30話 一夜明けて
その女は奔走した。
幾度もひしゃげ、潰れそうになる己の心を叱咤しながら。
迷い、疑い、殺し、壊し、信じ、走り、創り、騙し、叫び、漸く──終えた。
だが、これは彼女の理想の第一歩に過ぎない。
二歩、三歩、四歩と、永遠に続く──続く筈だった日常の、彼女にとって僅かに一歩。
必ず。
今度こそ。
二度と離さない。
二度と、あんな──
その為の////////年。
ああ……
何年走り続けたのかすら、もう思い出せないとは。
………………
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
二つある扉の一つ。
僅かに。
ほんの僅か、記憶の扉に傷が付いた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「ん……」
夢を見ていた気がする。
寝惚けた眼に、見慣れない木目の天井・慣れない枕の感触・大き過ぎる布団・広縁からは朝日が差し込む。お前が住んでいた安アパートではないのだと、お前は死んだのだと、これらが非日常を痛い程に叩き付けて来た。日常どおりなのは、パンツ一丁な事くらいだろうか。
(まあ、別に良いんだけどな……それよりタバコどこだ……)
毎月百時間近い残業には嫌気もさしていた。此方の世界ではリエルが仕事を紹介してくれるらしい。まさか彼女の紹介でブラック企業だなどということはないだろう。ところでタバコは──
(つーか昨日は何時に寝たん………ッチ! そうか。タバコは止めたんだったか)
再び辺りを見回してから、////から涙ながらに訴え掛けられ止めざるを得なかったのだと思い出す。前世終盤ではほぼ喫煙欲求は無かった筈だが、記憶を幾らか抜いた弊害だろうか? 若干の口の寂しさを感じる。
「無えモンは仕方………………ない…………あれ?」
全身から噴き出る汗を感じる。
(何だ? 今、俺は、何だ? 何を考えた? 誰の名前を思い浮かべようとした???)
大事な何かを忘れている気がする。
心臓の鼓動が喧しい。
耳鳴りがする。
酷く寒い。
痛い。
「………………………………………………あ「リョウさん」
………………
いつの間にか頭を抱えていたらしい。面を上げるとショーツ一枚のみを身に纏った、絶世の美少女がそこに居た。
彼女の髪は微かに湿り気を帯びている。
「…………リエル。おはよう」
寝惚けと錯乱から解放されたリョウの眼に、余りに扇情的な姿のリエルが飛び込んで来る。それと同時に昨晩の行為が想起され、色々と恥ずかしくなって顔を背けた。先程までの頭痛と疑念は、綺麗さっぱり溶解していた。
ついでに昨晩使ったグラスも洗って来たのだろう。顔を紅く染めながらもテキパキと事も無げに虚空から冷えたお茶を用意するリエルを見て、どうしようもなく情欲が高まる。
リョウはリエルの横に座り、その四肢を、白く長い髪を、慎ましい膨らみを、照れた紅い顔をチラチラと見ていた。するとそれに気付いたリエルは太腿・肩が共に密着する程に距離を詰めて座り直し、逆に此方を上目遣いで見つめ返す。
(あ、ダメだ。押し倒そう)
アレやコレを辛抱できなくなったリョウは、花を愛でるようにそっとリエルの頬に手を添えた。
リエルはそこに手を重ねると、愛しい人の手をゆっくと撫で回す。彼女の瞳には、この先の行為を期待する、爛れた熱が揺蕩っていた。
リエルに向き直り、先ずは口付けを交わさんと肩を「リエルー!!(バァン!)おっはよーーーーーーー朝だよぉぉぉぉぉぉ…………??」
………………
軍服調の制服に身を包んだ茶髪に糸目の女性が、顔に笑顔を貼り付けたまま固まっている。外向きにハネたショートボブの毛先は扉を開けた反動でふわふわと空を切り、彼女の天真爛漫さを一層際立てていた。
……こんな状況でなければ、美しい女性だとでも思ったかも知れない。
そう、リョウとリエルは、ほぼ全裸で口付けを交わす一秒前の姿勢で固まっていたのだ。
数瞬ではあったが、確かに、刻は止まっていた。
「キ──」
「「……キ?」」
雌の顔をしていたリエルの表情がみるみる崩れ出し、茶髪女とリョウの声と視線が重なる。刹那、リエルは彼女に五指を指し向け──
ヴォン……と、リエルの指先に数十の球体が纏わり付くと──
「危ぶぶぶっ!!」
──悲鳴を上げつつ、魔術を解き放った。
ッバァン!!!! メガシャアアアッ!!!!
「──ャアアアアアアアアアアッ!」
「「うわああああああああああっ!」」
解き放たれた球体が(恐らく音速を超えたのだろう)妙に甲高い音を立てたと感じた瞬間には出入り口近辺に無数の穴が開き、ドアに至っては消し飛んだ。風通しの良さを採点するなら文句無しの満点である。
「ヒィィィィ……」
「……キ?」に続いて悲鳴までも被った茶髪の女は頭を抱えて蹲り、ヒィヒィと息を荒げていた。リエルの知り合いのようだし、良い友好関係を築くことが出来るかなあなどと、リョウは呑気なことを考える。
兎にも角にも沈静化すべく、リエルを強く抱き締めた。
「あぅ……」
「リエル。彼方の方は……」
改めて着弾点を見るが、酷い有様である。一点から拡散的に弾丸を撒き散らされた魔術は、大別すればショットガンだろうか? 直径三センチ近い無数の風穴が開く貫通力を、その一言で片付けて良いのかは分からないが……
「んんっ(もぞもぞ)ええと…………私の、友人です」
「キィトス国軍の?」
「は、はい(もぞもぞ)」
チラリと横目で流し見る。渦中の女は床に這い蹲っているのだが、自身を守るように薄緑色の膜が展開されており、その内部は破壊から免れていた。これがリンプファーが話していた防御術……或いは、それに類するスキルだろうかと当たりを付ける。
「名前は(もぞもぞ)アネッテ・ヘーグバリです。私は(もぞもぞ)アネッテと呼んでいます」
より深く触れ合おうと、リエルが身動ぎしながら距離を詰めて来る。可愛い……
それに応えてやろうと、背中を撫でつつ──
「ちょっとー……いちゃつかないでもらえますー?」
「「………………」」
お互い我に返り──
「「すいません」」
──同時に謝罪をした。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
アネッテは手をパンパンッと打ち鳴らし、ピンク色の空気を払拭しながら告げる。
「自己紹介云々は後にしてさー、寝癖付いてるってことは、身支度は未だだよね? なら取り敢えずシャワーでも浴びて来ちゃいなよ! その間に大まかな事情はリエルから聞いておくし? ま、ほぼ予想通りだと思うけどねー」
夜中のアレコレから一夜明けた早朝……リョウには早急にシャワーが必要だろう。
「すいません。忘れていました……リョウさんの着る衣類は脱衣籠に用意してありますので、今日からは暫くそちらでお願いします」
「何から何まで悪いな。リエルも疲れてるだろうに」
「い、いえ、その、体力には自信がありますし、その…………ですので、リョウさんがしたいのでしたら、毎「リエル。俺も「もういいからさー! キミもさっさとシャワー浴びて来て!! 空気が甘ったるくて堪んないから!!」
いつまでも半裸でアネッテの前に居続けるのも拙かろうとも考えたリョウは、「シッシッ!」とされるがままにそそくさと脱衣所へ退散した。名残惜しむようにリエルを見れば、アネッテに渡された浴衣に着替えていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
それから僅かに数秒後。
脱衣所の扉が閉められると同時、アネッテは基本色数四十の『紺壁』を発動し、彼我の音を寸断する。
なにも聞こえては来ないが、万全を期す為暫く待つ。
一分……二分……三分……
…………………………
………………
アネッテは、リエルを強く強く抱きしめた。
「リエル…………よく!! よく、ここまで頑張ったね…………!」
「っ……! はい…………!」
アネッテがリエルの頭をそっと撫でると、お互いの瞳から大粒の涙が溢れ出た。
「ですけど、イレギュラーがあ「いいからっ!!!」
リエルの言葉を遮ったアネッテは、ゆるゆると首を振る。
「いいから……私達がなんとかするから。だから、リエルは、今は、幸せにならなきゃだめ。五百年も待ってたんだから。お願いだから…………」
その提案は魅力的に思える。
叶うなら夢のような心地なのかもしれない。
だが、リエルは現実を追い求める。
二度と離さないために。
夢を見ないのではない。夢を現実に引き摺り下ろすために、この腐った現実を直視するのだ。
「アネッテ、私は──」
《気持ちは分かるけどよ。兄弟が居ねえ間なら良いだろ?》
突如現れた無粋な声色。人を食ったようなそれは、アネッテの神経を強く逆撫でた。反論を奏でようとするアネッテだったが──
「リンプファー! 少しくら──い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛!!??」




