鑑定眼
ものの価値、その真偽などを判定する力は日ごろからいろいろなことに使われる。野菜一つ取っても、新鮮だろうか、甘いだろうかと、スーパーの売り場で手に取って見たりする。
人の鑑定はどうだろう。この場合は、「人を見る目」というべきか。人間の価値は基本的な動かしがたい数値データを除けば、見た人の感じ方によっても変わるものだろう。それに軽々しく、他人の価値などというものを口に出すべきではない。と、人生の中で身につけたと思うが、けっこうやる人は多い。中には、「あの人は人間じゃない」なんて、人としての真偽まで否定されたりする。こういう場面に出くわすと、関わらなかったことにして逃げ出したくなる。
都心の一等地にあるインテリジェントビルの上層のある階にD社という複合企業の東京オフィスがあって、ワンフロアを全てこの会社が使っていた。その上の階にF社というベンチャーの薬品開発会社があった。この会社もワンフロア使っていて。この会社は、この場所が本社であり、首都圏の本部を兼ねていた。この会社、その人数的な規模は小さいが、今まさに破竹の勢いで勢力を拡大しているベンチャーと言うにふさわしい企業だった。売り物は一つ「発毛促進剤」だ。薄毛、禿げの克服は人類の夢、希望。完全に克服できる薬が発明されたらノーベル賞は間違いないと言われている分野だ。
このF社の薬がそういう賞に値するものかどうかはまだまだわからないが、発表されたデータ、その効果の視覚的な拡散(つまりCMだが)によって、アッという間に業界の先駆者となり、売り上げが急拡大。もちろん生産は間に合わず、「2年待ち」とまでいわれていた。それでも、商品を「売る」活動は活発に続けられていて、つまり予約を取るわけだが、それは全国に広がっていた。
このビルにある本社と首都圏本部も手狭になって来て、そろそろ引っ越すと言われていた。すでに相当な額のカネを手中にしているので、「都心のどこかに自社で本社ビルを建てるらしい」と、もっぱらの噂になっていた。
こういう鼻息の荒い会社では、経営者クラスはもちろん、部門のトップやらちょっと上に登っただけのリーダー格でさえ、廊下の真ん中を役者にでもなったつもりで舞台の花道でも行くように歩く者がいる。そして、「下の者」は追い越さず、前から来る者は左右に避ける。
そのF社の販売本部マネージャー、トキワ・タカシは32才独身で、この会社の販売戦略を背負って機械のように働く男だった。それもただの機械ではない、むかしで言うなら機関車のその前部分に手と口を付けたように働く。そばを通る者は弾き飛ばされないように注意しなければいけない。例えではない。ホントに人を弾き飛ばして歩くのだ。
そのトキワ氏が一つ下の階。つまりD社の東京オフィスがある階でエレベーターを降りた。それもほぼ毎日そうする。
彼の目的はD社の受付にいるクリハラ・ユウコ嬢。この若い受付嬢は美しい。しかも相当に有能であると言われている。そのため「しかるべき部署への転属が望ましい」と言われていた。しかし彼女には、そう言う上昇志向のようなものは無く。楽しい職場で、きちんと仕事が出来ていれば満足という考えだった。
この受付業務は毎日常に数人でローテーションが組まれていたが、トキワ氏はそのローテーションを誰かに聞き出して把握しており、常に正確にユウコ嬢がデスク前にいるときに現れ、そしてこのあと彼女が休憩に入ることも熟知して来ていた。
なので、もはやユウコ嬢にとっては「会社への来客」という扱いの頭はまるでなくなっていて、受付らしい、引き締まった口元に清く正しい微笑みを浮かべる様なことはなかった。トキワ氏がそのタイミングでエレベーターを降りて真っ直ぐ自分の方へ歩いてくることを知っているからこその、「どうでもいい微笑み」を浮かべながら「こんにちは」と言うのだ。簡単に言うと、彼女は彼を歓迎していなかったし、正直嫌いだった。大体、無関係な他社の人間が毎度こうして訪ねてくる非常識が腹立たしかった。まあ、そう言う「彼女の顔を見たいがために訪問してくる暇人」がほかにもいないわけでは無かったが、そういう「たまにしか来ない」男性の優しく緊張した笑顔に対しては、彼女はもう少しだけやわらかく笑ってあげるこころの優しさがあった。
彼女にとって、トキワ氏は「帽子に付けた飾りの花に寄って来る蜂」のようなもので、「刺されないように払いのける」相手だった。
その「俺がきょうも誘いに来たんだ」というような態度。「勝手に親しくなった友達」の様な話しぶり。恋しいという目でもない、好奇心のある瞳でもない。ただ欲望を果たしたいという目つき。「わたしに興味があるのではない」、「わたしを腕にはめて、人に見せたいのだ」。
だから彼女はわかっていても毎日、彼が自分の前に止まると即座に、
「きょうはどのようなご用件でしょうか?」と聞いてあげる。「ダラダラ話すつもりは無いわ」という態度で、だが丁寧に「いい加減、おやめになれば?」と言う匂いを漂わせる。だが、それにまるで気づかないほど鈍いのか、やはり、飛ぶ鳥を落とす会社の販売マネージャーと言うべきか、彼はめげない。
毎日、適当に話、断られ、「じゃ、また」と去って行くトキワ氏。彼女はエレベーターに向かう彼の背中に冷淡な瞳を投げかけて見送る。
「でも、あの人もそのうちにF社の上の方に行くんでしょ?条件は悪くないわよね」
ユウコにそう言う同僚もいる。けれど、ユウコは、そう言う話には否定的だ。
「少し前まで、F社ってそんなに景気よくなかったでしょ。そのころもあの人はあの仕事をしていて、ああやっていつもウチの会社に来てた。今は、猛烈に業績が上がって、みんながスゴイって言うけど、あの人は何も変わらない。会社がすごくなっただけ。会社がすごくなったら、余計にイヤな感じになった。まだ前のほうがいい人だった。着ている服をよくしても、中身は傷んでしまったようヨ」
休憩室で手製の弁当を食べる彼女は、そう言って一口、お茶を飲んだ。
一方、毎日ユウコ嬢にあしらわれるトキワ・タカシは、当然おもしろくない。
地位も上がった、収入も増えた、見た目はそこそこ。今をときめく企業に勤めている。それでもユウコからは一貫して断りのことばしか帰ってこない。食事の一度さえOKしない。彼に親身な男友達でもいれば、「いい加減あきらめろよ。ほかを探せ」と言うだろう。だが、今の彼は意地になっていて、聞き入れないかも知れないが。もっとも、仕事で販売戦略を日夜考えているはずの彼が、ユウコに「ただ突進するのみ」の方法を採っているのは、おかしなことにも見えた。そういうことにはノウハウを持っていないのか。やっぱり、ただ機関車のように前に進むことに賭けているのか。頭の中身も黒い鉄の塊なのか。
1ヶ月ほどしてF社に大事件が起きた。
販売していた発毛促進剤の開発データに改ざんがあり、効果も全く無いと記者会見で内部告発されたのだ。
告発したのはF社幹部の一人で、彼はこれで「いずればれる嘘の罪を軽減する」つもりで行動したらしかった。このことの前に、上層部では内紛があり、告発した彼が「取り除かれそうになった」のが決心に繋がった。
これで、F社の株は紙くずになった。上層部の人間は集めた金を持って消えた者も数人いた。
例のトキワ氏の地位も同様に白い紙切れになり、エレベーターのドアのど真ん中から降りたって廊下を反り返って歩いて、ユウコ嬢の前に現れることはもう無い。
その日、ビルの前はごった返していた。F社の関係者、債権者、報道メディア。多くの人間が詰めかけていた。全ての人間がビルの中に入ることは制限されたが、ほかの無関係な人々にとっては、ビルの出入りがしにくいのは確かだった。
その状態は、クリハラ・ユウコが退社する時間になっても続いていた。
人垣を避けて喧騒と怒声を遠回りに見ながらビルの前を歩道に向かってユウコが歩いて行くと、後ろから彼女に声を掛けてきた男性がいた。
「あら、スミダ君。帰り?」
スミダという彼は、このビルで清掃の仕事をしている。ほかにも何か仕事をしているらしかった。齢はユウコと同じか一つ下のようだった。
「ええ、帰りなんです。大変なことになりましたね、F社」
「ほんと。ビックリしたわ。全部何もかも消えちゃったのね」
「実は、俺、知ってたんです。こうなるんじゃないかって……」
「ええ?」
「少し前に、D社の階の掃除してたとき、社長室の中から、なんか大声で話すのが聞こえて来て。「全部ばらす」とかなんとか言って。あの、記者会見で内部告発してたあの人の声でした」
「そうなんだぁ。そんなことあるのねえ」
「で、俺、大学時代の友達にルポライターやってるヤツがいて。教えてやったんです。それでそいつがF社を調べ始めて」
「ええ。それも驚き」
「それで、そいつの書いた記事。今回の事件でほかじゃ書けない記事を週刊誌に載せて。本も出すことになったって」
「へぇ~」
ユウコはあっけにとられて、感嘆の声しか出てこなかった。
「で、そいつ、出版社から相当もらったらしくて、俺にも礼にって、けっこうもらっちゃって」
「あら。まあ、素直によかったわねとは言いにくいけど」
「そうですね……。でも、これで、早く店が出せそうだから、うれしいです」
「ん?なんのお店?そういえば前に、ほかにも仕事をしていてそっちが本業だとか言ってたわね」
「ええ。輸入雑貨とか骨董品の店、やりたいんです。で師匠の店で修行してて」
「なるほどねぇ。修行から。目利きにならないといけないもんね、そう言う商売なら」
「ユウコさんが受付の仕事してるときに使ってる髪留め。中国製のけっこういい物ですよね?」
「ああ、そうね。アレはわりと高かった。密かに見られてたのねえ」
「すみません。気になっちゃって。ああ、髪留めがじゃなくて……」
ユウコは立ち止まり、うつむいて照れるスミダの横顔を不思議そうに見たユウコは、やがて、
「ちょっと悪いやつだけど、どこかで夕ご飯を食べない?」
彼女は後方の喧騒を尻目に、ビルの影が伸びる暮れかかった街の、進行方向を真っ直ぐ指さした。
タイトル「鑑定眼」