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彼が婚約解消を望む本当の理由

作者: 龍川歌凪

「アステル、僕との婚約を解消して欲しい」


 自身の屋敷にて、フィサリスは婚約者のアステルにそう告げた。

 この国で成人と見なされ結婚可能となる年齢は男女共に十八歳である。アステルは今年の秋に十八となるが、年下のフィサリスはまだあと二年の月日を要する、そんなある春の日の出来事であった。


「僕の父は既に了承済みだ。君のご両親にも僕のほうから話を通しておこう」


 彼の夕焼け色の瞳が、彼女の夜明け空のごとき薄紫色の瞳を真っ直ぐに見つめる。彼のその目も、母親似の端正な顔立ちに浮かんだ表情も、真剣そのものであった。


 何故突然このような事を言い出すのか。アステルは困惑する。


 幼い頃に親同士が決めた、家の繋がりの為だけに結ばれた婚約。貴族社会ではよくある話だ。


 けれどそれでも、ゆっくりと、しかし着実に、二人は愛を育んできたのだ。


 それに彼の両親とも良い関係を築けていた自覚がアステルにはあった。

 彼の父親は二人の結婚をとても楽しみにしていたし、早く孫の顔を見たいと気の早い事を言ってはフィサリスを困らせていたものだった。また彼の母親は体が弱く、彼が十にも満たぬ内に亡くなってしまったけれど、アステルの事をとても可愛がってくれていた。アステルは彼女の事が大好きだった。


「……理由をお聞きしても宜しいでしょうか?」

「――君への愛が冷めた。他に好きな人が出来たんだ」


 ふいに目を泳がせて答えるフィサリスに、アステルはすぐさま察する。


 彼は嘘を吐いている、と。


 フィサリスが目を泳がせる時は嘘を吐いている証であった。ずっと彼を見てきたのだ、そのくらいの事、わからぬはずがなかった。


「まあ。ではどちらのご令嬢にご執心なのでしょう? お名前を伺っても宜しいですか? あと出会った経緯についても詳しく」

「そ、それは……」


 相変わらず目を泳がせたまま口ごもる彼は、明らかに動揺している。

 アステルは小さく溜め息を吐く。


「――嘘が下手な嘘吐きさん。そろそろ本当の事を教えて下さいな。でなければわたくしは婚約の解消には応じませんし、このお屋敷から一歩も外に出ませんからね。このまま押し掛け女房として居座らせて頂きますから」


 きっぱりと言い放つアステルはテコでも動きそうにない。フィサリスは知っている、こういう時のアステルは頑として譲らないと。年上でしっかり者の彼女にはいつも最終的に言い負かされてしまうのである。


「……わかったよ。本当の事を話すよ。――僕が定期的に医者に診て貰っている事は知っているよね?」

「ええ、勿論」


 フィサリスは病弱だった母君に似て体が弱く、幼い頃からすぐに体調を崩し、頻繁に熱を出していた。二人で遊んでいる最中に急に具合が悪くなり、アステルが周囲の大人達に知らせるというのは日常茶飯事であった。


「先日医者に診て貰った時、不治の病に侵されている事がわかった。この国の医療や魔法では根治するのが非常に難しいそうだ。……君との式を挙げる日まで生きられないかもしれない……」

「そんな……!」


 アステルはショックのあまり両手で口を覆った。


「だから、君は他の男性と一緒になったほうがいい。君の器量なら嫁ぎ先なんていくらでも見つかるだろう。だが出来るだけ早いほうが良い。なに、地方貴族である僕らが婚約解消したところで悪い噂は立たないだろうさ」


 花の命は短いとはよく言ったもので、女性の結婚適齢期というのはあっという間に過ぎ去り、すぐさま嫁き遅れと呼ばれるようになってしまう。ゆえに新たな嫁ぎ先を探すならば早めに行動するに越した事はないのである。


「君は人一倍健康だからね、同じくらい健康そうな人を選んでほしい。そしてちゃんと式を挙げて、子宝にも恵まれて、孫、いや、ひ孫の顔を見るくらい夫婦共に長生きしてくれ。……僕では叶えられそうにないから……」


 最後のほうは消え入るような掠れた声だった。きっと泣き出したいのを懸命に我慢しているのだろう。


 例え式を挙げるまで生きられたとしても、その後すぐさまアステルは未亡人となってしまうだろう。両親に孫の顔を見せてあげる事も出来ないかもしれない。ならば彼との婚約を解消するのは決して悪い話ではないし、恐らくアステルの家族もそれを望むだろう。

 彼があのような嘘を吐いたのも、きっとアステルが婚約解消を心苦しく思わぬようにと配慮しての事だったのだろう。一度も会った事のない赤の他人の婚約者ならまだしも、幼馴染として、恋人として共に過ごして来た者と、病を理由に別れるというのは心が痛むだろうから。


 けれど。


「……お気遣い頂いた事は感謝致します。ですが、わたくしは真実を知らぬまま婚約を解消され、さらにある日突然、何の前触れもなく貴方の訃報を知らされる事になっていたかもしれないのですよ? それは未亡人になるよりよほど辛くて悲しい事だとは思いませんか?」

「うっ、そ、それは……! ……すまない、考えが足りなかったようだ……」


 フィサリスは素直に頭を下げた。その様子に、やれやれと言わんばかりにアステルは小さく溜め息を吐く。


 この年下の婚約者は少々考えが浅はかなところがあり、しばしば突飛な行動をしては空回りしている。そしてその度にアステルがこうしてたしなめているのである。


 だがそれでも、彼は根は優しくて誠実な男なのだ。


 いつもアステルの事を気に掛けてくれているし、指摘された事はきちんと反省し、決して同じ過ちを繰り返す事はない。

 今はまだ年若いゆえに少々未熟なところがあるだけなのである。

 また、年上の彼女に男として見て貰えるよう背伸びしていたりと、微笑ましいところもあったりするのだ。


 そんな彼だからこそ、アステルは彼を支えてきたのだ。

 今までずっと。

 そしてこれからも。


 頭を下げたままの彼の頬にそっと触れる。驚いて顔を上げた彼の夕焼け色の瞳を覗き込み、言う。


「病める時も健やかなる時も、命ある限り共に在るのが夫婦というものではありませんか。わたくしは最期まで貴方と共にいたいのです。――貴方が口煩いわたくしの事を嫌いだとおっしゃるならば諦めますけれど?」

「! き、嫌いなはずがないだろう!? 君はいつも僕の為を思って言ってくれているのだから、口煩いだなんて思うはずがない! ……僕はいつも君に支えて貰ってばかりだったから、いつか僕が君を支える側になりたい、君に頼られる男になりたいと……ずっとそう思っていた。でも……本当に僕で良いのかい? 君を幸せにするって胸を張って言ってあげる事の出来ない僕だけれど、それでもいいのかい……?」

「わたくしにとっての不幸は貴方と夫婦になれない事だけですわ。それにこの国の技術では治せなくとも、異国の技術なら治す事が出来るかもしれないではありませんか。共に病を克服する方法を探しましょう?」


 フィサリスの目から堪え切れなくなった涙の粒が頬を伝い、アステルの指を濡らす。


 フィサリスはただ静かに頷いた。




 その後、アステルの家族にもフィサリスの病の事が知らされた。本来ならばフィサリスはアステルにのみ真実を伏せるよう彼らを口止めする予定であったが、その必要はもうない。


 アステルの両親と兄は、彼女にフィサリスとの婚約の解消を勧めた。

 元々二人の婚約は家の利益の為だけに結ばれたものであり、この先苦労が絶えない事は目に見えているのだから、無理に嫁ぐ必要などない、先方には話を通しておくから、その後別の嫁ぎ先を探そう、と。


 しかしアステルは首を横に振り、きっぱりと言う。


 自分は彼が良いのだ、彼の元にお嫁に行きたいのだ、と。


 アステルの家族は彼女の頑固さについて、それはそれはよく知っていた。案の定、最終的には家族側が折れる形となった。いや、それどころか、彼が病を克服出来るよう、出来る限りの支援をしてくれるとまで言ってくれたのだった。

 家の事を第一に考えるならば、アステルの主張など無視して早々に婚約を解消し、別の嫁ぎ先を探すのが賢明であろう。だが彼らは彼女の意思を尊重してくれたのだ。

 アステルは両親と兄に深く感謝した。


 その後、アステルとフィサリスの両家は、この病に関する異国の書物や、治療に効果があると言われている薬草等を片っ端から取り寄せ始めた。この国は他国との交易が盛んであり、二人が住んでいる地域は海沿いであり港もある為、それ程難しい事ではなかった。

 さらに、いわゆる民間療法も試したし、治療魔法の権威として有名な異国の魔法使いの元を訪れたりもした。

 良薬は口に苦しとはよく言ったもので、薬草は舌を抉るように不味い物ばかりであった。

 また、病に対する治療魔法というものは、怪我を治すだけのものとは違い、回復魔法と病魔を灼き切る攻撃魔法の両方を組み合わせて行われる。病魔と共に周囲の細胞も灼き切る事になる為、すぐに回復魔法が掛けられるとはいえ、体への負担が大きいのである。


 それでもフィサリスは一度として弱音を吐く事はなかった。


 病になぞ負けてたまるものかと。

 自分を選んでくれた彼女と一秒でも長く共に生きていたいと。


 その一心で治療の苦痛に耐え続けた。




 そんなある日の事。

 新たに入手した書物をフィサリスに渡すべく、アステルは彼の屋敷を訪れた。すると彼は屋敷の中からではなく、何故か裏庭のほうから現れたのだった。


「裏庭にいらっしゃるなんて珍しいですね。何をなさっていたのですか?」

「今、ある植物を育てていてね」

「まあ、庭師に任せずにご自分で?」

「ああ、これは僕自身の手で育てたかったものでね」


 いくら交易が盛んであるとはいえ、毎回異国から薬草を仕入れるのはそれなりに大変である。ゆえにフィサリスは様々な薬草の種や苗を取り寄せては屋敷の庭で栽培を試みていた。

 しかし栽培方法について書かれた書物は異国の文字で書かれている事が多く、庭師には読む事が難しいだろう。ゆえに彼はその植物を自らの手で育てる事にしたのかもしれない。


「左様でございますか。ですがあまりご無理はなさらないで下さいね?」

「この程度なら問題はないさ。むしろ良い気分転換になるよ。ずっと屋敷の中にいてはそれこそ体に悪いからね」


 いつ体調が悪化するかわからぬフィサリスは、必要最低限の外出しか出来ずにいる。その為どうしても運動不足になるし、ストレスも溜まっていく。程よい運動と気晴らしになっているのなら何よりである。


「それなら良いのですけれど。……元気に育つと良いですね」

「ああ、秋に花が咲くのが今から楽しみだ」


 花弁を薬に使うのか、もしくは綺麗な花が咲く種類の薬草なのだろうか。

 何にせよ、楽しみがあるのは良い事である。どことなくいつもより彼の顔色も良い気がする。


 彼の育てる植物も彼自身も、元気に逞しく生きてほしいとアステルは切に願った。




 それから半年。季節は秋となっていた。

 治療が効いているのか、フィサリスの体調は存外悪くは無かった。

 そしてこの日はアステルの十八歳の誕生日――彼女が成人を迎え、結婚可能な年齢になった日でもある――であった。

 彼女を祝う為、フィサリスは彼女の屋敷を訪れた。アステルが彼を出迎えると、彼の腕の中には花束が抱かれていた。

 薄紫色の小さな花。それが枝分かれした茎に多数咲いており、その姿はどこか夜空に瞬く星々を彷彿とさせた。


 ――紫苑アステルの花。


 そうか、半年前に育てていると言っていた植物はこれだったのか、とアステルは合点がいった。


 この国では自分の子供の名前に植物の名を付ける風習があり、特に庶民の間では相手の名前の植物を贈りながら告白や求婚をするのが一般的である。また、贈る植物は自らの手で育てたものが好ましいとされている。


「僕達は物心つく前から既に結婚が決まっていただろう? だから今、改めて自分の言葉で君に求婚したいんだ。――二年後、僕が成人を迎えたら、僕と結婚して下さい」


 そう言ってフィサリスはアステルに彼女と同じ名の花束を差し出した。


 ――こういうちょっぴりキザでロマンチストなところが彼の憎めないところなのである。


「――勿論です、フィサリス様。例え貴方が離縁を望まれたって、お断りしますからね?」

「だろうね。何と言っても君は婚約解消を拒否するような女性だからね」


 そんな軽口を叩きながら二人は笑い合うのだった――……。




 それからの二年間、フィサリスは度々微熱や貧血を繰り返してきたが、どうにかここまで乗り越えてきた。

 そしてその年の夏――彼が成人を迎えた日、二人は式を挙げた。

 不治の病に侵された息子に嫁いできてくれたアステルに、フィサリスの父はただただ深く感謝した。またかつてはこの結婚を渋っていた彼女の両親も、今は愛娘の晴れ姿に涙を浮かべている。彼女の兄も多少心配そうな面持ちながらも、二人の門出を心から祝福してくれた。


 美しく着飾った花嫁にフィサリスは言う。


「君と夫婦になれるこの日をどれだけ待ち侘びた事か。病が発覚した時には今日まで生きられるなんて思いもしなかった。君が支え続けてくれたおかげでここまで頑張れたんだ、本当にありがとう」

「わたくしも今日という日を迎えられてとても嬉しいです。ですがわたくし達はようやく夫婦としての第一歩を踏み出したに過ぎません。これからも共に歩んでいって下さいね? ひ孫の顔を見るまで、わたくしを置いていったりしないで下さいね?」

「ああ、善処するよ」


 そう言って笑うフィサリスの顔は決して血色が良いとは言えなかったし、最近あまりぐっすりと眠れていなかった為、目の下には隈が出来ていた。それでも彼は誰よりも幸せそうであった。


 そしてこの国を守る精霊達の像の前で、二人は夫婦の誓いを立てる。


 この国は精霊信仰であり、火や水など、様々な属性の精霊達がこの国を守っているとされている。本来は実体を持たぬ彼らであるが、この式場では火の精霊は精悍な男性像、水の精霊は心優しそうな女性像など、様々な姿で表現されているようだった。


 ――この夫婦に精霊達の加護があらんことを。


 この場にいる誰もがそう願わずにはいられなかった。




 それから二ヶ月後、フィサリスは高熱を出した。何日も熱が下がらず、次第に意識も混濁していった。一時は生死の境を彷徨ったりもした。

 ようやくいくらか熱が下がり、意識を取り戻した彼の声は、蚊の鳴くような弱々しく、か細いものであった。


「今回ばかりは死ぬかと思ったよ……」

「わたくしも不安で夜も眠れませんでしたわ」

「……なあ、アステル。もし子供が出来ぬまま僕が死んだら、家の存続の為に遠縁から養子を取る事になるだろう。その時は……君は自由になっていいからね? 実家に帰って他の男性との再縁を望んだって構わないからね……?」

「もう、婚約解消の次は離縁の申し出ですか?」

「そりゃあ僕だって君を他の男に取られるのは本当は嫌だよ。でも……僕の死後まで君を束縛する訳にはいかないから……」


 するとアステルは首を横に振る。


「束縛だなんておっしゃらないで下さいませ。わたくしは自分の意思で貴方の元にお嫁に来たのですから。例え貴方との子が出来ても出来なくても……貴方が長く生きる事が出来ても出来なくても、わたくしはこの場所を離れるつもりはありませんわ。貴方からの求婚を受けた時に申し上げましたでしょう? 例え離縁を望まれたとしてもお断りしますって」

「……全く、君は本当に頑固なんだから」


 でもそんなところが愛おしいよ、とフィサリスは苦笑する。


「ともかく、暗い事ばかり考えていては気が滅入って余計にお身体に障るというものです。今は前向きな事を考えましょう。元気になったら何をしたいか、とか」

「元気になったらか……そうだな、美味しい物をお腹いっぱい食べたい、かな……」


 フィサリスは治療の関係上食事の制限が多く、特に熱で寝込んでいる間はろくに食事をとる事さえままならなかった。


「特に君が焼いたアップルパイが食べたいな」


 アステルの作るアップルパイはフィサリスの舌に合わせた程よい甘さに仕上げてくれている為、彼は彼女の作るアップルパイがとてもとても大好きだった。


「では食事の制限が無くなるくらい元気になったらアップルパイを沢山焼いて差し上げますから、早く良くなって下さいね?」

「はは、それは頑張らない訳にはいかないな」


 フィサリスは掠れた声で小さく笑った。




 そんなやり取りをした、その数年後。


 西日に染まった町外れの墓地。ここには沢山の者達が眠っている。

 遠い昔に生きていた知らない誰かも、生前大好きだった相手も、今は揃って土の中だ。


 墓地の前に一台の馬車が止まる。すると中から二十代半ば程の女性と、その息子らしき幼い少年が現れた。


「おとうさんここいるの?」


 まだ上手く回らぬ舌で、少年は母親に問い掛ける。彼の瞳は父親譲りの綺麗な夕焼け色をしていた。


「ええ、そうですよ。お父さんに会うの、随分久しぶりになってしまったわね」


 母親の腕の中には花束が抱かれていた。いや、それは正確には花ではなく、実であった。


 袋状のがくに包まれた実――鬼灯フィサリス


 この国で一般的な鬼灯は黄色に近い色をした食用のものであるが、この実は鮮やかな夕焼け色に染まった観賞用のものであった。この日の為に特別に取り寄せた品である。

 この夕焼け色の鬼灯は異国で栽培されているものであり、フィサリスの母君がとても気に入っていた。ゆえに、同じ夕焼け色の瞳を持つ自身の息子の名前にその名を付けたのだという。


 少年の母親――アステルは墓地を見回したが、自分達以外の人影は無い。

 ここは夫の一族が代々眠る墓地であり、墓石一つにつき一人が眠っている。

 沢山の墓石が並ぶ中、アステルは息子と共に一番手前にある、他の墓石よりも比較的新しい墓石の前までやって来た。そして夕日に照らされた墓石に鬼灯を供え、息子の肩に両手を置きながら墓石に向かって語り掛ける。


「ご無沙汰しております。この子はこんなにも大きくなりましたよ」


 数年前、フィサリスが高熱を出した少し後に妊娠がわかった。その後無事に生まれてきた息子は見た目こそ父親似であるものの、母親譲りの丈夫さですくすくと元気に育っている。


 冥福の祈りを捧げながら、この墓に眠っている相手にも抱かせてあげたかった、などとつい考えてしまう。


 すると。


「ああ、やっと会えたよ」


 突然背後から掛けられた声。

 それはずっと会いたかった、愛する人の声。


「おとうさん!」


 アステルが振り向くよりも早く、息子が声の主に向かって走っていき、抱きついた。


「おっと、なんだか最後に会った時よりも力が強くなってないか? いや、まだ一ヶ月しか経っていないし、気のせいかな?」


 息子の頭を優しく撫でる彼の瞳は、息子のものと同じ夕焼けの色。


「どうでしょうね、子供の成長は早いですから。ですがわたくしにとっては『まだ』ではなく『もう』一ヶ月ですわ。貴方がまた具合を悪くしていないかと心配で心配で……。今だって、本来なら貴方のほうが先にここに着いているはずでしたのに、いらっしゃらないから何かあったのではないかと内心不安だったのですよ?」

「君は相変わらず心配症なんだから。もう僕は大丈夫だって知っているだろう?」


 少年の父親――フィサリスは、かつて目の下にあった隈も消え失せ、すっかり血色が良くなった顔に不服そうな表情を浮かべた。


 ――アステルの妊娠がわかった時、フィサリスは大層喜んだ。あの後も何度か発熱を繰り返したが、生まれてくる子供の為にもまだ倒れる訳にはいかないと、より一層生きる気力が湧き、懸命に治療を続けていた。


 しかし治療は決して効果がない訳ではないものの、あまり芳しくないというか、いまいち効きが良くなかった。

 するといつも彼を診てくれていた魔法使いが、『視診』が得意な知り合いの魔法使いを紹介してくれた。この魔法使いは瞳に魔力を帯びて『視る』事で、病魔の原因や発生場所を特定する事が出来るのだという。

 そして視診の魔法使いいわく、恐らく遺伝による体質的なものだと考えられるが、体を巡る水の魔力が滞っているのが原因だと告げた。


 この国では、魔力は基本的に一人につき一つの属性しか宿っておらず、またフィサリスやアステルのような、魔法が使えぬ者は魔力を一切持っていないものとされていた。しかしどうやら異国の魔力に対する認識はそうではないらしい。

 フィサリスの治療をしていた魔法使いや視診の魔法使いが暮らす国では、あらゆる物に魔力が宿っていると考えられており、魔法を使えぬ者でも微弱だが魔力を宿しているとされている。中でも人体には複数の属性の魔力が宿っており、フィサリスはその内の水の魔力の巡りが悪いのだという。

 もしかしたらフィサリスの母が病弱で短命だったのもそれが影響していたのかもしれない。


 そして視診の魔法使いは妻であるアステルに向かって告げた。


 ――この地の水を司る者……すなわち水の精霊に夫の為の祈りを捧げなさい。


 と。


 この国は精霊信仰であり、様々な属性の精霊の加護の下、人々は暮らしている。また人の身に宿る魔力の属性も各属性の精霊による恩恵であるとされている。

 精霊を操る事は高位の魔法使いや聖人・聖女と呼ばれる者であっても相当に難しく、下手をすればその怒りに触れ、罰が下される事さえある。


 しかし魔法を使えぬ者でも彼らの力を借りる方法が一つだけある。

 それは誰かの為に心からの祈りを捧げる事であるという。


 精霊は実体を持たない。ゆえに人の想いというものにとても敏感である。だからこそ、他者を想うその曇りなき心こそが精霊を動かすのだという。



 その日から、アステルは決められた作法に則って毎日欠かさず水の精霊に祈りを捧げた。


 頑固者のアステルだからこそ、彼女の想いは誰よりも一途で真っ直ぐであった。


 ――どうか愛する夫を助けて下さい――


 ただそれだけを祈り続けた。


 すると何と、祈りを捧げ始めて以降、だんだんとフィサリスの体調が良くなっていくではないか。

 そして息子が生まれる頃には彼は病を完全に克服していたのだった。


 現在、フィサリスはあの病の治療法をこの国にも導入すべく、年中あちらこちらを飛び回っている。それが出来るだけの体力が今の彼にはあるのだ。


 今日はフィサリスの母親の命日だったのだが、彼は一ヶ月前から遠方の土地に長期出張していた為、なんとか今日中に戻ってきて夕方にアステル達と現地集合し、共に墓参りをするという事になっていた。本来ならばフィサリスのほうが先に到着している予定であったのだが、乗り合い馬車が遅延していた為、彼のほうが遅い到着となってしまったのだった。


 ――そう、彼らの前にあるこの比較的新しい墓石は、フィサリスの母親の物なのであった。


「お待ちしている間にわたくし達は先にお祈りさせて頂きましたよ」

「そうか、わかった」


 フィサリスは墓石の前に跪くと、墓石に向かって話し掛ける。


「遅くなってすまない、母さん。けれど僕はこんなにも元気になったよ。だから貴女の元に逝くのもきっとまた遅くなってしまうと思う。……僕のお嫁さんは身も心もとっても強い人だからね、あまり早くにそちらに逝くと待ちくたびれてしまいそうだからさ。ひ孫の顔を見てから彼女と一緒に、ゆっくりのんびり、そちらに向かわせて貰うとするよ」


 手を組み冥福の祈りを終えた彼はすっくと立ち上がると、アステルの耳に小さく囁く。


「――あの時婚約解消を拒否してくれて、本当にありがとう。君がそばにいてくれたから僕は頑張れた。君が精霊に心からの祈りを捧げてくれたから、僕は今、生きてここにいる。感謝してもし足りないくらいだよ」

「あら、それではお礼にわたくしを目一杯幸せにして下さいますか?」


 悪戯っぽく笑いながら問うアステルに、フィサリスも同じような笑みを浮かべながら返す。


「ああ、勿論だ。今の僕は胸を張って君を幸せにするって言ってあげられるからね。世界一幸せにするって約束するよ」


 かつては言えなかった言葉も、今なら言う事が出来る。


「ねえ、おなかすいたー。早くかえろうよー!」


 息子が唇を尖らせてぐずり出す。


「ええ、そうね、そろそろ帰りましょうか。そうそう、遠方から帰ってきてお疲れの貴方の為にアップルパイを焼いておきましたよ」

「おや、それは楽しみだ。君の焼いたアップルパイはとても美味しいからね」


 楽しげに話す親子の影が夕日の中へと消えていく。


 誰もいなくなった墓地で、まるでそこに眠る者が微笑むかのように、供えられた鬼灯が小さく風に揺れた――……。


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