親友で好きな人に先輩を紹介してと頼まれた
「マズローは人間の欲求を五つの階層に分け――」
倫理の授業は相変わらず退屈で私は時々窓の外を見つめる。
昔の人の考えを学ぶ意味なんてよく分からない。数学が苦手だったからとりあえず文系を選択したけど好きなわけじゃない。
グラウンドで男の子たちが体育のサッカーをしている。はしゃぐ声が窓越しに聞こえる。一日の最後の授業だからか、余計に楽しそうに見える。照りつけている太陽の下で彼らはお構いなく走り回っている。
私は日焼けが怖くてカーテンを閉めた。
今年の夏からエアコンがつくようになって良かった。一年生の時は地獄だった。心地の良い温度に眠気を誘われ、私は一つあくびをした。
「安全欲求っていうのは、端的に言うと平和に生きたいってことだな。その次が所属と愛の欲求。これは集団に所属したり、愛し愛されたいってことだな。それから――」
だな、が口癖の加藤先生は五つに分けられた三角形を一つずつ指してテンポよく順に上っていく。
加藤先生の授業は端的過ぎて、聞いているだけでは覚えられない。どうせテストが近くなったら教科書を勉強しなおすのだからと、私は授業も聞かずに一番後ろから教室を見渡した。
隣のハンドボール部の男の子はいつものように部活で疲れて寝ている。前の席の男の子は教科書の端に落書きをしている。加藤先生はそれに気づいているのか気づいていないのか、構わず授業を続けている。
よくある光景でそれを眺めるのも飽きてきた。
教科書を適当にパラパラとめくって、面白い言葉を探してみるけれど、やっぱり昔の人のいうことはよく分からない。
チャイムが鳴り、今日最後の授業が終わった。加藤先生は挨拶が済むと足早に去っていく。一日の授業が終わり、生徒たちの喜ぶ声や椅子を引く音で教室は一気に騒がしくなった。
騒音の中、私が倫理の教科書を鞄の中にしまっていると一人の足音が近づいてくる。
「葵~今日も疲れた~」
「そうだね」
顔を上げると美玖はいつものように満面の笑みを咲かせて立っている。
「葵、今日部活ないんだよね?帰りどっか寄ろうよ」
「もちろん。どこ行こうか」
「うーん、あとで決めよ」
「うん、分かった」
「それより葵~?」
美玖は鼻歌を歌いながらにやにやし始めた。そのまま私の顔を見るから、私も少しにやりしてしまう。
「何、美玖?」
そう聞いても美玖は変わらない表情で鼻歌を歌い続ける。そのまま顔が横に揺れだしたのがおかしくて吹き出してしまった。
「ねえ、何?」
笑いながらそう聞くと美玖は「私に何か言うことあるでしょ?」と言った。そう言われて一つだけ心当たりがあった。だけど私は「何もないよ」ととぼけて見せる。
「本当に?」
「本当に」
ふーん、と美玖は私の机に両手をついた。そのままあまりに顔を近づけてくるから、思わず目を逸らしてしまった。
「ほら、心当たりあるでしょ」
「ないってば~」
すると美玖は声を出さずに口を動かし始めた。何やら口パクをしているようだった。四文字の言葉を頻りに繰り返している。私が理解できずにいると、美玖の口の形に徐々に声が乗り始めた。その声に耳を澄ませても聞こえずにいると、美玖はようやくはっきりとその言葉を口にした。
「こ・く・は・く、昨日バレー部の後輩くんにされたんだって?」
心当たりが的中した。
「ちょっと美玖、何で知ってるの?」
「テレパシーってやつ?」
「もう嘘はやめて」
「てへ」
美玖はわざとらしく片目を瞑った。
「どこで聞いたの?」
「さっきの休み時間廊下でラグビー部が話してた」
あの時の人たちか。私たちの倍くらいありそうな屈強な肉体の集団の姿を目に浮かべた。
まあ、あれだけの部活終わりの人が通ればいつかは広まってしまうとは思っていたけれど。
「昨日の今日で情報が早すぎるよ」
「大丈夫。あいつらに他には言わないように釘刺しといたから」
「ありがとう」
私は美玖のそういうところが好きだ。だけどもう色んな人に知られてしまっているかもしれない。教室のクラスメイトの数人が私の方を見てこそこそ話しているのが視界の端に見えた。
「それで?」
美玖はその場にしゃがみ込み、私の机に置いた手の上に顎を置いてそのまま上目遣いで覗き込んできた。
それでって何がだろう? 私は思ったままを口にした。
「付き合ったの?付き合ってないの?」
美玖はワクワクした瞳で私の方を見てくる。
「……付き合ってない」
「ええ!?なんで?」
「なんでってそれは……」
正直に言えない私は美玖の目を見られなかった。
「それはその後輩のことあまり知らないし」
「そんなの気にしなくていいじゃん」
「でもその子まだ一年生だよ?もう七月の頭だけど、正式入部も遅かったし期末試験で部活がなかった期間もあったから実際のところ一か月と少ししか彼と関わっていないもん」
「付き合ってから知っていけばいいじゃない。もしかしたら彼が運命の人かもしれないじゃん」
「いやあ、それはないかな」
美玖は運命の人と言いながら、真剣な表情を崩さない。それが時間がたって少しおかしかった。
「美玖って意外とロマンチストだよね」
「意外とってなによお。女の子はみんなロマンチストなの」
美玖は前後に揺れながら言った。子供が駄々をこねているみたいでかわいい。
「葵は彼氏作る気ないの?」
「彼氏は、ちょっといいかな」
「そっかあ」
「……美玖は彼氏ほしいの?」
「そりゃあほしいよ。高校生活で一人くらい」
美玖は少しいじけるように言った。そのあと何かに気づいた様子で目を見開いた。
「あ、ねえそうだ!バレー部の晃先輩のこと紹介してよ」
「えっ?」
私が何も答えられないでいると美玖は顔を近づけて「ダメ?」と犬がエサを待つみたいに私を見つめる。
「ダメじゃないけど……」
できることなら紹介したくない。
「最近彼女と別れたらしいじゃん。あのバレー部のマネージャーの綺麗な人」
「そうだね、七海先輩と」
「そうそう七海先輩。私たちが入学したころからずっとあの人と付き合ってて美男美女カップルだって騒がれてたから、あんまり話しかけに行くのも悪いかなって思ってたけど、別れた今一回くらい話してみたいなあ。ずっと憧れてたんだ。晃先輩、背が高くて格好いいし、性格も抜群に優しくてバレーもうまいらしいし」
晃先輩は普通の女の子なら誰だって一度は憧れる理想の先輩。一か月くらい前、引退してしまったけれど本当に尊敬できる人だった。だから紹介したくない。
「でも晃先輩今年受験で忙しいかも」
「お願い!ご飯行きたいって伝えてくれるだけでも!」
教室に担任の先生が戻ってきた。先生は教卓の前に立つと動かない生徒たちに対して「はい、席について」と柔らかい物腰で言った。美玖はそれに気づくと立ち上がって顔の前で手を合わせた。
「じゃあ、考えておいて」
自分の席に戻っていく美玖の背中を見送りながら、どうしようかと考えた。