたか」
「教授は、今日はどうされたんですか?」
「ああ、ちょうど今書いている論文が佳境に入っておりましてね。このところ研究室に缶詰ですよ。ははは」
笑いながら小脇に抱えた資料の束をヒョイと持ち上げて見せた。
「あまり根詰めないでくださいね」
「はっは、ありがとう」
「では、失礼します」
会釈をし、先を急ごうと足を踏み出した。
「……そういえば、比嘉君は沖縄出身でしたね?」
そう問い掛けられたので、足を止めた。
「はい、そうですけど」
「帰らないのですか? この夏は」
「ああ……今年は、ちょっと……」
本当は「今年も」なんですが。
「そうですか。東京も記録的な猛暑らしいですが、あちらはまた一段と暑いのでしょうねえ……」
そう言いながら空を仰いだ。
何となく、見ているのは東京の空ではない様な気がした。
「あの……教授は、沖縄に来られたことがあるんですか?」
「うん? ……ええまあ、大昔のことですがね。一度だけ」
「へえ、そうなんですね」
教授はゆっくりと僕の方に顔を向けた。
「ああ、そうだ。用事が済んだら、私の研究室に寄って行きませんか?」
「研究室、ですか?」
「いや、年寄りの気分転換につき合うつもりで、お茶でも一杯どうかなと思いましてね。場所はわかりますよね」
「あ……はい。でも、いいんですか?」
「ええ、気楽に来て下さい。では、後ほど」
教授はそう言い残すと、研究棟の方に向かって歩き始めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます
サブタイトルは前回の次回予告と若干変えました
もう少しお付き合いいただけたらうれしいです
「17.8月15日」 へ続きます




