4話 ハロー異世界
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(もっとスマートな方法ねえのかよっ! クソが!!)
悪態を吐くリョウだったが、“ソレ”は直ぐに始まった。
(──ん? 右手が…痛……?)
右手にチリッとした違和感を感じ、見れば右手の爪が数枚剥がれている。人間は怪我をした事に気付かなければ痛みを感じないと聞いたことがあったが、まさかそんなレアケースが自分の身に降りかかるとは思っても見なかった。
そしてその場合、痛みは気付いた瞬間にやって来るのだが──
──その前に、右手首から先が千切れ飛んだ。
「がああああああああああああっ!!!!」
先程の爪の様なお上品な暴力ではない。例えるなら、圧倒的な力で引き千切られたような──そんな激痛に、リョウは先の無い右腕を抱く様に抱え込んだ。荒く浅い呼吸を繰り返しながら辺りを見渡す。
木の葉のように舞った右手は、もう彼方へ消えてしまった。
「ハァッ…ハァッ…痛え…くそッ! 何が──」
奇妙な事に、血は出ていないようである。痛みに顔を顰めながらも傷口を観察しようとし──
──左足がひしゃげる。右耳が捻じ切れる。体内は掻き回され、左腕が擦り下ろされ、右腕上腕は圧搾された。
「──────!!!!!!!!!!!」
痛覚など、四肢と同様、既に消し飛んでいる。この感覚には覚えがあった。今回は出血こそしてはいないが、全身の血が噴き出た時と同様、命が消える感覚。心が闇色に侵食される。微睡みにも似た安らぎ。
誰の言葉か、思い出される前世の記憶。恐らくは最後の言葉。
『…うそつき』
(……うそつ……き? 誰……が? 俺…が?)
神様の言うところの“世界”はもう目の前まで迫っていたが、リョウにそれを視認する術はない。両眼はとうに眼窩から抉れ飛んでいた。
“世界”の壁に触れ、突き抜ける。
最早、自分が人間の形を保っているのかすら判然としないリョウだったが、何か……薄い幕のような物を通過した事だけは漠然と理解出来た。
襲い来る衝撃に、しかし痛みは無い。
目的地なのかは分からないが、何処かに激突と言う名の着地をしたらしい。本来ならば、痛みにのたうち、転げ回るのだろう。だが、既に全身を痛めつけられ、四肢は消し飛ばされた。感じる痛みはとうに飽和している。
(……とにかく、動けねえし…休むか……神の野郎…さっさと、助けろ………)
このまま死ぬのではとも思ったが、動けない以上出来ることは何もない。素直に神頼みをし、意識を投げ出した。
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それは彼女の住処の一つ。セキュリティ上の観点から、窓どこるか、ドアも無い立方体。
少ないながらも来客がある部屋なのだからと、親友の薦めるままに高価な家具を買ってはみた。だが、窓からの景色すらも無い閉鎖的な部屋では、付け焼き刃のリフォームはかえって空虚さを際立たせるだけだった。
中央部には一目で高価と解るキツネ色の絨毯が敷かれており、部屋の中央部には来客用の小さな机が一つ。それを挟む様に配置されたソファが二つ。そのソファを囲む様に備え付けられた換気用魔具が四つ。四方の壁は白い壁紙が貼られており、その一辺には彼女専用のデスクが置かれている。
デスクで報告書を確認すべく席に着いた彼女だったが、眼前のソファをチラリと見つつ、わざとらしく溜め息を吐く。
正確には、ソファにふてぶてしく仰向けに寝転がり、板チョコを齧っている部下を、である。
魔王直轄の魔術士。国内に存在する六十万人の『魔』術士を『導』く十二人の頂点──“魔導士”。彼等の社会的地位は高く、魔王直々に広大な地区と莫大な給与が与えられる。彼等の素性は隠蔽されており、儀礼の際には専用のマントとヴェールを身に付ける。全魔術士にとって憧れの存在であり、目標である……が、所詮、魔王の部下である事に変わりはない。
だと言うのにこのくつろぎよう。魔王たる自分を前にして、儀礼用のヴェールを被り続ける怠惰。こんな態度を取れる人間は魔導士でもこの女くらいのものである。
だが、悪い気はしない。
彼女は──アネッテ・ヘーグバリは数百年来の親友である。人の目のある場所では礼儀正しく振る舞う程度の分別はあるのだし、この巫山戯た態度も大目にみてやろうかと思う。
もしも他の魔導士共の前でこの態度をとるのなら、立場上罰せざるを得ないのだ。いくら彼女が魔王の懐刀と認知されていようとも、それを放置すれば魔王の沽券に関わり、延いては国の根幹を揺るがすだろう。
仕方のないやつだ。そう思いながら報告書を見遣る。大目にみてやろうと思うのは、この報告書が理由でもあった。
面倒臭がりな彼女は、主に口頭での簡素な報告を好む。だというのに報告書を纒めてきた上、この分厚さである。
『彼』の行方が分かったのか、分かる日が近いのか、大きな手がかりを得たのか、それとも任務の重要性を理解してくれているという事なのか。何れにせよ、面倒臭がりな彼女が本気で取り組んでくれているのだ。十数センチはあるだろう分厚さの内容が気になるところである。
表紙である一枚目には、デカデカと『極秘任務報告書』と書かれている。それなりに凝った字体であったが、堪能せずにページを捲る。一刻も早く報告内容を確認しなければならない。
「………………………」
「ポリパリコリコリ………」
アネッテは、上顎を作用点に板チョコを割り、咀嚼している。
魔王はページを捲る。
「…………………オイ」
「ポリパリコリコリ………」
アネッテは、自身の歯を支点に板チョコを割り、咀嚼している。
魔王はページを捲る手を止める。
「この、『わかんなかった』という文面は……何だ?」
「行方わかんなかったから」
「成る程。では、残り八百ページ………随分と薄い紙を使ったようだが、これ全てに何も報告が記載されていない理由は?」
「右下」
「あ?」
「右下見て」
「あぁ?」
白紙の紙。その右下を見ろと言う事だろう。
ペラリ
「ほう………」
ペラペラペラペラペラペララララララララッ
「ほぅ………………?」
報告書を閉じ、問い掛ける。彼女の真意を知らなければならない。
「この短い文面を、わざわざ報告書にした理由は?」
「短い口頭の回答じゃマンネリだったのかなって。こないだ進捗無しって口頭で伝えたら怒ったじゃん」
「伝達方法より伝達内容に問題があったんだが……とは言え、日常の業務に変化をつけるのは正解だ。下部組織に奨励しておくとしよう。だが、右下にパラパラ漫画を描いた理由は?」
「趣味」
「新しい趣味に目覚めたのか? 親友。ところで、頭部が私そっくりな怪獣同士が、戦闘を繰り広げているんだが………この内容も趣味の一環か?」
胴体は犬、顔は人間という都市伝説上の生き物を人面犬と呼ぶ。色々な設定があるこの人面犬だが、一貫して共通しているのは、その気持ち悪さである。手に汗握る大乱闘を繰り広げる人面怪獣は、その無駄に高度な絵心も相まって、なんとも形容し難い気色悪さを放っていた。まさしく件の人面犬を彷彿とさせる。
頰とこめかみをピクピクと痙攣させつつ返答を待っていた魔王だったが、それを笑いを堪えているとでも思ったのか、アネッテは満面の笑みでこちらを見遣る。
ついでとばかりに、自身の右手親指以下四本──小指だけはピン!と威勢良く天を衝いている様子だが、その四本の指を力点に板チョコを割り、咀嚼しながらのたまった。
「いや? おちょくってるだけ(笑) なに真面目に応対しちゃってんの馬鹿みた──『キュポンッ!』──ぬぅわぁ!?」
忍耐の限界値を超えた魔王は、“術式”をアネッテに叩き込んだ。
キュポンッ!という小気味良い音は、無数の石片がアネッテの眼前に現れた音。「ぬぅわぁ!」とは悲鳴である。念の為。
あらゆる破壊的効果を帯びたそれら大小様々な石片は、ソファごとアネッテを蜂の巣とした。親友に対する仕打ちとしてはあんまりだが、この程度では傷一つ負わないだろうという彼女への信頼があってこその行動である。
億が一に、手足の一本でも剃り落とせるのなら、それはそれで良い。溜飲は下がるのだし、肉片さえあれば治癒は容易い。
果たして、彼女は無傷だった。今や原型をとどめていない、ソファだった物の向かいに備え付けられた無事なソファで仰向けに寝転がっている。先程と同じ構図だ。ご丁寧にも、新しく板チョコも用意したのだろうか、数秒前と同様にボリボリと頬張っている。
(若しくは、初めからあのソファに居なかったか……?)
恐らく、始めに話していたアネッテも、或いは今見えているアネッテも、虚像なのだろうと推測できる。本体はこの部屋の何処かでくつろいではいるのだろう。威力と範囲を上げれば炙り出せるのだろうが、部屋ごと爆砕するのは雅に欠けるというものだ。
舌打ちを一つ打ち、椅子に深く腰掛ける。
「冗談はさて置いて、実際には進捗があったんだろう?」
「やっぱ分かるか。アルケー教…って言うか、リエルから連絡」
アネッテはチョコを全て砕き飲み干して、正しくソファに座り直し、告げた。
「『彼』が復活する。ただし、記憶は完全じゃないって。それと──」
「………それと?」
「リエル、惚れちゃったって」
………………
「はあ?」