1話 目が覚めると
溶け爛れた岩石が不気味な明滅を繰り返す。煌々と広がった火は無尽蔵かつ無差別に無遠慮な光をばら撒き、まるで夕焼けのように半夜の空の群青を焼いた。しかし、それでも足りぬとばかりに溶岩は支配地域を拡大する。
ふと見れば、遠くの木に垂れ下がっていた綿製品が突如として燃え上がった。単純な大気温度による発火なのだろうと推測される。耐熱モードをOFFにすればどうなるかなど、考えたくもない。
彼の持つそれに、そこまでの性能は無い。“精神術式”を発動するも、まるで手応えが無い。それらは、最悪の事態が近付いている事を示していた。
「──!!!」
猶予は無い。慈悲などあってはならない。そもそも持つ資格が無いのだから。
「──……!!! …………!!」
声にならない叫びが聞こえる。耳は貸さない。どのみち生かしては置けないのだから。
彼はどう足掻いても救えない。不確定要素が強すぎる。
「……ごめんなさい」
殺す間際に送ったその言葉。彼女が無情に殺めてきた人々が聞けば怒り狂うだろうか? それとも絶句するだろうか? 或いは嘲笑するのかも知れない。
少年の首が飛び、転がり、溶岩へ沈み、数秒後にはボコリと鈍い水蒸気爆発を起こした。
「ああ……」
この世界は──否、前世もそうだった。世界とは本当にクソに塗れている。
運命は過酷──だから努力は報われない。神など存在しない──だから信じても救われない。真の平和など有り得ない──誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている。
それでも空は、空だけは変わらず美しい。またリエルと星を見に行くのも良いだろうか。今度は泣かずに居て欲しいものだが。
「……はあ」
肉の焼ける匂いと木が爆ぜる音を感じるのはこれが初めてではない。しかし、イレギュラーの微調整でこれならば、これから始まる『本番』がどれほど過酷なものとなるのか。アネッテはその熾烈さを予感せずにはいられなかった。
「リョウが転生するまでに、しっかり準備しないと」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢
眠っている時に脳が激しく活動していると疲れが取れないと聞くが、この寝起きの充足感から察するに、あの訓練は脳に負担をかけないものであるらしかった。
微睡みながら目を開くと同時に脳へと飛び込んできた情報は、視覚と触覚と嗅覚。
むにゅんっ
シャリシャリ……
チラッと、視覚で以って改めて現状を確認する。
「えぇー………………」
現実逃避から、リョウは天井を観察する。精神世界で丸二日間叩きのめされただけでも大事件ではあったのだが、そこからの解放後に更なる衝撃が襲い来るとは。いや、ある意味ではリンプファーからの御褒美なのだろうか?
《いんや、これはただの偶然》
(そっすか)
「…………」
服は着替えさせられている。肌触りが非常に心地良いが、まさかシルクではないだろう。
むにゅんっ
シャリシャリ……
男である故、嬉しいといえば嬉しいのだが……
ベッドと…………否、ベッドはとても柔らかい。前世では宿泊施設でもお目に掛かったことのないほどの代物だ。もっとも、高ランクのホテルや旅館などとは無縁の生活であったため、肝心の比較対象は安宿の寝具なのだが。
「…………」
天井は単なる純白ではない。小さな孔が規則正しく穿たれている。恐らく防音目的であろうとリョウはあたりをつけた。
開け放たれた窓からは麗かな春の日差しを感じる。白いカーテンを打ち払いながら侵入してくる生温い風からは、打って変わって爽やかな緑の香りがした。高い階層なのか。青空がやけに広く見える。少なくとも地上階ではないのだろう。
むにゅんっ
シャリシャリ……
「…………なあ。オイ」
シャリ……ふごっ!? ……シャリ……
「そこは、ベッドの横でリンゴの皮を剥いて微笑んでるのがテンプレなんじゃねぇかな」
「ふごっ!」
「この姿勢でも分かるくらい頬膨らんでんな。ゴム人間かよ」
身体を起こすことが叶わないリョウは、部屋の隅で豪奢なソファに腰掛けながら両手のリンゴを口いっぱいに頬張っているアネッテに向かって問いかけた。
「ふごごっ……ふごっお…………ぶふっぷ!」
「よーし分かった。食い終わるまで待ってやる。だから口を閉じろ。リンゴの欠片を飛ばさねえようにな」
「ふごっ!」
幾つかのリンゴの木端がアネッテの口から放たれるが、未だ仰向けの姿勢で拘束されているリョウの視界には入らなかった。
(こいつがリエルと仲がいいってのが謎だ……)
《魔導士で女性ってのが、そもそも希少だからなぁ》
(お行儀良く座ってりゃ美人なのにな……)
《口が本体みてえなもんだろうし、そりゃ無理だろ》
リンゴのシャリシャリという咀嚼音を聴きながら、右腕を抱え込んで眠っている恋人を見る。彼女が身動ぎする度に女性特有の柔らかさが触覚として伝わり、柔軟剤の優しい香りが嗅覚として鼻を抜けた。
(まあ、リエルはいい。そういう関係だし。ただ……)
左腕を抱え込んでいる黒髪の美女。これが問題である。
(誰だ。この女)
《ひ・み・ちゅ》
いつか必ず叩きのめしてやる。
決意を新たにするリョウだが、愛する彼女と同様にリョウの腕を抱え込んで眠っているその女性はあらゆる意味でリエルとは対照的であった。
むにゅんっ
濡れた様な黒い髪色もそうだが、特に対照的なのはその胸囲だ。派手に開かれた寝巻きの胸元からは刺激的な谷間が顔を覗かせている。腕を抱え込まれているというよりは、腕を挟み込まれているとでもいうべき状態である。
「おはよう〜〜リョウくんっ」
「……おはよう」
昆虫に加虐する少年のような笑みを浮かべながらベッド横にまで歩み寄って来たアネッテ。リョウは元気になりそうなアレを隠蔽するため、両足を強く閉じた。これは必要な処置であった。
「深窓の御令嬢と色気ムンムンのお姉さんを侍らせるとか、両手に花だね〜♪ リョウくん♪」
「確かに……いや待て、肝心の左手の花の名前が分からねえんだけど」
とは言うが、リョウも馬鹿ではない。ここまでの状況と流れを察するに、薄々予想は付いていた。
「国家元首の魔王カシュナちゃんだよ〜♪」
「オッケー予想通り」
いやにテンションが高く機嫌が良いアネッテを黙らせるため、敢えて早鐘の如く鳴り響く心拍をひた隠し、ポーカーフェイスで表情一つ変えずに答えた。そのリョウの試みは一定の成果を挙げたらしく、アネッテの高いテンションはみるみるうちに急降下の兆しを見せ始める。
「えー……つまんないなー」
「人で遊ぶな。趣味悪ぃ」
「八時間も一人で護衛してたのになー」
「んん?」
「リエルもカシュナもリョウくんと添い寝しちゃうし! 血みどろの闘いでヘトヘトに疲れてる体なのに、もう丸一日以上活動し続けてる計算になるんだけどなー」
「……ぐっ、先ず護衛についてはありがとう。ただ、ただそれは俺に言われてもどうしようもねえって」
「そこでしっかりとお礼言えるあたり、育ちは良いのかな? 言葉遣いは悪いけど」
「案外、お坊ちゃんなのかも知れねえ」
《つうか、ぶっちゃけて言えば俺のせいだしな》
(んー……それもどうかと思うんだよ……)
そもそも予定外の攻撃が無ければこんな事にはならなかったのだろうし、それは難しいところだろうとリョウは思った。長時間に及んだサディスティックな訓練で時間がかかりはしたのだろうが、訓練の際も言動は軽薄でも声色は真剣そのものだった。恐らく必要なものだったから敢行したのだろう。このバ神のみを責めるのは間違いだろうと感じていた。
「上司のカシュナさんは兎も角、同僚のリエルと交代で護衛するって手もあっただろ?」
「いやー無理でしょー……」
アネッテとリョウが揃ってリエルを見る。その寝顔は幸せそのものだった。
………………
………………
「ああ、(見た目的に戦闘タイプでもないんだろうし)無理だ」
「そう、(この幸せそうな寝顔見せられちゃうともう)無理―」
過程は異なるにせよ、同じ結果に着地した。
「それで? 何で国家元首様が俺と添い寝してんだ」
閑話休題。話を本筋に戻すことにする。
「リョウくんのこと好きなんだって言ってたよ」
吃驚仰天。サラリと爆弾を落とされた。
「いや、冗談にしても──」
「本気みたいだよ?」
「………………マジかよオイ」
「まさか断らないよね?」
そう告げるアネッテの瞳は真剣そのものだった。非常に強い圧力を感じる。少なくとも、冗談や嘘を吐いているようには見えない。
(まさかのモテ期到来……?)
《やったな兄弟!》
(そりゃ、嬉しいっちゃあ嬉しいけどよ……)
不信感しか抱けないリンプファーの反応はさて置き、リョウは目の前の問題に踏み込んだ。
「いや、俺、ほら…………リエルを幸せにしたいなーなんて思ってんだけど。浮気は不味いだろ?」
「浮気? キィトスにしろ何処にしろ、一夫多妻も多夫一妻もオーケーでしょ?? それが常識として出てくるって、リョウくん本当に何処の生まれ?」
「俺が知りてえくらいだよ……」
動転しながらも正しい答えを返す。記憶喪失のフリも楽ではない。
どうでも良いが、多夫一妻となると離婚時の親権はどうなるのだろうか。
「……確かに綺麗な人ではあるし、男として嬉しい申し出だよ。ただ、出自も分かんねえ俺みたいなのがそんな関係になっちまうのはマズいだろ」
十二人の頂点の一人と付き合うだけでもそれなりのプレッシャーがのしかかっているのだ。国家元首と恋仲になるなど、想像するだに恐ろしい。
そもそも、リエルに手を出したことを叱責される可能性すら考えていたのだ。斜め上の展開にしても程がある。
「カシュナが良いって言えば、なんでもオーケーになるよ。大丈夫大丈夫っ」