図書室の空気
空気は窒素約78%、酸素約12%、アルゴン約0.9%、その他を主に構成されている。
図書室独特の匂い、窓から差し込む光、誰もいない静謐な空気。図書委員だけが入れる貸借カウンターから眺める景色。色味や本の大きさから出版社まで、綺麗に整った背表紙。
誰も居らず誰も来ない自分だけの空間が、秋山虎太郎は好きだった。
「空気になりたい」
「秋山だ」
ボソリと誰に向けたわけでもない独り言を呟いたのとほぼ同時。図書室の扉がカラカラと音を立てて開かれた。図書室に入ってきた女子生徒はちらりと虎太郎の方を見やり彼の名前を呟いた。
(神谷……)
虎太郎のクラスメイトである神谷玲那は分厚い辞書を手に抱え彼の前を通過していく。
黒い長髪がゆっくりとした足取りに合わせて小さく揺れている。クリっとした大きな目は愛嬌があり、クラスの人気者だ。空気になりたいなどと宣う虎太郎とは接点がない。
まったく知らない相手ならまだしも、クラスメイトに聞かれてしまい気まずい虎太郎は深く俯いて手元の小説に視線を落とす。目が隠れるほど伸びた前髪で表情を隠し、なんとかこの場をやり過ごそうとする。
(空気になるんだ。俺は空気……)
玲那は昼休み前の授業で使った辞書を棚に戻すと、文庫本が並ぶコーナーへ足を向ける。
「な、何か面白い本ないかなー」
気まずい空気を醸し出す虎太郎へのフォローのつもりか、玲那は独り言と言うには大きすぎる、もはや話しかけているレベルのわざとらしい独り言を発する。
玲那の思惑通り虎太郎は髪の隙間から目だけを彼女に向けた。だが、そこで玲那に話しかけるほどの積極性を虎太郎は持ち合わせていない。
「あ、」
「へっ……?」
玲那がちらちらと虎太郎へ視線を送りながら一冊の本を棚から抜き取った瞬間、隣に置いてあった本たちも巻き込まれるようにして棚から飛び出した。
雪崩のように落ちてくる本を受け止めようと玲那は腕を伸ばすが、一人では支えきれず文庫本たちは下へ落ちていった。
その光景を、玲那が本に指をかけた瞬間から予想していた虎太郎は、思わず声を出し立ち上がっていた。半端に腰を浮かし気遣わしげに伸びた手は行き先を失い萎れるように下へ下がっていく。
「……」
「ご、ごめんなさい」
立ち上がった手前、何もせずに座り直すというのも居心地が悪く、虎太郎は無言で玲那の元へ寄り本を拾い出した。
「ありがと」
パッパと本を拾った虎太郎は本についた埃を手で払い優しく棚に戻し、あっという間に本棚は元通りに──
「あ、順番違う」
「え?」
ぽつりと零した虎太郎は玲那が棚に戻した本を一度取り出し、正しい順番で入れ直す。
「秋山って、A型でしょ」
「そうだけど」
半分ほどは玲那が戻したものだ。
「よし」
いつも通りの整った背表紙を眺め満足げに呟いた虎太郎は自分の持ち場にそそくさと戻ろうとし、不意に腕を掴まれ動きを止めた。
振り返ると、虎太郎よりもわずかに高い位置から玲那がじっと彼を見つめている。
「おすすめ。教えて?」
「あー……何系が好き?」
「んー、難しくないやつ!」
なんだそれは。と虎太郎は頭を悩ませながら本棚を凝視する。玲那は普段から本を読むような人間ではない。
「こ、これかな」
「ありがと! 読んでみる!」
悩んだ末に、星新一の小説を手渡した。
そのまま二人で貸出カウンターへ行き虎太郎はさっさと手続きを済ませる。ここは虎太郎にとっての聖域で、誰かがいるのは心地のいいものではない。それがとりわけ、クラスで人気者の玲那であれば尚更だ。
「秋山ってさ、いつも図書室にいるの?」
「……いつもじゃない。今日は当番で」
「そうなんだ!」
本を借りる手続きはとっくに済んでいるが、なぜか玲那はその場に止まり虎太郎と会話し始めた。何か用でもあるのかと怪訝な表情を浮かべる虎太郎だったが、玲那にそのような様子はなく他愛のない雑談を続けている。
「そういえば、さっきはありがとね」
「別に」
「優しいんだね」
「……別に、あれくらいお前だってやるだろ」
「お前じゃない」
カウンターに頬杖を付く玲那はムッとした表情で虎太郎を睨みつけた。
「……ご、ごめん。神谷だって、あれくらいするだろ」
「名前、覚えてくれてたんだ」
「そりゃあ、クラスメイトの名前くらいは覚えてる。そこまで馬鹿じゃない」
「ふーん」
玲那は含みのあるにやつき顔を浮かべた。
虎太郎は覚えていない様子だが、つい先日、クラスメイトの名前が出てこず恥をかいたばかりである。
「秋山って、空気になりたいの?」
「……(その話題出すか普通!?)」
虎太郎はどう返したものかと頭を悩ませ口を噤む。そうして悩んでいるうちに、玲那がカウンターの内側へと侵入し、虎太郎の隣に座った。
「わぁ! 特等席じゃん!」
玲那は椅子に背中を預け誰もいない図書室を見回す。室内を一望できる図書委員だけが座れる特等席。そこからの眺めは玲那にとっては新鮮なのだろう。胸が踊るようなワクワクとした笑顔を浮かべている。
虎太郎は隣に座る玲那の横顔を何の気なしに見つめる。
長い睫毛、白い肌はきめ細かく、触れれば弾力がありそうなほど瑞々しい。黒い艶のある髪や華奢な肩が男子とは違う。制服のリボンがよく似合う可愛らしい女の子だ。
ありふれた美辞麗句が虎太郎の頭に浮かぶが、それを口に出すほど虎太郎は人付き合いが良くはない。
「秋山は今何読んでるの?」
「あー、俺はSF」
「SF! さいれんとフィクション? ってやつでしょ!」
「サイエンスフィクションな」
「そうそう、それ! タイトル見せてよ」
玲那は言いながら虎太郎に肩を寄せて手元の覗き込んだ。突然の接近にグッと身を固める虎太郎は、本を閉じ表紙を見せてやる。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? ちょっと怖い表紙だね」
「あー、分かるかも」
玲那の感想に共感を覚えた虎太郎は本を開き直し読み始めた。それを見た玲那も同じように、今借りたばかりの本を開く。
「……ここで読むの?」
「うん。だってここ、図書室でしょ?」
「いや、まぁそうだけど……」
虎太郎は集中できず何度も同じ文章を目で追いかける。
「教室で友達とか待ってないのか?」
「ん? 別に?」
クラスの人気者でいつでも人に囲まれている玲那。いつだって誰かが彼女の周りにいるのだから、今頃教室では誰かが玲那を探しているはずだ。と思いはするものの、それを口に出す勇気はない。
(そんなこと言ったら、邪魔だから出ていけって言ってるようなもんだし……)
虎太郎は波風は立てない学生生活を希望している。自分から敵を作るような真似はしない。それに、玲那がこうして図書室へ止まっているのは気まぐれだろうから、今日だけの我慢だ。他のクラスメイトに見られているわけでもないし、玲那の機嫌を損ねさえしなければ虎太郎の平穏な生活は守られる。
(そう考えると落ち着いてきた。大丈夫。俺は空気だ)
虎太郎はすっと頭の中をクリアにして小説の世界へと意識を没頭させる。
「ねえねえ。次の当番いつ?」
「え……っとぉ。いつだったかなぁ……」
不意に問われた虎太郎は曖昧に答えを濁す。
「あ、これじゃない? 当番表って書いてある!」
「……」
玲那はカウンターの内側に置いてあるファイルを目敏く見つけ、「どれどれ」と言いながらじっくりと見る。
「来週か。またおすすめのやつ教えてよ。それまでにこれ読み終わっちゃうからさ!」
「あ、はは。オッケー……」
玲那の勢いに流されて拒否することもできずに空笑いを浮かべる虎太郎は心の中で涙を流した。
まったり書いてます。