26話 どこかの空間と風呂場
見渡す限り白い空間。遠近感が狂いそうになるその場所で、彼は静かに主人の帰還を待っていた。そして、その予兆を感じ取り端正な顔に喜色を浮かべる。
それと同時。空間に黒い歪みが生まれ、中から黒衣の男が歩み出る。
「お帰りなさい! アーク様っ!」
黒い歪みからは風が吹き込んでおり、それはアークの黒衣を乱暴にはためかせた。そのあまりの神々しさに、彼は更に愛慕を募らせる。
付き従う彼に顔も向けず、おざなりに頭を撫でながらアークは歩みを止める事なく告げる。
「シュラバアルの『平等の旗』を三一八小隊が攻撃する。それに際し、シュラバアルの市民を殲滅しろ…………できるな?」
「えへへへへへ…………ハッ!? で、できます!! このノルン! 一人残らず仕留めてご覧に入れましょう!!」
器用にも歩きながら手に頭を押し付け、ふやけた顔をしていたノルンは我に返ると、両腕前腕部を後ろ腰に交差させる──異世界式の敬礼をしながら答えた。
「準備に割ける時間は一時間だ。戦闘時間を考慮するとそれ以上は運命値に障りが出る。殲滅後にノルンはクアン・ジージーと交戦、他三戦力には別の者を応戦させる」
「……『別の者を』ですか」
忠犬たらんとするノルンにしては、珍しく不満げな声色である。「自分一人で充分だ」という気持ちが、ありありと感じられた。
「魔導士を圧倒する貴様なら、クアン・ジージー以外なら片手間で勝利できるだろう。だが、目的は別にある。三一八小隊の力の底上げだ」
「あれ? 三一八小隊って……まさか!?」
「それはまだ先の話だ。だが、救いの時は近い…………む?」
アークは唐突に立ち止まり、何かを考え込む様子を見せた。ノルンは目を輝かせながら、憧れの眼差しでそれを見つめる。
「満を持して……か」
「???」
「三一八小隊は未だだ。その代わりでは無いが、彼女の治療を始める。錯乱されても面倒だ。手の空いている女を二人連れて来い」
「!!!」
ノルンは再び目を輝かせた。やはりアークは違う。扱う言語と、生えた手足の数こそ同じだが、自身の暮らしがどのような犠牲の上に成り立っているのかすらも理解しようとしない蟲共とは違う。アークは世界に見捨てられた哀れな人間を救うのだ。この方こそが、蟲が這いずり腐臭を放つ世界に舞い降りた唯一の希望──救世主なのだと。
「確かルーとエル姉が暇そうにしてたから、連れて来るね!!」
狂信とも恋慕とも呼べる感情を湛えたノルンは、アークの一挙手一投足全てを好意的に受け取る。
救世主は、市井人の殲滅など命じないというのに。
救った悲劇より、生み出した悲劇の方が遥かに多いというのに。
一刻も早く主人の望みを叶えるべくノルンは強化術で体を保護し、渾身の魔術で床を蹴った。
「リンプファー…………貴様は付いて来ることが出来るか…………?」
その背を見送りながら、アークは呟いた。
マイナスから始まった戦いも、いよいよ整合の時が近い。
逆転が始まろうとしていた。
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脱衣所は純和風とは言い難かったが、全体的に木材を使用しており、暖かみがある。ともすれば無機質に感じられる収納スペースも編みカゴを使う事で演出に一役買っており、玄関ホールと同様、非常にリョウ好みの雰囲気であった。
ガラス張りの扉越しに浴室を覗けば底の浅い洋風バスタブが。その先のガラス越しには、小さな庭園で風に揺れる竹林が見えた。『和洋亜折衷ここにあり』と言わんばかりの設計に、小市民のリョウは感動を覚えていた。
洗い場も設備が充実しており、日本の公共浴場に備え付けられている物と遜色がないように見える。
「すげえ……」
コンッコンッ
脱衣所のドアをノックする音が聞こえる。
「リエル? どうした?」
「あの……入っても大丈夫ですか?」
「ああ、まだ着替えてないから大丈夫」
「ええと、失礼します……」
白い浴槽故に分かり難かったが、目を凝らせば薄い乳白色の湯が満たされているのが見て取れる。
(いくらなんでも温泉をタンクで注いだとか言わねえよな……)
しかし、浴槽に湯を入れる機構が見当たらない。まさかまさかとおずおずとガラス戸を引くと、若干の硫黄臭が鼻についた。果たして大当たりであるが、浴槽への痛みは考慮されているのだろうか。
「うーわ……すげー……本物かよ」
「ま、魔術で違う効能のお湯を入れる事もできますから