12.雷鳴
「ねえシンディ、長谷川君だ」
小声でそう告げた。
「ええっ」
体調不良でゼミを欠席したヤツがなぜ――というか、どうしてここへ?
「よく来るの?」
「まさか。初めてだよ」
「そうなんだ……」
無論、その気になれば来るのは簡単だ。
ゼミの「連絡先リスト」がある。
「取りあえず、話を聞いてみないと」
「うん、ザッツライ」
ドアを押し開けると、なぜだか彼は夜空を見上げて立っていた。
「長谷川君?」
「……ああ、比嘉ちゃん。居たんだ」
不自然な作り笑顔――。
「そりゃ居るでしょ。というか長谷川君、体調が悪かったんじゃ……」
「いやー、たまたま近くを通り掛かったからさ。ちょっと覗いてみよっかなー、みたいな」
「はあ?」
不可解なのはもちろん、意図がまったくつかめない。
「……ははは、なーんてね。その……実は、ちょっと聞いて欲しいことが……ん?」
さすがに「女性もの」の靴には気付いたらしい。
「お客さん?」などと言いながら、本当に僕の肩越しに中を覗き込むこととなった。
「こんばんは、長谷川氏」
シンディは座ったままこの「珍客」の様子を伺っている。
「……ああ、何だよ比嘉ちゃん。そういうこと?」
部屋が狭い分、話は早い。
「……うん、まあ……というか、聞いて欲しいことって何? もしかして小泉さんの関係とかなら、ちょうどシンディもいることだしさ……」
「シンディ?」
「あ、いや……」
「なるほど。ミドルネームってことね」
「ノーノー、ファーストネームがシンディです。そんなことより、私たちの方こそ聞きたいことがいっぱいある様な気がするんだけど」
言いながら立ち上がると、彼女も玄関口まで出て来た。
「……うん? いや別にノリコちゃ……ああ、シンディか……」
「ノリコでも構わないよ。ねえ、何があったのよ」
「え……あ、いや……」
明らかに何かを言いかけたあと、眉間に皺を寄せたまま言葉を飲み込んでしまった。
「とりあえず、上がれば」
「もしその方が良ければ、私は席を外すし。ねえ、タケ?」
「ああ、そうだね」
「いや、いいって! ……あ、その……いいのいいの。また、今度にするわ」
「もう、何なの? 気なんて使わないでよ、長谷川氏らしくもない」
「いやいや、使うでしょ普通。ははは……」
既に後ずさりを始めている。
「ちょっと、長谷川君……」
「あー、思い出した。予報では、今夜から崩れるみたいなこと言ってたっけなー、そう言えば」
そう言って星の無い空を軽く見上げた。
「俺、単車だし……うん、サッサと帰ろ」
「ねえ、長谷川氏ってば……」
「……だから、またそのうち来るからさー。なんか、邪魔しちゃって、ごめんな」
そう言って踵を返すと、停めてあったバイクにまたがった。
起動したエンジン音と、顔をスッポリと覆うヘルメット。
もう会話を続ける余地は無かった。
「どう思う? シンディ」
「変だよ、こんな長谷川氏見たことない。やっぱりチエと何かあったのかな……」
それ以外に思い当たるふしが無い――といったところか。
敬礼っぽい仕草を合図に動き出したバイクは、見る間に街灯の向こう側へと走り去った。ドアを閉める際、本当に雨が降り始めたことに気づいた。
残念ながら、彼もそれなりに濡れてしまうだろう。
「あっ、チエで思い出した。ごめんタケ、電話借りてもいい?」
「ああ、どーぞ」
「私ったら、あのコに連絡するように頼まれてたことスッカリ忘れてたよ。全くもう……」
反省の弁を口にしながらバッグに手を入れ、スケジュール帳を取り出した。
「バイト先から?」
「うん、なかなか本人に連絡がつかないらしいの。昨日の夕方、私も電話してみたんだけど、まだ帰っていませんって言われちゃった。けっこう遅い時間だったのに……」
電話の置いてあるカラーボックスへ歩み寄ると「さすがにもう連絡ついてるかもしれないけどねぇ……」などと呟きながら受話器を持ち上げた。
「ふーん……」
彼女の家が厳しいと聞いたのは、ついこの間のことだ。
門限はどうなったのだろう。
「……あっ、小泉さんのお宅ですか? ……あの、荒木と申しますけど……あ、そうですよ……えっ、トオルさん? ごぶさたして……」
誰だろう。お兄さん辺りか?
「……え、病院? ……はい…………ええっ!」
思わず僕も歩み寄った。
病院って?
「…………わ、わかりません…………え、どうしてそんな……あの、それでチエは……」
不安そうに僕を振り返った彼女の瞳は、狼狽のせいか不安げに揺れている。
「……私も行きます……あ、お願いします…………はい…………はい……」
書き留めていたのはもちろん、病院の名前と所在地だ。
そして、電話を切ると彼女は力無く「ストン」と膝をつき、そのまま床に座り込んでしまった。
「シンディ?」
「スーサイド……」
「えっ」
「……チエ……今日手首を切ったって……」
じ、自殺――。
「……いや、それで小泉さんの、様子というか、その……」
「ベツジョウは、無いって……」
目に涙を溜めている。
とりあえず大事には至らなかった様だが――。
「……お兄さんがね、会社の寮から戻って来ていて……ママは病院で、付き添ってて……」
すると突然、弾かれた様に立ち上がった。
「い、行かなくちゃ」
「えっ、今から? いや、でもちょっと迷惑じゃ……」
「……わかってる。だけど、やっぱり私、チエに会いたい! 顔が見たい……私、行ってくる」
「……あ、なら僕も一緒に」
病室のドアが静かに開いた。
廊下に置かれた長椅子に座って、窓ガラスに叩きつけられ流れ落ちる雨を漠然と眺めていた僕は、首をまわして病室から出てきたシンディに顔を向ける。
シンディは室内を振り返り、一礼してからそっとドアを閉めた。
思わず立ち上がったものの、戻って来た彼女が僕の横へ来て腰を下ろしたので、それに合わせて再び座った。
彼女はいったん目を閉じ、深く息をした。
だんだんと勢いを強めた雨が窓ガラスに叩きつけられる、その音だけが廊下に響く。
遠くで雷鳴が轟いた。
待っていると、絞り出す様に彼女が口を開いた。
「……チエ、ごめんなさいとしか言わないの。泣き疲れたのか、そのうち寝ちゃった……」
「そう……」
「……代わりに、チエのママが教えてくれた。彼女ね…………妊娠してた」
「に……」
「もちろん、本人もわかってた。ただ、相手のことだけは絶対に言わないみたい。だからママは、私に話してくれたんだと思う……」
「その……相手っていうのは、やっぱり……」
彼女が力強い視線で、僕をにらみつける。
「他に誰がいるっていうの?」
雨音より大きく廊下に響くほど、語気が荒い。
「う、うん……それはそうなんだけど、まだ詳しいことは、良くわからないわけだし……」
「だったら本人に聞けばいい」
状況が良くない方向へ動き始めている。
「……ああ、そうだね、とりあえず僕の方から電話してみるから……」
「ノー! そんなの絶対にダメ。そんなことしたらアイツ、逃げちゃうかもしれないじゃない!」
アイツって――。
「それはどうかな……」
「ホァイ? どうして? ねえどうしてチエはこんなことをしなければならなくなっちゃったの?」
「わ、わかるよシンディ、たださ……」
「お腹にベイビーがいた……アイツ、そのことを知ってたんでしょ? だからさっき、あんな感じだったんだよ、きっと!」
「それは……」
「…………チエに……何か言ったのかな……」
ゾクッとする程に、低く静かな声だった。
そして――。
「やっぱり本人に聞きに行くっ!」
そう吐き捨てるなり勢いよく立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。シンディ」
「はなしてよっ」
肩に置いた僕の手をぞんざいに振りほどこうとする。
「いや、とりあえずはさ、いったん座って……」
「私、絶対に許さないっ! あの男……」
続いて出て来たのは、彼女の口からは決して聞きたくなかった類いの言葉たちだった。
英語だが、聞き逃し様のない程ストレートで攻撃的なセリフの数々。
そして、最後にこう言った。
「……お腹のベイビィ……死んじゃったんだよ」
突然、稲光が廊下を照らし、冷たい表情がフラッシュの様に浮かんだ。
子どもが、亡くなった――。
「……彼……喜ぶかな」
続く雷鳴が雨音を裂き、空気を大きく震わす様に轟いた。
「シンディっ」
「だって、悔しいんだよっ!」
もう涙声だ。
「取り返し、つかないんだよ……チエのハートにも、手首にも、一生消えない傷が残っちゃった……もう、無かったことになんて出来ないんだよぉ……」
そう言って泣き崩れた。抱きかかえる様にして、いったん長椅子に座らせる。
「……私のせいだ……」
「えっ?」
「……あんなこと……んぅっ……紹介なんてしなければよかったよおぉぉ……」
手で顔を覆いながら、声を上げて泣き始めた。
長谷川が住むマンションの前に到着した。
横付けされたタクシーを降りると、雨を押してエントランスまで走った。
あれから病院のロビーにあった公衆電話でタクシーを呼び、いったんシンディの自宅に立ち寄った。
そして長谷川の住所を書き写したメモを手に、僕だけが車に戻ったのだった。
「……やっぱり、私も行っちゃダメかな」
出掛けにそう言われた。
「さっきも言った通り、まずは僕一人の方が真意を聞けると思う。後で連絡するから」
「うん……」
怒りを全て吐き出してしまった彼女は、心が小康状態に陥っているのか表情にも乏しかった。
それだけに「そばにいてあげたい」という想いも強かったが、そこはグッと堪えることにした。
とにかく長谷川に会わないことには、何も前に進まない気がしたからだ。
プッシュボタンの並んだ銀色のパネルを操作して、彼のルームナンバー「501」を表示させた。
最後に「呼出」ボタンを押すと、チャイムが響いたのがわかった。
しばらく待っても応答がない。
もちろん事前連絡は入れていなかった。
一応シンディの意向を尊重したのもあるが、雨のドサクサで電話を掛けるタイミングを失ったのも事実だ。
もう一度同じ操作を繰り返すが、応答はない。
そして三たび試そうと手を伸ばし掛けた時、スピーカーらしき穴から「ガガッ」という何かが繋がる様なノイズが聞こえた。
「……はい」
「あっ、あの、長谷川君?」
「……え。もしかして……」
「ああ、比嘉だけど。いや、今ちょっと下のエントランス……」
お読みいただき、ありがとうございます。
エピソードタイトルを予定していた「雷雨」→「雷鳴」に変更しました。
引き続き、ご高覧願います。
「13.壊された帆船模型」 へ続きます。




