9.瀬川ゼミ
「大変良くまとめられた、素晴らしい発表でしたね。最後の長谷川君の質問も、なかなか鋭いところをついていましたよ」
瀬川教授に促され、発表を終えた男女二人組のゼミ生が、ホワイトボード脇に置いてある椅子に腰を下ろす。
プレッシャーから解放された時に漏れる「溜め息」が聞こえた。
「しかしながら、このまま行くと、テレビの『朝まで生討論』の様になりそうです。終わりまで見届けられる自信がないので、遺憾ながらこの辺で勘弁して貰うとしましょう。歳は取りたくないものですねえ……うん?」
教室内にさざ波の様な笑いが広がった。
「最後に提示された『9歳の壁』……まあ10歳とも言われますが、皆さんもご存じの通り、次に発表を予定している『ギャングエイジ』というテーマに深く関係する内容になって来ます。次週、改めて議題にあげられることを期待しておきましょうか」
少しざわついている。「うわ、そう来ますか」などという声も聞こえてくる。
同感だ。
「そんなわけで、今日の発表に対する総評と補足についても、その際に総括したいと思います。では、その『ギャングエイジ』の面倒を見てもらうチームを、ここで指名しておきましょうかね……」
漂う緊張をよそに、教授が手帳のページをめくっていく。
「ええ……では、よろしいですかな? ひとりは比嘉君、それと……荒木君」
驚いた。
偶然とはいえ、このタイミングで僕たち二人が組むことになるなんて――。
教授が手帳から顔を上げ、確認するかの様に僕と彼女の顔を交互に見つめて来た。
「テスト期間と重複するので大変だとは思いますが、ぜひ頑張ってください。以上です」
学生たちがパラパラと教室を出て行く中、僕は座ったまま、去って行く瀬川教授の後ろ姿をぼうっと見つめていた。
ちなみに教授は右脚を少し引きずって歩く。
「若い頃の古傷」だと説明していた気もするが、詳しいことはわからない。
肩を叩かれたので見上げると長谷川だった。
すました表情のまま意味あり気に二度ほど頷いたあと、そのまま教室を出て行った。
「タケ」
続いてやって来た彼女が僕の隣の椅子に座った。
荒木さん――いや、シンディだ。
自ずとあの日の別れ際のやり取りが思い起こされた。
「タケユキ……ううん、タケ。私はタケって呼ぶことにする、いいよね」
そう宣言して以降、まるで元々そうしていたかの様に僕のことを「タケ」と呼んでいる。
「……おう、シンディ」
こっちはまだ練習期間だ。
「偶然だねっ。でも、なんか嬉しい」
「うん……そうだね」
十八名いるゼミ生は元々男女同数だ。
教授は「男女ペア」での研究発表を前提にしていて、組み合わせを毎回変えることも明言している。
二年間で何巡するのかはわからないが、実際には偶然と呼ぶほどの「奇跡」が起きたわけではない。
「頑張ろうね!」
「うん」
彼女と組めたことは「でーじ」嬉しい。
故に公私混同を克服するのは至難の業だ。
その反面、まともに話せる様になってからまだ日が浅い上に、じっと見つめられると未だに緊張してしまう。前途多難と言わざるを得ない。
「あ、タケ、打ち合わせがてらどこかで食べて帰ろうよ、ご飯。あ、前祝いも兼ねちゃう?」
グラスを持つ様なジェスチャーしている。
「ははは、祝いって……」
いや、不安材料は他にもある。
「……というかさ。なんか釈然としなくない? だってやっぱり前期のテスト期間とモロに被るわけだし、僕なんかバイトも休みにくいしさ。ここで順番が回って来るなんてホントついてないよ。しかも最後のアレだって、次週まとめて答えなさいみたいな感じでしょ? もう絶対キビし過ぎるって」
「…………」
――えっ、無表情?
「言いたいことはそれだけかね? ミスター比嘉武幸」
「は?」
「ヘイ!」
「うわ」
両手を「ガっ」とつかまれた。
「一人でやれって言われてるわけじゃないんだよ、協力してやっていいんだよ? 私たち二人で。最高だと思わないのー? ヘイ、ねえ!」
つかんだ両手を上下に激しく揺すって来る。
「……ちょっ、わかった……ああもう、わかったよっ」
「オーケイ? わかればよし! もうやるしかないよ、タケ。ゴーフォーブロークン!」
彼女は「これだよ」とでも言わんばかりに、愛用の布バッグの「ロゴ」を突き出した。
当面のことを話しながら校門を通過した僕たちは、その段階で「ゼミ発表が終わるまでバイトを休むべし」という結論に達した。
彼女は早くも大学前の電話ボックスからバイト先へ電話を入れたものの、残念ながら結果は四勝三敗といったところ。
「全休」の希望は通らなかった。けっこう人手不足らしい。
一方僕の場合、結論は明日以降に持ち越しとなった。
バイト先のコンビニでは既に一週間先までのシフトが決まっており、いきなり数日に及ぶ変更を電話で済ませることは不可能だった。
シンディにもその辺のところは理解してもらい、とりあえず翌日の土曜日はバイトへ行くことにした。
時間が惜しいので、まず早朝に起き出し、午前中をテスト勉強に充てた。
その後出勤して、正午から夜九時まで真面目に働き、休憩中にシフト変更を店長に願い出た。
「試験が近づくとみんな一斉にいなくなっちゃうんだよねえ、渡り鳥の群みたいに。やっぱり大学生ばかりじゃダメかー。うちも高校生とろうかな……」
いや、僕に言われても。
「比嘉君も、やっぱり休まなきゃダメなの? え、どうしても? そうかー……」
翌日から発表当日の金曜までの六日間、どうにか休みを確保することが出来た。
明けて日曜日も午前中はテスト勉強をし、昼からシンディと合流して区立図書館でゼミ発表の準備に勤しんだ。
閉館後は場所を近くのファミレスに移し、夕食もそこそこに作業を続行した。
月曜日からは前期のテストが始まった。
その日のテストが終わるとシンディと学内図書館で落ち合い、再びゼミ発表の準備に没頭した。
「それ、シンディの?」
彼女が持っていたのは、図書館の蔵書とは別の「年季」の入った資料の束。
「あ、これ? 教授にお願いして、研究室から借りて来たの」
「なるほど……」
それ以外にも、目当ての本が図書館に無い場合は近くの書店へと足を運び、二人で費用を出し合って手に入れたりもした。
シンディがバイト先に顔を出さなければならない日は、当然ながら僕一人で踏ん張った。
「すごーい! こんなに進んだの?」
後で彼女からそう言われたい――そんな下心があったことは否めないが、特に悪いことだとも思わない。
作業が捗るのであれば、動機など何だって構わないのだ。
帰宅すればまた翌日のテスト勉強が待っていた。
それは当然の如く深夜にまで及び、睡眠不足はすぐに限界を超えた。
そんな状況がかれこれ水曜日まで続いた。
「んんー……疲れたっ」
シンディがすぐ横で絵に描いた様な「伸び」を披露した。
木曜日の午後、窓の外は七月の日差しと蝉の声に溢れている。
午前中のテストで全日程をクリアしたにも関わらず、僕らはまだ大学構内にある図書館にこもって資料と向き合っていた。
そう。
ゼミ発表を明日に控え、未だ気を抜くことの許されない状況が続いていた。
妙に静かなので隣に目をやると、彼女が頬杖を突いてボーっと外の景色を眺めていた。
そのトロンとした眼差しが、またなんとも魅力的で――いや、そうじゃなくて!
中指を親指に引っ掛けて輪を作り、そのまま彼女の額に近づけて軽く弾いた。
愛の「デコピン」だ。
「オゥチ……ヘイ、ユー、いったいどういうつもりだねー」
「何サボってんの、ゼミ発表明日なんだよ?」
「……アイ、ノウ、わかってるよ。ああもう……やるかー。これさえ終わればサマーバケーションだもんねっ」
そう言うと両肘を開いてグイっと胸を張り、「よし」と気合を入れた。
「あ、そうだ。ねえタケ」
「なに?」
「最後の仕上げ、このあと私の部屋でやらない?」
「えっ……どうして?」
「発表の読み合わせとか、クエッションアンドアンサーのシミュレーションなんかもしておきたいと思って。図書館やファミレスだと、ちょっとアレでしょ?」
「うん、まあ……」
彼女の、部屋――。
「だってほら、居るでしょ? わざと意地悪なクエッションをぶつけて来る様な人がさー」
「あぁ、はいはい。長谷川ね」
「ビンゴ……って、あ。ウワサをすれば……」
彼女の視線の先は、僕の背後――振り返って見てみれば、こちらへ近づいて来るのはその「噂の」張本人だった。
「よう。ゼミ発表の準備?」
「ああ、長谷川氏。ハロー」
何となく資料を伏せたりノートを閉じたりしたのは、ごくごく自然な反応と言える。
「あれ? ははは。味方でしょ、俺」
「もちろんだよ」
「ええ? ホントに思ってる? いや、発表に限ったことじゃないのよ。これでも陰ながら応援してんだよ、二人のことはさー」
「はは、それはそれは」
だったら静かに見守っていてくれないかな、余計なことはしなくていいから。
「あー」
長谷川は取って付けた様な声を上げると、いったん左腕をスッと伸ばしてから引き寄せ、高そうなごつい腕時計に目をやった。
無駄に芝居がかっている。
「そうそう、今日は飲み会にお呼ばれしてるんだっけ」
「え、まさか合コン?」
「うーん、形式的にはまあ、そういうことになっちゃうのかなー」
「ヘイ、長谷川氏」
シンディが思わず立ち上がる。
「知ってるの? チエは」
「いや、違うんだって、ノリコちゃん。俺なんて単なるアタマ数というかさ、まあ人助けみたいなもんなのよ。だから、変に心配させたくないってわけ」
「なにそれ」
露骨に口を尖らせている。
不満を隠す気はまったく無さそうだ。
「ま、そういうことだからさ。くれぐれも彼女に余計なこと言わないでね」
そう言うと、こちらを向いたまま揺れるように後退して行く。
「ヘイ、ちょっと……」
「じゃあね、お二人さん。マジで明日の発表、頑張ってねぇー」
手をヒラヒラと振りながら、踵を返した。
「もう! いつもみたいに変な質問しないでよっ、長谷川氏!」
声を張り上げて念を押すも、歩み去りながら背中越しに軽く手を上げただけ。
シンディと僕の二人が、館内にいる他の学生たちの視線を集めてしまったことを思うと、割りに合わない。
当の長谷川は入り口で待っていた二人の女子学生と合流し、談笑しながら出て行った。
「何なの? あれ」
そう言うと、仏頂面を絵に描いた様な表情のままドサっと腰を下ろした。
「もー、ガッカリ」
思った以上に落胆している。
「えっ、何かあったの?」
「……うん。チエ、このごろぜんぜん元気ないから心配なの。ボーっとしてることが多いし、バイト中も」
「そうなんだ」
「あの人もあんな感じでしょ? あれじゃぜんぜん頼りにならない」
「なるほど……」
僕らが黙り込むと、ここは本来の静けさを取り戻す。
本にも染み入る蝉の声――。
「あ。それで、マイルームでよかったんだよね? 最後の仕上げ」
「えっ。うん……まあ、基本的には」
「そ。じゃあ、レッツゴー!」
そう言うと立ち上がり、テキパキと荷物をまとめ始めた。
お読みいただき、本当にありがとうございます
「10.オハナ」 へ続きます。




